赤羽の〝化け物〟 第六話

 震える手で鍵穴に鍵を差し込み、ドアを開く。

 都築さんによれば、室内は火事で完全に焼け落ちている、との話だった。リフォームをかけるでもなければ、入居者の募集はまず不可能だと――だが。

「……これは」

 いざ中に踏み込むと、そこにあったのはごく普通の――ただし空室ではなく、明らかに生活感を伴なう部屋だった。火災のダメージはどこにも見られない。むしろ靴箱に貼られた女児向けアニメの食玩シールが目立って見えるほど、壁紙もフローリングもあるべき姿をキープしている。ピンクの愛らしいデザインの玄関マット。三和土の隅にちょこんと置かれた子供用の小さな靴。奥のリビングから漏れる、人の気配を伴なう優しい明かり。

 まさか、間違えて隣のドアを……?

 そんな僕の目に、ふと、靴箱に置かれた卓上カレンダーが映る。日付は去年の、それも事件が起きた月のままで止まっている。まさか、とカレンダーに手を伸ばすと、ページは指先をあっけなくすり抜けた。捲れるどころか掠りもしない。

「と……桃子さん」

 振り返り、桃子さんと目を合わせる。彼女も同じことを考えていたのだろう、僕の顔を見つめながら、こく、と小さく頷いた。

 ごくり息を呑むと、靴のままそっと部屋に上がる。実際の室内は僕には視えない。床の正確な状態がわからない以上、うっかり瓦礫を踏み抜いて足を怪我する恐れもある。仮に本物の部屋だとしても、その時は謝るなり捕まって罪を償うなりすればいい。

 暗い廊下を忍び足で歩き、奥のドアからおそるおそるリビングを覗く。

 家族がいた。正確には一組の母子が。母親は料理の最中なのか、ダイニングに面するカウンターキッチンで火にかけた鍋をゆるゆると掻き回している。そんな母親の腰に取りつきながら、娘と思しき少女が心配顔で問う。

「ねぇママ、今度のパパは、ちゃんと心愛のパパになってくれるかな」

 心愛? ……ということは、やはり彼女たちは。

「もちろん。だって心愛ちゃん、ずっとパパの前でいい子にしてたじゃない」

「うん! 心愛、いい子にしてた!」

 舌足らずな子供の声と、優しく答える母親――おそらくは加奈さんの声。どうやら二人は、彼女らがパパと呼ぶ人物の帰りを待っているようだ……が、単に家族の帰りを待つにしては奇妙な言い回しだ。ちゃんとパパになる? 今度のパパ? ということは、待っているのは梶井さんではなく……

「そろそろじゃないかなぁ」

 母親の方が、リビングの壁時計を見上げながら呟く。そろそろ……?

 ――お兄様が大変危険な状態です。

 つい先刻、電話越しに兄さんの担当医に告げられたのは、兄さんが、突然危篤状態に入ったとの報せだった。できる限りの努力はする。しかし、それでも限界はあるのだと、ひどく強張った声で医師は告げた。万一の場合のためにも心の準備を。そして、可能な限り早く病院にいらしてください。そう、医師は僕に言いつけた。

 本当ならば彼に従うべきだったのだろう。

 でも僕の足は、気づくと、このマンションがある方角へと駆け出していた。

「瑞月さん」

 僕の隣で、やはり中を覗き込んでいた桃子さんがそっと耳打ちする。相手が生身の人間なら声を抑えることはしない。こうして小声で語りかけてくるということは、彼女もまたあの母子を死者だと、同種の存在だと認識しているのだろう。

「残された時間は、きっと、そう長くはないわ」

「わかってます。でも……何とかします」

「何とかって?」

「それは……何とか、です」

 答えにならない答えを返すと、僕は、問い返す桃子さんの声を振り切るようにリビングに飛び込んだ。

 決めたのだ。僕のような化け物に寄り添い、護ってくれた兄さんを、今度は僕が護るのだと。

「兄は来ません」

「……え?」

 鍋を掻き回していた加奈さんが、ふと手を止め、顔を上げる。

 僕を見つめるその目は、狂気に呑まれた人間のそれとは思えないほど穏やかで、むしろ深い愛情すら感じさせた。ひょっとして、梶井さんの方が虚言を? ……いや、その方が僕としては有難い。彼女の口から事件の真相を聞き出し、改めて梶井さんの罪を問えば済む話だからだ。

