第3章 別れの予感

 翌朝二人ともぐっすり眠っていたが、裕美子のほうが早く目が覚めた。普段から少ない睡眠時間で過ごしているため、休みの日でもそんなに遅くまで起きないことはなかった。

 目覚めた時、裕美子はすごく幸せな感情に包まれていた。それでいつもなら起きたら一番に確認する自分宛てのメールを後にして、二人分の朝食を作り始めた。裕美子は子供のころから母親に料理を教わっていたので、一通りのものは作ることはできたが、いつもは時間がないのと自分のためだけに作るのは面倒な気がして、作らなかったのだった。フレンチ・トーストとスクランブル・エッグとサラダとハムステーキを用意した。

 そして透がまだ起きないので、タブレットを見て電子メールのチェックをした。昨日の日付の電子メールが一通届いていた。中味を確認すると、人事部の同期入社からだった。

 『伊藤マネージャー殿。おめでとう。明日内示が出る予定です。今後の益々の活躍を期待してます。』

 裕美子はこれを見て、自分のマネージャーへの昇進が決定したことを知った。それはとても嬉しかった。早速透に知らせたくて透を起こしに行った。透はまだ眠ったままだった。透のことがとても愛おしく感じられた。裕美子は優しく透を起こすことにした。

 「透君。いつまで寝てるの?もう朝食の用意ができたわよ。」裕美子は透を軽く擦りながら耳に口づけしてそう言った。

 「もう、朝かあ。眠たいなあ。はあー。」透はそう言うと、伸びをして上半身だけ起こした。そして裕美子を強く抱きしめた。

 「昨夜は本当によかったわ。」裕美子は透の力強い腕に抱かれながらそう言った。すると透は裕美子をグッと引っ張ってベッドの中に引きずり込んだ。それから裕美子の服を脱がせて裕美子を愛撫し始めた。裕美子は最初は朝食を食べてからにしてほしいと言って拒んでいたが、透の若々しく初々しいところがたまらなくなった。そしてまた昨夜の快感を味わいたいと思っていたので、すぐに透のなすがままに任せていた。

 裕美子は透のことを本当にかわいいと感じていた。透のどこかまだ拙いぎこちない愛撫も、裕美子にとっては愛しくてたまらず、心と身体が快感に包まれていた。そして透の荒々しい感じに応えるように、裕美子も透を激しく愛撫した。

 透の方は男の本能を呼び起こされていた。裕美子の年齢を全く感じさせないプロポーションの良さと、年上ならではのセックスの上手さに感じ入っていたのだった。

 二人はそうして何度目かの絶頂を迎えて、朝の情事を終わらせた。二人とも昨夜以上に満足していた。それから裕美子は相変わらずの命令口調の中にも少しの優しさを含ませた言葉で、透にシャワーを浴びてくるように言った。透は言われたとおりにしたが、もう裕美子には敬語は使わないことにした。裕美子からは自分のことを呼び捨てにしてほしいと言われた。肉体の繫がりによって、二人の間にあった壁は壊され、親密な関係になっていった。

 朝食の時、裕美子は昇進の電子メールの内容について透に話した。透は素直に祝福してくれた。そして午後に約束通り透のサックスを聴くことにした。二人は朝食の後にF&Mの紅茶を飲みながら、ビリー・ホリデイのCDを聴いた。それから透は自分の部屋にサックスを取りに行った。裕美子はその間に一週間分のたまった洗濯物を洗濯し、近所のスーパーへ車で買い出しに出掛けた。今晩は裕美子の部屋で食事をすることにしたのだった。裕美子は本当に久しぶりに自分の手料理を男に振り舞うのでワクワクしていた。透は若いから肉料理がいいと思って、すき焼きにすることにした。それからお米と野菜とビールとワインも買った。

 買い出しが終わって、車でマンションの前まで来ると、例の桜の木の花がほとんど散ってしまっていて、葉桜になっていることに気が付いた。昨夜はもう暗くなっていて、気持ちもかなり昂ぶっていたので、まったく気が付かなかったが、風が強かったのだろうか、もうおおよそ緑の木になってしまっていた。地面からピンク色の花びらが風に舞い上がっていて、それがとても美しかった。

