《西暦21517年 薫2》その二


 ようやく、二階の床の高さまで来る。

 目から上だけ出して、のぞいてみた。

 目の前に水魚のうしろ姿があった。あまりにも近かったので、ギョッとする。いったん頭をひっこめたあと、もう一度、顔をあげた。


 水魚がジャマで相手が見えない。

 水魚は立ったままだが、相手はその近くにしゃがんでいるようだ。


 泣き声には、やはり聞きおぼえがある。

 そう。この人は意外と泣き虫だ。

 さみしがりやなせいかもしれない。


 ——と、水魚がかがんで、相手の背中を抱いた。

 これで薫にも相手が見えた。

 その人は畳に両手をついて、うつむいている。前髪がたれさがって顔は見えないが……涙が大粒のしずくになり、次々と畳の上にこぼれおちていく。


「泣かないで。君に泣かれると、つらい」

「水魚……」


 その人は顔をあげ、水魚を見つめる。

 必然的に薫にもそのおもてが見えた。

 この世に二つとない麗しい白皙が。


(蘭さん——)


 薫はめまいをおぼえた。


 いったい、なんなんだ。

 なぜ、こんなところに蘭が閉じこめられているのか。

 蘭は御子としてあがめられているのではなかったのか?

 それが人知れず、座敷牢に監禁されている。


(もう一人の僕。閉じこめられた蘭さん。変な羽のある猛じゃない猛……そうか。クローンだ。だから同じ人間が二人もいるんだ。僕らは何かの実験のために、この村の人たちに利用されてる)


 大変だ。では、ここに閉じこめられているのが本物の蘭なのだろう。猛もどこかで自由を拘束されている可能性が高い。きっと、薫もそのうちには囚われ、監禁されてしまうのだ。以前、水魚が受けていたという凄惨な生体実験にでも使われるのだろうか。


 しばらく、薫は恐怖にすくんで動けなかった。

 いつのまにか、かなりの時間が経過していたようだ。


「じゃあ、また来るからね。必ず近いうちに、ここから出してもらえるよう説得してみるから」


 声がして、水魚がハシゴをおりてくる。

 あわてて、薫も下へおりた。気づかれなかったのが不思議なくらいだ。外まで逃げだすことはできなかった。もとの葛籠のかげに隠れるのが精いっぱいだ。


 そのまま、水魚は外へ出た。扉が閉ざされ、外からガチャリと鍵をかける音が響く。やられた。閉じこめられてしまった。


(いや、でも、これはチャンスか。どうせ、水魚さんは昼食のときに、また来るし)


 薫は気をとりなおした。ハシゴの下まで歩いていく。

 おそらく、蘭が逃げださない用心だろう。ハシゴは外され、わきに立てかけられている。

 薫はそれを手にとり、二階へ続く床板の穴へさした。のぼっていくと、蘭は座卓につっぷしていた。たぶん、また泣いているのだ。


 格子つきの明かりとりの窓から、わずかな光がさしこんでいる。十畳か二十畳はある。けっこう広い。しかし、がらんとした部屋はなおのこと、さびしい。


「蘭さん? 大丈夫?」


 薫が声をかけると、蘭はとびあがるように驚いて顔をあげた。やっぱり瞳は涙でぬれている。


「誰ッ?」

「僕だよ。薫だよ。なんか僕、風邪で何日か寝こんでたらしいんだ。ごめんよ。僕の知らないあいだに、こんなところに閉じこめられてたんだね」

「薫……」

「あれッ? まさか、僕のことわからないの? ヒドイことされて、ショックで記憶喪失になったとか?」


 蘭は文字どおりに穴があくほど、薫の顔を凝視した。ちょっとやつれた麗しいおもてで見つめられると、クラクラする。

 気のせいかもしれないが、いつもの蘭より、さらに妖しい色気が濃い。仕草もほんの少しだけ優雅すぎる気も……いや、しかし、まちがいなく蘭だ。京都で十年もいっしょに暮らしていたのだ。見あやまるわけがない。


 つかのま、薫をながめたあと、蘭はニッコリ笑った。


「そうなんです。全部じゃないけど、少しぼんやりするところがあって。でも、薫さんのことはおぼえてますよ」

「やっぱり! じつは僕もそうなんだ。猛の偽者は僕が三日ほど寝こんだって言うんだけど、そのあいだのことが、てんで、あやふやでさ」

「僕もです。気がついたら、ここに軟禁されてました」


 蘭の悲しげな顔を見て、薫の胸はギュッと痛む。友達がこんなヒドイめにあっていたのに、今の今まで気づかなかったとは、自分がなさけない。


(——ってことは、いつも僕らと食事してるほうの蘭さんがクローンだったのか)


 薫は決心した。


「僕が逃がしてあげるよ。蘭さん、ここから出よう」

「どうやって?」

「次に水魚さんが来たときに」


 つまり、こういうことだ。

 このまま二人で階下へおり、ハシゴは外しておく。入口付近に身をひそめて、水魚が来るのを待つ。昼食を運びに来た水魚は、いつものようにハシゴをかけて二階へあがっていく。そのあいだに蔵をぬけだし、外からかんぬきをかけてしまう——という作戦だ。


 いちおう、蘭も納得した。

「逃げだしたことがすぐに知れ渡ってしまうけど、まあいいでしょう。それしか手はない」


 というわけで、薫はその計画を実行した。


「……蘭! ここから逃げてどうする気? あけなさい。今なら蘭には黙っていてあげるから。ここをあけなさい!」


 なかでさわぐ水魚の声を背中で聞いた。

 薫は蘭の手をひいて走りだす。


 逃げたはいいが、これからどこへ行こう。この村のなかは、すべて水魚の味方だ。まずは村から出ないことには。幸いにも薫も御子の血清でヘルが効かなくなったらしい。村から外へ出ても問題ない。


 あれこれ考えていると、蘭が言った。


「ボートを盗みましょう。研究所の屋上に保管してある」

「ボート?」

「小型の宇宙船のことです。自動操縦だから、行きさきさえ告げれば勝手に動いてくれます」


 小型宇宙船……自動操縦。

 なんだか……なんだか、世界はいったい、いつのまに、そんなにハイテクになったのか。ヘルに侵され滅亡寸前じゃなかったのか……。


「……なんか、僕の記憶では、ついこの前まで、やっと乗用車の自動アシストが全車標準装備になったばっかりだったような」


 にっこりと蘭は笑う。

 笑顔は美しい。


「水魚たちが、ひそかに開発していたんです」

「ふうん……まあいいけど。それで、ボートを盗んで、外国にでも行くの?」

「ええ。とりあえず、旧医療センターまで行きましょう。あそこは今、放置されて誰もいないはずだから」

「うん」


 薫はボートを略奪するために、研究所へ向かった。

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