「あなたは……?」

「お二人が待つパパ……の、弟です」

 すると加奈さんは、おたまの取手を手にしたまま怪訝そうに小首を傾げた。

「陽介さんの弟さん?」

「……っ」

 突きつけられた事実に、ふと僕は立ちくらみを覚える。やっぱりそうだ。二人が待ちわびるパパとは、やっぱり、兄さんのことだった。

「ママ、あの人、だあれ?」

「パパの弟さん。心愛の叔父さんよ」

「おじさん?」

「そ。おじちゃん」

「おじちゃん」

 やはり舌足らずに復唱すると、少女はカウンターキッチンを回り込み、僕の前にてとてとてと駆け寄ってきた。

「おじちゃん、わたし心愛っていうの。しょうらいのゆめは、おはなやさん」

「……夢」

 その言葉に、僕は改めて息を呑む。

 慎ましくも美しい彼女の夢は、もう二度と叶うことはない。彼女の本もまた無惨に引きちぎられてしまった。彼女が生きたはずの未来ごと……

 そう。死とは、つまりそういうものだ。

 その後の人生で手に入れるはずだった幸福、叶えるはずだった夢、そうしたものを丸ごと失ってしまう。仮にそれが天命なら、まだ受け入れもしよう。けれど、誰かの身勝手な欲望や悪意、勘違い――その結果として振るわれる理不尽な暴力によって奪われるのは、僕には、どうしても許せない。

「兄さんを、返してください」

「……は?」

 僕の言葉に、加奈さんは何を言われたのかわからない、という顔をした。無関係なものか。いや、仮に無関係だったとして、今は、躊躇の時間すら惜しい。

「あなたなんでしょう。兄さんを殺そうとしているのは。だったら今すぐやめてください。……兄さんは、これから先も生きなきゃいけない。たくさんの人と出会って、誰かと愛し合って、家庭を儲けて……幸せに、そう、幸せにならなきゃいけないんです。それを、誰かのエゴで奪わせやしない」

「何、それ」

 加奈さんの顔から、すぅと表情が消える。僕を見つめる双眸が、ふと、深い井戸の底の昏さを帯びた、気がした。

「奪わせない? 何それ。奪うも何も、私、何にも手に入れてない……だって、誰も私を愛してくれなかった。幸せにしてくれなかった」

 得体の知れない寒気が、足元からうぞうぞと這い上がる。――いや、囚われてはいけない。闘わなくてはいけない。兄さんのためにも、僕は。

「じゃあ、やっぱりあなたが」

「愛して欲しかったの」

「え……?」

「そうよ! 愛して欲しかったの! 誰でもいい! 私を、愛して欲しかったの!」

「……」

 まるで話が噛み合っていない。が、今の僕には充分すぎる返答だった。やっぱりこの女だ。この女が、僕の大事な兄さんを――

「あ……あなたは愛されていた。少なくとも夫の梶井さんは、あなたに愛を伝えようと必死に努力していた。拒まれても拒まれても、それでもあなたに愛を伝えた。それを自分から撥ねつけておいて、今更何を」

「梶井……? ああ、あのロリコン? あははっ、違う。あいつが好きだったのは心愛だけ。私と籍を入れたのも、最初から心愛が目当てだったの」

「……ロ、」

 ロリコン? 何を言っているんだ、この女は――

 確かに、梶井さんは終始、心愛ちゃんを護れなかったことを悔やんでいた。が、それは彼が心愛ちゃんに性的な目を向けていたからではない。血が繋がらない娘のために良き父親であろうとした結果だ。大家さんの話では、今でも時おり心愛ちゃんのために彼女の好きだった花を捧げているという。僕に言わせれば、この上なく素晴らしい父親だ。それを、言うに事欠いてそんな……

「そう、口を開けば心愛のことばっかり。私のことなんて、見てもくれなかった」

「だ……だから何です! 子供を儲けたなら、子供のことを一番に考えるのは当たり前じゃないですか!」

 くす、と加奈さんの口元から笑声が漏れる。それは、次第に黒板を引っかくような歪んだ哄笑と化していった。

「私は……私は誰にも愛されなかった。子供の頃も、大人になっても」

 無造作に振り回された彼女の腕が、目の前の鍋を力任せに弾き飛ばす。それは奇しくも僕めがけて飛来し、咄嗟に僕は心愛ちゃんを背後に隠した。――が、鍋は、派手にぶちまけられるかに見えた中身もろとも僕の鼻先でふっと掻き消えてしまう。いや、消えたのは鍋だけではない。テーブルも、清掃の行き届いたカウンターキッチンも、愛らしい小物でデコレートされたリビングも、まるで電源の落ちたプロジェクションマッピングのようにふっと掻き消え、代わりに本来の、床も壁も焼け落ちた無惨な室内を露わにする。