 そして自分の部屋に戻って、しばらくの間CDを聴きながら寛いでいると、透の来訪を告げるインターフォンが鳴り、オートロックを解除して中に入れるようにした。

 透は黒のタキシードを身にまとい、ネクタイを締めて正装をしていた。

 「一体どうしたの?そんな格好して・・・・・・。」裕美子は驚いて透にそう尋ねた。

 「いや、ただいつも演奏の時にしている格好なんだ。」透は言った。

 「へえ、本格的なのね。楽しみだわ、これは・・・・・・。」裕美子は言った。

 「それじゃあ何かリクエストは?」透はサックスをケースから取り出して用意をしながらそう言った。

 「うーん、それじゃあポピュラーなところでテネシー・ワルツなんてどう?」裕美子はそう言ったが、実は大好きな曲だったのだ。

 「ああ。それじゃあ始めるね。」透はそう言って深く息を吸うと、演奏を始めた。裕美子はソファに座って目を閉じながら聴くことにした。

 出だしの音がとても良かった。それで裕美子は驚いて一瞬目を開けてしまった。しかし再びすぐに目を閉じると、透の奏でるサックスの音に酔いしれたのだった。そして演奏が終わると、裕美子は思いっきり拍手をした。

 「物凄くうまいじゃないの。まさかこんなにうまいとは思っていなかったわ。お金もらって演奏してるんでしょ。」裕美子は感動するとともに、驚きながらそう言った。

 「ええ、まあ。ライブハウスとかレストランとかで演奏するけど、そんなに大した額はもらってないよ。」透はサックスを下ろして、座りながらそう言った。

 「そうなの。私はソニー・ロリンズとはいわないまでも、日本のその辺のプロ以上にうまく聴こえたわよ。」裕美子は正直にそう言った。

 「本当・・・・・・。お世辞言っても駄目だよ。」透は信じていない様子でそう言った。

 「本当よ。これでも私一応ジャズ通なんだから・・・・・・。ニューヨークに出張に行ったときには、時間さえあれば必ずジャズライブ聴きに行ってるのよ。プライベートでニューオーリンズにも行ったことあるし。それに日本でも時々ライブなんかに顔出したりしてるわ。」裕美子は反発してそう言った。

 「へえ。そうなんだ。ニューヨークか。憧れの地だな。」透はふっとため息を漏らしながらそう言った

 「まだ若いんだから、夢を捨てないで頑張れば叶うかもしれないじゃない。」裕美子は透を真っ直ぐに見つめながらそう言った。

 それから透の得意な曲を何曲か演奏してもらった。ほとんど裕美子の知っているスタンダードナンバーだった。裕美子はそれらの演奏全てを聴いて、益々感心してしまった。

 「本当に、お世辞じゃなくてうまいと思うわ。これならプロでやっていけるんじゃない。」裕美子は本当にそう思いながらそう言った。

 「どうもありがとう。」透は初めて裕美子の言葉を信じたようにそう言った。

 「それじゃあ、素敵な演奏のお礼に今夜は私の手料理でお返しするから、ビールでも飲んで待っていてよ。」裕美子は透に軽くキスをしてからそう言うと、夕食の支度を始めた。

 卓上のIHコンロを使うのは本当に数年ぶりであった。裕美子は透のために何かしてあげれることが本当に嬉しかった。勝ち気で生きてきた自分にも母性本能があるのかと思うと、ちょっと不思議に感じられた。すき焼きの用意と一緒にご飯を炊いていたのだが、炊飯器を使うのもかなり久しぶりだった。裕美子はご飯は好きだったのだが、一人分を炊くのはなんだかいつも気が進まなかったので、電子レンジ用のご飯を買って食べていた。

 裕美子は透がきっとたくさん食べるだろうと思って、相当な量のすき焼きとご飯を用意していた。大体の用意ができると、透のいるリビングをのぞいてみた。透は裕美子が渡したスウェットに着替えて、ビールを飲みながらテレビでサッカーを見ているようだった。リビングのテーブルの上には、ビールが3缶のっていた。

 「お待たせ。もうできたからこっちに来てよ。」裕美子は言った。それから透にご飯をよそうと、用意していたすきやき用の具をIHコンロの上の鍋の中に入れた。予め温めてあったので、すぐに沸騰した汁の中に、牛肉やその他の具をどんどん入れていった。

 「さあ、どんどん食べてね。」裕美子は嬉しそうにそう言った。

 「うん、いただきます。」透はそう言うと、相当お腹が空いていたのか、ガツガツと食べ始めた。

 「どう?味は?」透の迫力ある食べ方に裕美子は男を感じながら少し微笑んでそう尋ねた。

 「うん。とってもおいしいよ。」透は視線を裕美子の方に向けながらそう言うと、相変わらずガツガツ食べていた。すでに透はごはんをお代わりしていた。裕美子も食べてはいたが、透の姿を見ていると、自分が精神的に満たされていくのを強く感じていた。

