半笑いの幸福

サンダルウッド

2018年4月26日(木)

第1話「愉快な情景」

 インターフォンを押しても反応はなかった。


 ジーンズのポケットから鍵を取り出し、鍵穴に挿入する。ガチャッという無機質な音が、眠気と疲労でふわついた脳を刺激する。


 母は、リヴィングのソファーに転がっていた。

 その横のダイニングテーブルには、空になったウォッカの瓶とショットグラスが同様にして乱雑に転がっている。グラスに数口ぶん残っていた――と推察される――ウォッカが、オーク材の滑らかな木目もくめに締まりのない染みをつくっていた。予想どおりのシチュエーションが、私の半笑いを誘う。


 真っ黒なショートパンツからは、よわい五十とは思えない愉快な情景が広がっていた。絶妙に豊麗ほうれいな太腿と尻は、特に母自身も誇りにしている部位だ。その無防備な偉観を目の当たりにして、肉親でなければ襲いかかっていたかもしれないと思った。


 自室に入って荷物を置き、ジーンズを脱いでハンガーにかけ、箪笥たんすから下着と部屋着とバスタオルを取り出す。カーテン越しにもれる陽射しが眩しく、額に手の甲をかざした。


 再びリヴィングを通って奥の脱衣場に行き、衣類を置いた。

 手洗いとうがいをしたあと、服を脱いで洗濯機に入れ、アリエールのキャップに手をかける。しかし容易に動かず、外れたかと思えば根もとからまとめて取れてしまうというのは、なにも今回に限ったことではなかった。前回使ったときにきつく締めすぎたのかもしれないが、それ以上に、昨日の夕方から今朝にかけての闘いにより体力を消耗したことが主たる要因だろう。

 液体洗剤の分量にはこだわりたいたちなので、根もとを締めて仕切り直す。いったん洗濯機からハンケチを取り出し、その上から再度試した。それでも多少苦戦したものの、どうにかキャップのみを外すことができた。いい大人が全裸でなにをしているのかと、またも半笑いを浮かべた。


 今回の夜勤は過酷だったなと、私は中途半端な熱さのシャワーで洗髪をしながら思う。


 滞在利用者数が五名や六名の福祉施設など、日本中を回ってもほとんど存在しないだろう。あれこれかこつなどもってのほかで、辺鄙へんぴな場所で本当の過酷を味わってみろと同職種の他人が激憤する様子を容易く想像できる。

 だが、しんどいものはしんどいのだ。今の施設しか経験のない私には、昨夜から今朝の十数時間は充分過ぎるほどの地獄だった。


 手に力が入らないだけでなく、腕や足も疲労していた。多大な外傷や通院の必要こそないものの、あざや傷は数多く、筋肉痛も発症している。およそ一日半もの間入浴していない夜勤明けは普段に増して念入りに洗わねばならず、なかなかの重労働だ。


 二十分ほど、上から下まで念入りに洗って浴室を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る