 その、グロテスクに焼けた部屋の中で、なおも加奈さんは吠える。

「誰も、誰も私を愛してくれなかった! ママも、パパも、ナオトも、ケンヤも、レンも、ヨシキも、マサミチも誰も! その私が、ねぇ、愛されたいなんて思っちゃいけないわけ? どうして私だけが、こんな寂しい思いをしなくちゃなんないわけ!?」

 そして加奈さんは、それこそ子供のように泣きじゃくる。もはや言葉が通じる気配はない。が、ここで引き下がるわけにもいかない。事態は一刻を争うのだ。

「では……僕があなたを愛します」

「は?」

「……は?」

 奇しくも二人の女性が同時に振り返る。一人は加奈さん。そして、もう一人は――

「な……何を言うの瑞月さん。突然、そんな、」

 なぜかおろおろと尋ねる桃子さんに、僕は精一杯の笑みを見せる。

 もちろん、こんなものは強がりだ。時代錯誤な男の強がりというやつだ。それでも今は笑わせてほしい。これが最期かもしれないから。

 やっぱり僕は、桃子さんが好きだ。

 どうかと思うほど肝が据わったところも、そのくせ煽り耐性が低いところも。先月始めたツイッターで、いわゆる煽りリプを食らった時は大変だった。口を開けばその話ばかりで、見かねた僕が、ネットなんてそういうものなんですよと諭すと、やっぱりヤンキーが作るものは駄目ね、と意味不明な怒り方をした。そのくせ懲りずに新しい物に手を出したがるところも、時々ふと、寂しそうな横顔を見せるところも。

 全部。そう、彼女の全部が好きなんだと思う。それでも……

「僕は本気ですよ、桃子さん。決めたんです。兄さんを救うためなら、どんな代償も甘んじて支払うと――そういうわけです、加奈さん。僕の心でも魂でも何でも、どうか欲しいだけ奪ってください。あなたが死ねというのなら、僕は喜んで死にます。それであなたが満たされるのなら、僕は、どうなったって構わない」

 不思議と恐怖はなかった。ただ、少しだけ寂しかった。

 桃子さんにはまた会えるだろう。でも、兄さんには死者が視えない。僕が死んだら、もう二度と、言葉を交わすことができない。気持ちを伝えることもできない。僕がどれだけ兄さんに感謝し、兄さんを尊敬し愛しているか……だとしても。

「……な、何よ、それ」

 加奈さんの端正な顔が、苛立ちと困惑とに歪んでゆく。なぜそんな顔をする。愛してほしいのだろう。だから愛してやると、そう言っているのに。

「それ……ただ単にお兄さんがめちゃくちゃ好きなだけじゃん。私のこと、全然愛してないじゃん」

「じゃあ、あなたにとっての愛とは何ですか!」

「知らねぇよ!」

 ほとんど金切り声で叫ぶ加奈さん。両手で耳を塞ぎ、髪を振り乱す姿はもはや絵本の悪霊そのものだ。……なぜだ。さっきから僕なりに必死に歩み寄ろうと頑張っているのに、言葉を交わせば交わすほど彼女の感情を逆撫でしている気がする。

「っていうか……決められるわけないでしょうよンなもん! あたしが愛って感じたら……その時キュンときたものが愛なわけ! わかるかクソ童貞! わっかんねぇだろうな童貞には!」

「わ……わからないから教えを乞うているんです! 確かに僕は童貞ですが、童貞なりに、あなたを理解しようと努めているんです! ……それとも、僕が童貞なのが気に入らないんですか。だったら今すぐ、その、そういうお店で捨ててきます! 捨ててきますから、僕の愛を受け取ってください!」