 「ねえ、良かったらここで一緒に暮らさない?お互い独り暮らしだし、私はあなたのことがとても気に入ったわ。同棲が無理なら、土日の週末だけでもここに来てよ。私も普段は仕事で家に帰るのが遅いから、週末だけでもいいわ。こうやって近くであなたのことを感じていたいわ。」裕美子はそう言うと、リビングルームに行って、自分部屋のスペアのカードキーを持ってきた。別れた前の彼が使っていたものだった。

 「うん。僕もそうしたいと思っていたんだ。夕食食べたらそのことを言おうと思ってたんだけど、食い意地に負けちゃって裕美子に先を越されちゃったな。」透はそう言うと、ペロッと舌を出した。そうした仕草が裕美子には全てかわいく思えて仕方なかった。

 「そう、嬉しいわ。さあ、どんどん食べてよ。」裕美子はそう言うと笑みを浮かべた。

 それから二人は色々と自分たちのこれまでの家族や環境や略歴などについて、お互いに質問をしたりして話した。

 裕美子は自分が幼いころ、父親の仕事の関係で英国に住んでいたこと、両親は今リタイアして茅ケ崎に住んでいること、兄が一人いて今はワシントンに駐在していることなどを透に話した。

 一方透は、自分には兄と妹がいること、兄は実家のある浜松の楽器メーカーに勤めていること、妹は静岡大学の一年生であること、自分がミュージシャン志望であることは反対されるから誰にも言っていないことなどを話した。

 それから透は、今日はもう自分の下宿へ帰ると言った。裕美子は残念ではあったが、自分も明日から仕事がまた始まるので、無理に引き留めることはしなかった。食事を食べ終わって、10時半過ぎには透は帰っていった。

 裕美子は後片付けを済ませ、洗濯物を整理すると風呂に入った。バスタブにはラベンダーの香りの入った入浴剤を入れた。そして裕美子はバスタブの中に深く身体を浸らせながら、初めは肉体的な関係から入った透と自分の関係について考えた。

 もう自分ではどうしようもないほど強烈に透に惹かれていることを感じていた。その要因について裕美子が考えるには、まず肉体的なフィーリングの良さ、音楽的センスの良さ、母性本能をくすぐる可愛らしさ、そして20歳そこそこの若者の持つ若さの香りと情熱・・・・・・考えれば考えるほどどんどん湧き出てきた。それは裕美子がもうすることはないと思っていた恋なのだろうと思っていた。

 それに対して、冷静に見た二人の関係の見通しについても考えてみた。

 『年下でしかも10歳以上も離れているわ。私が大学生だった時に小学校の低学年だったのよ。でも私の場合、男と対等以上の立場でいることが好きだから、思いっきり年下のほうがいいかもしれないわ。学歴の差については、私としては全く関係ないわ。透の方さえ気にしなければ、世間がなんて言おうと、男と女が逆転していることなんて、今ではちっとも不思議ではないわ。後は透の就職だけど、あれだけのサックスの腕前なんだから、経済的に独り立ちするまでの間、私が養ってあげても構わないわ。ああ、それにしても、もう二度と恋なんかしないと思っていたのに、あんなに若い子に恋しちゃうなんて、思いもしなかったわ。でも逆に若い子だから惹かれたのかもしれないわ。』裕美子はそう思った。

 それから寝る前のルーティーンをする時には、何故か透の首筋と細く長い腕が思い出され、体が熱くなって恋しく思った。そしてグレゴリウス聖歌を聴きながらゆっくりと落ち着いた気持ちになって眠りについたのだった。

 翌朝目覚めた時には、もう完全に元の仕事人間の裕美子に戻っていた。その日は夜の11時ごろまで残業した。午後に部長に呼ばれて、自分の昇進が正式に決定したことを告げられた。もうその時には自分のもとに大分情報が入っていたので、それほど嬉しさを感じなかった。ただ配属される部署が同じ部の食肉を扱う部署だったので、栄転であることには違いなかった。裕美子は輸出の方を担当するとのことだった。会社は特に最近は和牛の輸出に力を入れていて注目されている部署の一つだった。裕美子はこれまで食肉については担当したことがなかったので、その日早速食肉に関する資料の勉強を始めた。

 そうして電車に乗って家路について、荻窪駅の階段を上っていたら、急に透のことが思い出されて恋しく思った。もしかしたら自分の部屋にいるんじゃないかと思って、帰り道を急ぎ足で歩いた。途中例の桜の木を見ると、もうすっかり葉桜になっており、花はすべて散っていた。道路の上では人に踏まれた桜の花びらが無数張り付いていた。裕美子はもうすっかり完全に人間としての感性を取り戻しているようだった。

