第18話

 三年生の教室の並ぶ廊下を我が物顔で通り抜け、香澄は進む。

 この学校は、先輩・後輩の序列関係が緩い。既に三年生の分野の勉強をしている下級生などは、教えを乞うべく部活の先輩の教室を訪れることも多い。


 しかし、やはりというべきか、香澄は三年生たちには目もくれず、もう一階上、つまり屋上へ出るための階段を上り出した。

 屋上は施錠されていたものの、香澄の持っていたパスカードで簡単に通り抜けることができた。


 真っ先に感じられたのは、真夏の太陽光。僕は手を翳し、目を守る。と同時に、夏らしい匂いと共に、湿潤な熱気が足元と頭上の両方から感じられた。

 屋上の床面は綺麗に均されていたが、遮熱効果は望めない。まあ、一般生徒が踏み入る場所ではないのだから当然か。


「さて、と」


 僕は香澄の背中に目を遣った。一旦腰に手を当てた香澄は、首や肩をぐるりと回して肩甲骨のあたりを柔軟にする。それから、背中に仕込んでいた拳銃を取り出した。


「あの、香澄?」


 彼女の行動が理解できず、僕はやや狼狽えた。その狼狽が、驚愕に切り替わるまでは一瞬だった。

 慣れきった所作で、香澄は拳銃を自分のこめかみに押し当てたのだ。


「ッ! 止めろっ!」


 僕は後ろから跳びかかろうと試みる。が、それを予期していたかのように、香澄は振り返って銃口を僕の眉間に向けた。


「あ、あ……」


 金魚のように口をぱくぱくさせる僕。そんな僕の姿が滑稽だったのか、香澄は僅かに、ほんの少しだけ口角を上げた。


「冗談だ」

「おっ、脅かすなよ」


 僕は猛烈に抗議したかったが、香澄はカチャカチャと拳銃を手元で弄んでいる。


「セーフティはかかってるし、弾倉も抜いてある。薬室からも初弾は抜いてあるから、弾なんか出やしねえよ」


 よく分からないが、今のはちょっとした冗談だったらしい。そんなもので僕の寿命を縮めてもらいたくはないのだが。


「トーマス神父からはどこまで聞いた?」


 唐突な話題の変更に、僕は一瞬戸惑った。ああそうか。一昨日、教会を訪れた時の話をしているのか。

 インパクトのある会話だったので、僕は意外なほどトーマスの言葉を思い出していた。


「香澄、お前が両親から虐待に遭った、って」

「それだけか?」

「うん。致命的な怪我を負う前に、自分が保護したって言ってたぞ」


 すると、香澄は肩を竦め、『何ともお優しいこって』と呟いた。


「ち、違う、のか?」

「神父には申し訳ねえんだが、彼は一番の要点をお前に話していないようだ」


 一番の要点? 何だそりゃ。


「梅子から聞いてるな? 異能力の発現条件は」

「ああ、命の危険に晒されたことがきっかけで、そんな力が湧いてくる、みたいな」

「俺はな、拳銃で撃たれたんだ」


 夏に非ざる冷風が、僕と香澄の間を通り抜ける。


「……はい?」

「だから、撃たれたって言ってんだろうが」


 やれやれとかぶりを振る香澄。だが、聞き捨てならない言葉を彼女は口にした。


「撃たれたって、どうして? いや、大丈夫だったのか?」

「どうかな。俺の脇腹を掠めたんだが、出血が酷くて、それで死にかけた」


 香澄が異能力を手にしたきっかけは分かった。だが、一体どうしてそんな目に?

