ロシアンルーレット2

 あの日、電車の中で彼と初めて言葉を交わしてからも、俺たちの関係は何も変わらずにいる。相変わらず俺は、名前も知らないあの人と毎朝同じ電車に乗り、そのきれいな顔を眺めているだけ。あの人は俺の方を見もせずにイヤホンから流れる音に耳を傾け、俺がこうして見ているのを知っているくせに、まるで知らんぷりだ。


 これでも一度は、話しかけようと努力をしたのだ。

 あの後、初めて近くのポジションを取れた時、俺は心臓が破裂しそうなぐらい緊張しながら、勇気を振り絞った。


「あの、名前、教えてもらえますか?」


 まず手始めにそんな無難なところから入り込んで、徐々に親しくなれればなんていう甘っちょろい計画だった。

 彼は一瞬、俺に目を向けた。イヤホン越しにも俺の声はちゃんと届いているらしい。あれ以来初めて俺の方を向いた視線に胸が躍る。

 けれど彼の返事はたった一言。


「嫌だ」


 それだけだった。

 まさか名前を聞いただけで、嫌だという反応が返ってくるとは思いもよらず、計画は丸つぶれ。この後どうしたらいいのか、頭の中ががぐるぐるになる。


「えと…その…あ、俺は、春山達樹と…」

「別にお前の名前知りたいなんて思ってないし」


 俺が名前を言い終わるのも待たず、俺の言葉にかぶせるようにして、彼は興味なさそうに呟いた。

 なんという冷たい突き放し方だろう。俺はもうそれ以上何も言えなくなる。

 この人には、俺と会話しようという気がないのだ。そう悟らずにはいられなかった。


 それでも、俺は彼が好きで、性懲りもなく同じ電車に乗り続ける。彼も、その電車のその場所に乗ることは変えず、俺はそこに乗りさえすれば毎朝必ず彼に会えた。

 俺は、こうしてただ見ているだけならば許されるのだと勝手に解釈することにした。本当に迷惑ならば別の車両に変えるだろうと、自分本位なプラス思考で。

 冷たい態度だけれど、全身全霊で俺を拒絶しているような感じはしないのだ。どこか受け入れられているような気がする。きっと、俺の気のせいだろうけど。




 彼とは学校も同じはずである。学生服の詰襟のところについている校章が俺のものと同じだ。けれど、学校で彼を見かけたことはまだ一度もない。

 学年ごとに色が異なる校章は彼が3年生であることを示していて、1年の俺とは学年が二つ違う。学年ごとに校舎が別れているうちの学校では、学年が違うと出会うことがほとんどないのだ。1年生が3年生の校舎にいくことなんて、まずあり得ない。3年生とふれあう時なんていうのは、部活動か学校行事か、あるいは唯一共通使用の特別教室棟で偶然すれ違う場合ぐらいしかなかった。

 だから俺は、それ以上の彼の素性を知ることができずにいた。何かのきっかけさえあれば、もう少しお近付きになることも可能かもしれないのに、そのきっかけがないままに、あれから一月ぐらい過ぎていた。




 その日は全学年揃っての合唱コンクールだった。高校生にもなって合唱かよと、かなりだれ気味で参加していたのだが、3年生の発表になると別人のように真剣に、目を皿のようにして舞台上を見つめた。この中にいるだろうあの人を見つけるチャンスなのだ。クラス対抗なので、見つけられれば彼が何組なのかという新事実が発覚する。

 きっと、合唱なんて真面目にやらないんだろうなと勝手な想像をしつつ、もしやさぼりで不参加なんじゃないだろうかと不安にもなる。

 そうして3年生最後のクラス、7組の発表で、俺は目を奪われた。いや、多分それは俺だけでなく、その場にいる大多数の人が。


 人前で歌う姿なんて想像できないと思っていた彼は、歌ではなく伴奏のピアニストとして舞台上に登場した。見なれた左足を少し引きずる歩き方で舞台に上がった彼は、嫌々やらされていますといった態度を丸出しでグランドピアノの前に座る。そして弾き出したそれは、素人の俺が聞いても、今までの伴奏者とは桁違いの上手さだった。

 音楽科があるわけでもないうちの学校の、少し手習いをした女子なんかとは比べ物にならない。同じピアノだというのに、音そのものが違って聞こえるのだ。


(何?あの人、もしかしてすごい人?)


 イメージと全然違う意外な特技に目を丸くしていると、隣に座っていた萩原が顔を寄せてきた。


「すごいよなあ、皆川先輩。音楽のできる男ってカッコイイよな」

「萩原、あの人知ってるのか?」

「俺、地元同じだもん。近所じゃ結構有名人だよ。中学生でなんとかっていう有名なコンクールで優勝したんだって」

「ほんとかよ?なあ、あの人、なんて名前?」

「皆川千草。女みたいな名前が嫌いらしいよ?」


 まさかこんな身近にあの人につながる糸があったなんて。でかしたぞ、萩原。俺は心の中で拍手喝采しながら、千草の演奏に意識を集中した。

 相変わらず嫌々なムード全開で、全然本気で弾いているようには見えないのだけれど、さらりといい音を出す。真面目に弾いたらどんなにかすごいことだろう。でも、千草が真面目にピアノを弾いている様は、あまり想像出来なかった。見た目だけなら綺麗でとても様になると思うが、あの性格がどうにも俺の貧相な想像力の邪魔をした。