 部屋に帰ると、部屋の中の電気がついていて透がリビングにいた。

 「あ、お帰りなさい。お疲れさま。」透は裕美子の方を振り返りながらそう言った。

 「あら、来てたの。嬉しいわ。」裕美子は微笑みながら透にそう言うと、軽く口づけした。

 「今日も就活してたら、まったくダメだったんで裕美子に会いたくなったから来たんだ。あ、そうそう、今日は僕が昨日のお礼に軽い夕食を用意したんだ。」透はそういった。

 「え!!本当。何かしら。楽しみだわ。ちょっと待ってね。シャワー浴びてくるから。」裕美子は透が自分に会いたくなってきてくれたことがことのほか嬉しくてそう言った。そしてシャワーを急いで浴びて、バスローブに着替え、キッチンに行くと、そこにはパスタとサラダとビールが用意してあった。

 「ありがとう。おいしそうね。」裕美子はそう言うと、まずビールを飲んだ。それからトマトソースのパスタとサラダを食べた。どれもおいしかった。

 「どれもとってもおいしいわよ。ありがとう。透は料理も上手いのね。」裕美子は嬉しそうにそう言った。

 「ありがとう。喜んでもらえて嬉しいよ。料理を作るのは好きなんだ。一人暮し始めて、最初は節約のためにしてたんだけど、そのうちに楽しくなって今じゃ趣味になってるよ。」

 「そうなの。料理も創作だから、一種の芸術活動よね。ところであなた、就職よりも音楽の方を頑張りなさいよ。もっと腕を磨いて、ミュージシャンを目指しなさいよ。」裕美子はそう言った。

 「世の中そんなに甘くはないよ。僕の今の実力じゃ、例え毎日ステージに立ったとしても、月に20万も稼げないよ。普通のサラリーマンになって、堅実に稼ぎながら趣味としてやるのが一番いいよ。」

 「最初は稼げないのは当たり前だわ。大抵のミュージシャンは下積み生活があって、頑張って努力して一流になっていくんじゃない。」裕美子はそう言った。

 「この世界はそんなに甘くないよ。才能のあるいろんな先輩たちからそういわれたよ。でもこの話は今日はもうよそうよ。食事がおいしくなくなるからさ。」透はそう言った。

 裕美子はそう言われると、確かに自分はただの一介のジャズファンであって、プロの世界のことなど何もわかっていないのは事実だった。

 裕美子の中学・高校時代の友人で、若い芸人と付き合っていて、彼女は彼が才能があると確信して同棲して経済的にずっと支えて、結局結婚した女性がいた。彼女は実家がしっかりしていて、両親に厳しく育てられ、大学に入るまで男性との接触はほとんどなく育っていた。彼女は順天堂大学の医学部を卒業して女医となっていたが、医局の看護師にふと誘われたお笑いのライブでお笑いにはまってしまい、裕美子が聞いたことのない名前の5歳年下の芸人と付き合い始めた。その彼にはバイト以外にほとんど収入がなかったので、彼女が養っていたのだった。当然両親は大反対したが、入れ込んでしまった彼女は聞く耳持たず、家を出て絶縁したとのことだった。最近はまったく彼女と会ってはいなかったが、その彼女のことが急に思い出された。

 「そうね、透の言うとおりだわ。それはそうと、私今日部長から正式にマネージャーに昇進するって言われたわ。」裕美子は言った。

 「へえ、すごいね。おめでとう。」透はそう言うと、裕美子に向かって缶ビールを持ちあげたので、裕美子も缶ビールを持ち上げて二人で乾杯した。裕美子はとても幸せな気分だった。

 食事が終わると、裕美子は少し仕事をすることにした。異動が決まったので、早いうちに色々と資料に目を通す必要があったからだった。

 透は裕美子の背中の方から抱きついていて、しきりに裕美子にセックスをせがんでいた。透は裕美子がワークデスクに向かっている間中、首筋に口づけしたり、胸に手を入れて愛撫していた。裕美子は透のそんな手を何度もほどきながらも、心の中ではとても幸せを感じていた。裕美子におねだりしているような、透のそうした行為が可愛らしく感じられた。しばらくして裕美子は仕事をするのは諦めて、ベッドに入ってセックスをした。

 透は待たされていた分昨日よりも激しかったが、裕美子もそれに応えていた。二人はほとんど同時に果てると、とても幸せな気分に包まれながら眠りについたのだった。

 翌朝、裕美子はスマートスピーカーの目覚ましで起きると、眠り込んでいる透をそのままにして部屋を出た。いつもと同じハードな一日の幕開けだったが、今の裕美子にはすべてが光り輝いて見えた。