 僕の顔に出た疑問を相手に、香澄は語り出した。


「うちの親父とお袋が、俺を虐待したって話は聞いてるな?」


 黙って頷く僕。


「だけど、俺んちの場合、ただのDVじゃなかった。親父、暴力団と繋がりがあったんだ」

「な!」


 僕は顎を外し、驚きを露わにしたまま固まった。


「何でも、親父は武器のブローカーだったらしい。取引場所は、一番監視の目が届くようでいて届かない場所、つまり俺たちの家で行われた」


 だが、と言って言葉を区切る香澄。


「ちょっとしたトラブルになったんだ。金銭的な、下らねえ喧嘩さ。問題は、そこに俺がいて、相手が脅しで撃った弾に当たっちまった、ってこと」


 僕は唾を飲み込みかけて気管に入り、咳き込んだ。


「は、犯人たちはどうなったんだ⁉」

「さあ?」


 首を傾げる香澄。


「ムショに入ってることを願うね。だが、俺は九死に一生を得たことで、この力を手に入れた。手にした銃火器を自在に操るスキル、というべきだな」

「そ、それは……」

「おおっと!」


 僕が続けようとした発現を、香澄は封じる。


「同情なんかするなよ? 俺はその事件があったお陰で戦うことができるようになった。今の立場や境遇に不満はねえよ」


『いや』『でも』『そうは言っても』――。僕は反論を試みたものの、いずれも言葉にならなかった。


「ま、そういうこった。俺からは以上だ」


 別れの合図もなく、下り階段に足をかける香澄。僕がざわざわした胸中で彼女の背中を見つめていいると、ふっと何かに気づいたのか、香澄は振り返った。


「実咲先輩は、もっと大変な目に遭ったんだ。無理に訊き出そうとすんなよ」


 僕の喉には、言葉を紡ぐほどの余力はなかった。

 皆、胸に過去を抱えて、それでも戦いに身を投じているんだ。僕だって、何かしなければ。


「あ、あのさ!」


 無言で、やや苛立たし気に振り返る香澄。


「僕にも戦えるように、訓練を施してくれないか?」


『はあ? お前何言ってんの?』――それが、僕の予期した返答だ。だが、香澄はその整った顔を歪め、挙句腰を折って笑い出した。


「なっ、何がおかしいんだよ?」

「悪い悪い、お前、結構根性あるなあと思ってさ」

「根性なんかどうでもいい! 僕だって、傍観者のままではいられない! 頼む、戦いを教えてくれ!」


 僕はくの字に身体を折って、香澄に頭を下げた。視界の隅で、香澄が後頭部をがりがり掻くのが見える。


「だって、お前と実咲先輩のペアの出動は明日だぜ? 俺たちに教えられることなんて――」

「それでもいいんだ!」


 勢いよく顔を上げる僕。


「僕だって、皆の力になりたい! 守ってやりたいんだよ!」


 そう僕に言われた時の香澄の顔を、僕は一生忘れないだろう。目も口も真ん丸に見開いた、レア顔である。


         ※


 それから十五分ばかり後。グラウンドの体育館裏手、ひとけの少ないところで、僕とローゼンガールズ戦闘員たちは集まった。

 僕は再び、今度は三人に向かって頭を下げ、くの字に腰を折っている。既に用件、というか要望は伝えた。後は、三人がどれだけ僕を当てにしてくれるか。そこにかかっている。


「しかしなあ、拓海よ」


 諭すような口調の実咲。


「我輩たちは、飽くまでもイレギュラー分子だ。一般生徒である平田拓海に、我々同様の戦いをしろというのは、いくら何でも無茶がある。増して、明日の夕方には出動するというのに」

「そうだよ、お兄ちゃん!」


 梅子も口を挟んでくる。


「あたしたちは、訓練してこの異能力と折り合いをつけてきたんだ。今日と明日で同じ力を手に入れよう、っていうのは無理な相談だよ!」

「いや、皆と同じ戦闘スキルが欲しいとは言わない! ただ、自分の身は自分で守れるようにしたいんだ!」


 中央に立つ実咲は、どうしたものかという視線を両脇の二人に送っている。


「そうだな、我輩たちはそれぞれ戦い方が違う。その基礎項目を、一連の流れでこなせるようになれば、少しは戦えるようになるかもしれんな」

「そ、それじゃあ!」


 僕はぱっと喜色を浮かべて、顔を上げた。三人は相変わらず怪訝そうな顔をしていたが、実咲は僕のやる気に一票を投じてくれたようだ。


「そうだな、じゃあ梅子! キックボクシングの基本を叩き込んでやってくれ」

「分かった!」


 すると梅子は、誰に合図されるでもなく、こちらにずんずんと近づいてくる。

 そして全く唐突に、ハイキックを僕の顔面に叩き込んだ。


「ぐっ!」


 辛うじて、両腕を交差させてこれを防ぐ――つもりだったのだが、僕は呆気なく後方に吹っ飛ばされた。そのまま背中をしたたかに打ちつける。


「いってぇ……」


 砂煙が待って、僕の目に入る。


「ちょっとお兄ちゃん! たった一発で泣かないでよ!」

「違う! 目にゴミが入っただけだ」


 と言い終える間もなく、梅子はステップを踏んでこちらに接近。拳を僕の鼻先数センチのところにまで繰り出した。


「ひっ!」

「実戦だったら、お兄ちゃんは気を失ってるよ」

「うぐ、面目ない……」

「そうだなあ」


 そばで見ていた実咲が、手を顎に遣りながら語りかける。


「拓海、相手からは絶対に目を逸らすな。視界から相手が消えた瞬間が、お前の死に時だと思え」

「は、はい!」


 それじゃあもう一回。そう言って、梅子との格闘戦術訓練は一時間ほどに及んだ。

 結果、僕は回避するのは上手くなったようだ。だが、肝心の『攻め』がないと、参戦する意味がない。


 僕は正直、このままグラウンドに仰向けにぶっ倒れそうだったが、歯を食いしばってその誘惑に抵抗した。


 まだだ。香澄と実咲からは、何も教わっていない。

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