 そして、その数日後、もっとすごいチャンスが訪れる。

 俺の鞄の中に、陸上部の先輩である橘の教科書が紛れ込んでいたのだ。橘のクラスは3年7組。そう、千草と同じである。

 この絶妙なタイミングは、神様が俺に味方しているとしか考えられない。

 これはもう、届けにいくしかあるまい。これほどに頼もしい口実は、これを逃したらもう現れないだろう。


 俺は覚悟を決めて3年生の校舎へ足を踏み入れた。一人だけ違う色の上履きが浮いてしまっているようで落ち着かない。

 教室の中にいるであろう千草に声をかけることが、はたしてできるだろうか。電車の中では挫折したけれど、環境が違えば反応も違うかもしれない。そんな淡い期待を胸に、俺は目的の教室をのぞいた。

「橘先輩」

 俺は少し声を張り上げて、教室の中の方にいた橘を呼ぶ。こんな風に簡単に千草のことも呼び出せたらいいのに。


 橘に教科書を渡しつつ、俺は千草の姿を探した。怪しまれない程度にちらりちらりと視線を走らせ、そして見つけた。今俺がいる扉とは反対の教室後方のドアのすぐ脇で、一人座って本を広げている。

 ラッキーだ。今日は本当についている。なんて声をかけやすい絶好のポジションにいてくれるのだろう。

 なんだかすべてがうまくいくような、そんな錯覚にさえ陥る。何もかもが俺に味方しているみたいだ。


 橘に別れを告げた俺は、何気ない素振りで教室後方のドアへ近付いた。閉まっていたドアを少しだけそっと開けると、目の前に千草の姿がある。

「皆川千草さん」

 小さな声でこそっと呼ぶと、読んでいた本から目を上げて、千草がこちらを振り向く。俺の姿を認識すると、彼の目が驚きに見開かれた。そんな千草の反応が妙にうれしい。


「おまえ、同じ高校だったのか」


 俺も毎朝同じ校章をつけて歩いているのだが、そんなものには全く気付いていなかったらしい。向こうは俺に興味があるわけでもないのだから仕方がないけれど、少し悲しい。しかし、それよりも、普通に言葉をくれたそのことが天にも昇る気分で、そんな些細な悲しみなどすぐに忘れ去ってしまった。


「合唱コンクールでずいぶん目立ってたんで、やっとここにたどり着きましたよ。名前も友達からゲットしちゃいました」

「ああ、あれ…」


 千草は嫌なことを思い出したという顔をする。いきなり名前を聞いたことといい、どうも俺は彼の地雷を踏んでしまうらしい。また突き放されるだろうかと少し身構えたが、今日の千草は機嫌が良いようで、やっぱり今日の俺はラッキーなのだ。


「1年、か。二つも年下じゃないか」


 千草は俺の上履きの色を確認し、それから俺を見上げる。


「デカくてすいません」


 多分そういうことが言いたいんだろうと察知して、俺は頭を掻いた。背が高く、顔も大人びているから、昔から年齢は上に見られることがほとんどなのだ。

 けれどそれはまたしても地雷だったみたいで、きつい視線で睨み付けられた。自分が大き過ぎるのだと思っているので、俺からしてみたら標準の人も標準より低い人もみんな「普通の人」なのだが、千草は背が低いことを気にしているタイプの人だったのかもしれない。そんなに極端に小さくはないと思うのだけれど。


「で、こんなところまで何しにきたの?」

「橘先輩に用事があって来たんですけど、あの、千草さんがいたので声をかけてみようかなと思いまして…」

「なに勝手に名前で呼んでんの?」


 静かに立ち上がった千草は、俺の胸ぐらをぐいとつかんだ。下から見上げられる視線だが、その鋭さに思わず怯む。小さくて、きれいなのに、この威圧感は何なのだ。


「ご、ごめんなさい」


 なぜこんなに地雷ばかり踏んでしまうのか、自分の愚かさが腹立たしい。怒った顔も好きだったりするのだが、怒らせたいと思っているわけではないのだ。


「おまえさ、デカイくせにビビりすぎ」


 怒っているかと思っていた千草は笑っていて、俺は何がどうしたのか分からなかった。前の時も、似たような展開だった気がする。怒っているのかいないのか、千草の気持ちがわからない。

 もしかして、からかわれているのかな。

 そう気付いた時にはもうチャイムが鳴っていた。


「お子様がいつまでもこんな所うろついてるんじゃないよ」


 千草は俺の服を掴んでいた手を離し、俺を教室の外へ押しやった。

 1年の校舎は遠い。俺は慌てて千草に頭を下げた。


「じゃあな、タツキ」


 俺が開けたドアをぴしゃりと元通りに閉めた千草がそう言ったのが微かに聞こえた。多分、聞き間違いなんかじゃなく。


(俺の名前、ちゃんと聞いててくれたんだ)


 興味などないと言ったくせに。

 これでも案外俺は気に入られているのかも、なんて思うのはいささか自信過剰すぎるだろうか。

 うれしくて、うれしくて、俺は廊下を全力でダッシュする。陸上部短距離選手の本気は、かなり周りに迷惑で危険だろうけれど。


 話ができたことも、名前を呼んでくれたことも、こんなにもうれしい。

 拒まれようと、もっと話しかけていれば良かった。

 もっと千草と話がしたい。もっと、親しくなりたい。


 明日からは電車でも話しかけてみよう、そう心に誓った。機嫌が悪い時には冷たい返事が返ってくるかもしれないけれど、それもまた一興。嫌われているわけではないのだと分かってしまった俺は、もう無敵だ。



<終>

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