 そうして一週間が過ぎた。その間、ほとんど毎日透は裕美子の部屋に泊まり、セックスをして翌朝裕美子が仕事に出掛けた後で帰っていった。透の方も昼間は就活で、夜はステージに立つこともあったので、裕美子の部屋に戻るのは結構夜の遅い時間だった。裕美子のほうが早く家に帰るときもあったが、そんな時は裕美子は今までとは違った寂しさを感じてしまうのだった。

 週末は二日間ともそれまでの寂しさを埋めるかのように、ずっと二人きりで過ごした。買い物やカフェにお茶を飲みに出かけたり、二人でAmazonプライムで動画を見たり、料理を作ったり、食事をしたして過ごした。そうしたことがさらにもう二週間ばかり続いた。

 裕美子はすでにマネージャーとして、新しい部署の仕事についていた。初めての仕事内容だったので、相当忙しく過ごしていた。そうした時、第一食料部の担当役員の岡崎常務に裕美子は呼び出されたのだった。裕美子は役員秘書に自分の名前を告げて、常務の部屋の中に入った。

 「伊藤君、新しい部署はどう。慣れたかな。」常務は裕美子にソファに座るように勧めてそう言った。

 「はい。今頑張ってるところです。」裕美子は常務にそう言った。

 「それは結構。ところで今日君を呼んだのは、新しいプロジェクトの責任者になってもらおうと思ってね。」常務は言った。

 「といいますと、どういうことでしょうか?」裕美子は常務にそう尋ねた。

 「うん。君はYプロジェクトのことは聞いたことがあるかい?」常務はそう言った。

 「はい。詳しいことは知りませんが、食料部門の管理職なので一応は知っています。」裕美子はそう答えた。

 「詳しいことはあとで秘書に資料を送らせるが、簡単に説明するとこういうことだ。うちの会社とアメリカの食料品会社のオハイオ食品とが合弁で新しい会社を設立して、牛肉の生産・管理・販売を行うことが決まっていてな、その中で日本の前沢牛をアメリカで飼育して、その肉をアメリカや世界中に売ろうというプロジェクトを進行することを考えてるんだよ。これは昔日本に留学経験のあるあちらの役員からの提案なんだが、合弁会社の一番目玉のプロジェクトでうちの会社としても将来性が高いと思って進めたい案件なんだよ。これを実現するには農林水産省や前沢牛の農家や組合など大きな問題があって、それをクリアできるためにはかなりの優秀な人材が必要だ。そこで君に白羽の矢が立ったのだよ。君はうちの部署きっての切れ者だ。君にYプロジェクトの責任者として、アメリカに行ってもらおうと思っている。恐らく短くても3年は日本に帰ってこれないだろう。会社が設立されたら、中西部か南部あたりに行くことになるだろう。君に期待しているよ。どうかね。もちろんいってくれるだろうね。」常務はそう言うと、裕美子の返答を待った。

 裕美子は大きく興味がそそられる話で、2週間前ならすぐに了解していただろうが、透の存在がどうしても気になってYESと即答できなかった。そこで常務に頼み込んで3日間だけ返答の時間をもらうことにして、部屋から退室した。

 自分の席に戻ると、常務の秘書から電子メールでYプロジェクトの資料が送られてきているのを確認して、その内容について目を通した。

 確かに一大プロジェクトであった。若い頃香港で一社員として関わっていた中国からの野菜輸入のプロジェクトよりももっと面白いと思っていた。以前の裕美子ならすぐに飛びついていたであろう。だが今の裕美子には透の存在があった。実際、透のいない生活など今の裕美子には考えられなかった。裕美子はどうすればいいのか悩んだ。だが仕事は普段とは変わりなくてきぱきとこなしていた。

 その日も帰りは11時過ぎになっていた。今日は透がバイトの日だったので、裕美子に幸いにも考える時間が与えられていた。裕美子は帰り道でも部屋についてからも、ずっと常務への回答をどうしようか悩んでいた。

 勿論アメリカ行きはOKだった。ただ透とのことをどうするのかが問題だった。自分一人でアメリカに行ったのなら、たまの休暇にしか会うことはできない。その間に透に別の女ができないとも限らない。それにまた、自分が孤独に苛まされるかもしれない。帰国したら40歳手前だ。その頃にはもうこんな恋をすることはできないだろう。この選択は自分にとって恐ろしいことのように感じられた。

 だが、透をアメリカに連れていくことはどうだろうか。透はまだ卒業前だから大学はどうするのか。就職だったら日本ではもちろんできない。向こうでジャズの勉強をするという手もあるが、透が何と言うか心配だった。生活なら裕美子の稼ぎで何とでもなる。結婚するのか、それもわからなかった。まだ出会って間もないのに。自分たちの親や世間が何と言うかも心配だった。

 ただ別れるということだけは絶対に避けたかった。友人で遠距離になるので別れてしまって、それをずっと引きずっていて誰とも付き合わずにいて、ホストクラブにはまってしまった子がいた。結局その子は会社のお金を使い込んで逮捕されてしまうという転落の人生を歩んでいた。そんな風にはなりたくなかった。

 翌日の夜が来るのが裕美子にとってはとても重々しく感じられた。仕事が終わって部屋に戻ったとき、透が来ていることがわかると怖かった。透はいつもと同じように夕食を作って待っていてくれた。裕美子のどことなくいつもと違う態度を感じて透は尋ねた。裕美子は食事の後に話すと透に告げた。裕美子が話をするまでの間、二人の間には重苦しい空気が流れていた。

 「落ち着いて聞いてくれる。私来月からアメリカに行くことになったの。最初はニューヨークに行くんだけど、そのあと中西部か南部の方にいくことになると思うわ。それでできればあなたにもついてきて欲しいの。」裕美子は思い切ってそう切り出した。

 「ついて来いって簡単に言うなよ。僕の方の都合だってあるだろ。大学は?就職はどうなるんだよ。」透は驚きとともに、少し怒りながらそう言った。

 「大学は休学にして、就職はしないで本場のアメリカでジャズの勉強をすればいいじゃない。私はあなたを失いたくないのよ。」裕美子はそう言った。

 「随分勝手なんだな。裕美子の方はそれでいいかもしれないけど、僕にだって自分の将来のことを考える権利はあるはずだぜ。そりゃあ、本場でジャズの腕を磨くというのもあるけど、そんなに甘くはないし、突然すぎるだろ。」透は怒りが込み上げながらそう言った。

 「私の勝手は十分承知しているわ。私はあなたと離れたくないのよ。ずっと一緒にいたいのよ。だからあなたがきちんと稼げるようになるまでは私がお金の面倒はみるわよ。」

 「女に養ってもらうっていうのかよ。そんなの嫌だな。」透は言った。

 「随分古いのね。女が男を養って何が悪いのよ。経済力があるほうが養えばいいじゃないの。それでも嫌なら、出世払いってことで後で返してもらえばいいわ。とにかく私はあなたに一緒に付いてきてもらいたいのよ。」裕美子は透に懇願するようにそう言った。

 「わかったよ。僕だって離れたくはないよ。だけどこの話は一生にかかわることだから、少し考えさせてくれよ。」透はそう言うと、少し落ち着きを取り戻したようだった。

 「ええ。わかったわ。」裕美子は少し安心してそう言った。

 「それじゃあ、今日は家に帰るよ。」透はそう言うと、部屋から出て行った。

 

 透はそれから一週間何の連絡もなく、また裕美子の部屋にも一度も来なかった。裕美子はその間に常務にアメリカ行きの件を承諾し、Yプロジェクトの業務に追われていた。業務に追われていることで、少しでも透のことを考えないでいることができた。だが夜一人でいるときに不意に透のことを考えてしまうのだった。何の知らせもなく日々が過ぎていくことに、裕美子は非常に不安に感じていた。裕美子はいつの間にか、自分でも信じられないぐらい深く透のことを愛していた。何度自分の方から透に会いに行こうかと思ったことか知れなかった。LINEも何度しようかと思ったことだろう。 

 ただ、透の口から別れを告げられるかもしれないという恐怖心が、裕美子をそうした行動を起こさせずにとどめていた。裕美子は毎朝起きると、自分の頬が涙で濡れていることに気づいた。自分では気づかないうちに、それほどまでに愛していたのだ。

 そしてさらに一週間が過ぎた。裕美子は正式に辞令をもらい、Yプロジェクトの責任者としてアメリカに行くことが命じられた。農林水産省の役人や前沢牛の関係者にあったりして飛び回ったり、平日に会社で過ごす時間は、仕事に忙殺されていて透のことを少しでも忘れさせてくれるので嬉しかった。 

 だが夜と週末は、透のことばかり考えている自分がそこにいた。相変わらず透からは何の連絡もなかった。不安はますます募り、もう悲観的な感情が裕美子を包むのだった。眠れぬ夜が続いた。

 ストレッチとラベンダーとグレゴリウス聖歌といった前のルーティーンも、今は気休みにしかならなかった。ベッドの中に入っても悶々として全く眠れなかった。裕美子はこれがきっと最後の恋だと強く感じていた。それだけにもし透と別れることになれば、単に耐え難いということだけではなく、もう立ち直ることができないかもしれないと思っていた。

 そろそろ渡米の日にちが迫ってきたので、裕美子は時間を見ては少しずつ荷造りをしていたが、それが何故か空しく感じられていた。やはり透とはもう終わってしまったのだろうか。そのことがどうしても納得できなかった。明日にでも透のところへ行ってはっきりさせたいと思っていた。覚悟ができているというと嘘になるが、どちらかはっきりさせることが自分の今すべき最善の策だと思っていた。

 ちょうど明日は休日だったので、都合がよかった。だが結論を聞くのは怖かった。自分ではもうほとんど望みがないと思っていたからだ。ただ結論をはっきりしないままに、旅立つことはできないとも思った。それでやはり意を決して、明日会いに行くことを決めた。そう決めると、その日は全然眠れなかった。ストレッチとラベンダーとグレゴリウス聖歌といったルーティーンも効き目がなかった。明け方までずっと透のことを考えていた。それから最後にウォッカをあおると、ようやく眠りにつくことができたのだった。

 目覚めた時はもう既に昼過ぎだった。裕美子が昼過ぎに目覚めるのは、二日ぐらい徹夜をした時ぐらいだった。だから本当に久しぶりだった。また少し二日酔いにもなっていた。これもまた珍しいことだった。

 裕美子はブランチを食べ、熱いシャワーを浴び、それから荷物の整理をした。夕方になって、裕美子は熱い紅茶をいれて心を落ち着かせていた。ダージリンのいい香りが少しだけ心を和ませてくれた。裕美子は自分自身に何度も『行こう』と言っていたが、身体の方が動かなかった。やはり何だかんだと言っても怖かったのだ。裕美子は自分を何度も励ました。だがどうしようもなかった。

 悲しみが裕美子のことを急に襲ってきた。そして止めどなく涙が流れだした。裕美子はこんなにも透のことを愛している自分が悲しかった。そして自分の最後の恋が間もなく終わりを告げるかもしれないと思うと、さらに悲しくて仕方なかった。

 BGMは珍しくクラシックを流していた。シューベルトだった。その切ない美しい旋律を聴いていると、さらに涙が溢れ出てきた。裕美子はリビングに思わずうずくまって号泣してしまった。そうして一区切り涙を流し終わると、ようやく裕美子は透のところへ行く気持ちになっていた。服を着替え、化粧をして髪をすかして整えた。それからバッグを持つと、靴を出して玄関から出るためにドアを開いた。

 「どこか出かけるの?」その声はここ2週間の間ずっと聞きたくてしょうがなかった透の声だった。透は以前着たことのあるタキシードに身を包んで、サックスを持って立っていた。 

 「ええ・・・・・・。あなたのところに・・・・・・。」裕美子はようやっとそう言った。

 「それなら丁度よかったよ。入れ違いにならなくさ。とりあえず部屋に入ろうか。」透はそう言うと、裕美子の背中を押して部屋の中に入っていった。それから整理した荷物が入っている段ボールが所々に置いてあるリビングに入って二人ともソファに腰を下ろした。

 「もうすぐアメリカに立つから、整理してるところなの・・・・・・ごめんね。散らかっていて・・・・・・。」裕美子は透を見つめながら静かにそう言った。

 「そうだよね。そのことで今日は話があって来たんだ。」透がそう言うと、裕美子はいよいよだと思って覚悟した。ただできれば自分の部屋で聞きたくはないと思った。取り乱して逃げ出すことができないからだ。

 「あれから僕もずっと悩んでいたんだ。やっぱり一生の大問題だからね。大学を休学してまで行くとなると、やっぱり自分に自信がないとね。それで裕美子と離れてこのまま日本にいて、就活でどこかの会社に就職してサラリーマンになって堅実に生きるほうがいいのか、それとも一緒にアメリカに行って自分の夢のために勉強してみるのがいいのか、どちらが後悔しないかずっと考えていたんだ。とっても悩んだよ。この問題に結論が出るまでは、連絡できないと思ってたんだ。だからこの二週間一切連絡しなかったんだ。」透は裕美子の方をじっと真剣な眼差しで見つめながらそう言った。裕美子は自分の愛した男の顔を最後に自分の脳裏に焼き付けようと思って、透の顔をじっと見つめていた。

 「自分の愛と夢のために、賭けてみようと思うんだ。僕は裕美子と一緒にアメリカへ行って一緒に暮らして、ジャズの勉強をするよ。そしていつか成功してみせるよ。僕も裕美子を愛しているから、ずっと一緒にいたい。この前は女に養ってもらうなんて考えられないなんて言ってたけど、考えてみれば馬鹿馬鹿しいことだよね。だってそんなカップルなんていくらだっているからね。とにかく僕は裕美子と一緒にアメリカに行くよ。」透は裕美子の手を力を込めて握りながらそう言った。裕美子の方は気が動転して、何が何だか分からなくなっていた。

「裕美子と一緒にアメリカに行くよ。」透は改めて力を込めて握りしめた。裕美子にはようやく透の言っている意味が分かった。だがまだ半信半疑だったので尋ね返した。

 「私と一緒に行ってくれるってこと?」

 「そうだよ。大学にも休学届を出してきた。」透がそう言うと、ようやく裕美子はすべてを理解した。

 「うそ・・・・・・。私もう駄目だと思っていたわ。ああ、信じられないわ。愛してるわ、透!!」裕美子は透に飛びつきながらそう言った。そして二人は濃厚な口づけを何度も交わした。裕美子は信じられない嬉しい急展開に、とても興奮していた。まさに地獄を見てから天国を味わうような、そんな気分だった。そして今すぐこのまま二人でアメリカに行ってしまいたいとも思っていた。

 興奮して中々自分のことを離さない裕美子をなだめて、透は持参してきたサックスを取り出した。そして二人が初めて情事をした後で演奏したテネシーワルツをゆっしくりと情感を込めて吹いたのだった。

 裕美子はそんな透の姿を見ながら涙があふれだすのを抑えることができなかった。なんていい曲なんだろうと思うとともに、自分の愛する男が、自分のために一緒にアメリカに行ってくれることの幸福に包まれていた。

 透もまた感動していた。

 自分の選んだ道が決して間違っていなかったことを証明するためにも、アメリカで死ぬ気で頑張らなくては固く決心していた。目は閉じて演奏していたので、裕美子が泣いているのは見えなかったが、その雰囲気は感じ取っていた。

 そしていつしか透の頬にも涙が伝わって流れていた。裕美子はその涙を見て、自分の幸せに再び涙を流したのだった。

 それから二人は二週間ぶりにベッドで抱き合った。二人ともお互いの全てをかけて、お互いの全てを求めて、激しい愛撫を交わしたのだった。何度も何度も口づけした。そして気が遠くなるまで幾度もセックスをして果てたのだった。ほとんど同時にベッドの中で眠りについた。幸福に包まれてぐっすりと眠ったのだった。

 

 その後の二週間はあっという間に過ぎ去った。

 裕美子は仕事は勿論だったが、透のビザの取得や荷物を送ったりするのを手伝ったり、ニューヨークのジャズスクール探しや入学手続きなどをやっているうちに、すぐに過ぎ去ってしまったのだった。

 透は自分の下宿は引き払い、裕美子の部屋に住んでいたのだった。昼間裕美子がいない間はほとんどサックスを吹いていた。自分の抱いていた夢が実現するかもしれないと思うと、透は本当に嬉しかった。

 ただ一つ問題になっていたのは、透の両親の反対だった。勿論透もそうなることは重々承知していたので、一日浜松の実家に行って説得した。透は裕美子のことは話さずに休学と渡米のことだけ話した。さすがに突然年上の女についてアメリカに行くということは言えなかったのだ。透の両親は、透のあまりにも情熱的な態度と、アメリカに行っても芽が出なければ日本へ戻って復学するという条件を付けて、渋々承知してくれたのだった。

 そのようにしていよいよ出発の日が来たのだった。二人は午後のニューヨーク便で渡米することになっていた。裕美子と透は自分の荷物を手に持つと、裕美子の部屋を後にした。

 マンションを出ると、もうそこは完全に初夏になっていた。荻窪駅のタクシー乗り場まで行く途中でふと気が付くと、あの日見た桜の木はもう緑の葉に包まれた新緑の木になっていた。裕美子はそれを見て、新緑の木もまた美しいと感じていたのだった。

 それから二人はタクシーに乗って、羽田空港まで行った。先に送っておいたスーツケースを受け取り、チェックインを済ませるとラウンジで寛いでいた。裕美子と透は部屋を出てから、ずっと手をつないでいた。傍から見れば年の離れた逆転カップルに見えるだろうが、他人からどう思われようと、そんなことは二人にはもう関係なかった。二人は本当に深く愛し合っていたのだった。 

 そして機内に搭乗して、二人はビジネスクラスのシートに隣同士で座った。CAから新婚旅行なのか尋ねられたほど、裕美子と透は仲睦まじくしていた。裕美子は自分が深く愛している透の方に頭をもたらせかけていた。

 間もなく飛行機はアメリカに向けて離陸した。


             完

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桜の花の散る頃 西大寺龍 @tacky1

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