「だから、そういうところが童貞臭くて嫌だっってんだろクソ童貞がァ!」

「それを言えば、童貞の何が悪いんですか!」

「おじちゃん」

 ふと足元で声がして、見ると、心愛ちゃんが小さな指先で僕のコートを軽く引っ張っていた。

「ママを、いじめちゃだめ」

「いや……別に、虐めていたわけじゃ……」

 いや、大人の男が女性を相手に声を荒らげていれば、傍目には虐めているように見えても仕方ない。

「違うんだよ、心愛ちゃん」

 膝をつき、少女の小さな身体をそっと抱き寄せる。

 他の幽霊がそうであるように、彼女の身体もまた真綿のように手触りが覚束ない。その幽かな感触に、僕はどうしようもなく胸が詰まった。

 この期に及んでもなお、自分の命を奪った母親を気遣う少女の優しさ。そんな、心優しい少女を救えなかったと嘆く梶井さんの無念。……が、そんな悲劇もこれで終わりだ。おそらく彼女は、愛情という面では一切満たされずにここまできた。傍目にはどうあれ、彼女の主観ではそういうことになっているのだ。それが全ての元凶だと言うのなら、これからは僕が加奈さんを愛する。たとえ彼女が拒もうとも、僕が、彼女という壊れた器を満たし続ける――

 そう、覚悟を決めた、はずだったのに。

「一体、何が」

「えっ」

 聞き覚えのある声に僕ははっと息を呑む。まさか……

 おそるおそる振り返る。患者用のパジャマではなく、冬場はおなじみの『不労所得』パーカーにジャケットを重ねた兄さんが、リビングの入り口に茫然と立ち尽くしていた。

 その意味するところに、僕は愕然となる。

 間に合わなかった。何もかも――

「た、助けて、陽介!」

 兄さんの姿に気付いた加奈さんが、一目散に兄さんのもとに駆け寄る。途中、桃子さんが慌てて割って入ったが、それすらも加奈さんは当たり前のように突き飛ばし、兄さんに縋りついた。

「桃子さん!」

 桃子さんに駆け寄り、膝をつく。一方、彼女を突き飛ばした加奈さんはというと、己一人が世界で唯一不幸なのだと言わんばかりに兄さんの懐に縋っている。

 僕は基本的に女性には優しくありたいと思っているし、まして誰かが弱り果てる姿を悪し様に言うことはしたくない――が、自己憐憫の涙に濡れるその横顔は、吐き気がするほど醜悪で、何より悍ましい。

「た、助けて、陽介……あいつが、あの男が、いきなり部屋に忍び込んできたの……で、いきなり私を口説いてきて……お願い、あいつを追い出して!」

「……はぁ」

 呆けた顔のまま、兄さんは加奈さんと僕とを交互に見比べる。どうやら現状が呑み込めずに混乱しているらしい。そんな兄さんに、なおも加奈さんはしつこく庇護を求める。

「ねぇ、お願い、陽介――」

「どうして、瑞月がここに」

「えっ?」

「この部屋のことは何も……そもそも、あいつにはもう、この手の仕事は……」

 頭を押さえ、俯く兄さんの肩を、加奈さんは両手で掴んで激しく揺さぶる。まるで、木を揺さぶれば頭上から甘い果実が落ちてくるとでも思い込む猿のように。

「見てよ! ねぇ! 私を見て! そんなキモいクソオタじゃなくて、私を! 私を見てよ! ねぇ!」

 兄さんは顔を上げない。ただ、途方に暮れたような顔で、じっと足元を見つめている。そんなままならない状況を前に、次第に加奈さんの顔が焦りから絶望、そして怒りへと塗り替えられてゆく。

「……どうしてよ」

 震えるその声は、強い苛立ちと悲しみとでひどく軋んでいた。

「どうして? そんなに私が嫌い? そんなに、私と一緒になるのが嫌? みんな、みんなみんなみんな、私と一緒になるって約束して、そのくせ死んだら、私のことなんかどうでも……男ってみんなそう! 付き合う前は調子の良いことばっかり言って、本当に、口ばっかり!」

「それは――」

 単純に、彼女の願望があまりにも身勝手で、一方的であり過ぎただけだ。確かに、そうした愛の形も世の中にはあるのだろう。僕のような若輩者では知り得ない愛の形が――でも。

 だとしても僕は、それを許さない。

「ねぇお願い、お願いだから私を見てよ! あなたのためなら私、また死んでもいいわ。また火をつけるから、今度はもっと綺麗に燃えるから、ねぇ、ちゃんと見てて」

「加奈さん」

 立ち上がり、彼女に歩み寄る。振り返った彼女は、いっそ哀れみを誘うほど悲しげに見えたが、そんな彼女の濡れた瞳すら今の僕には何も響かななかった。

「前言撤回です。兄さんは死んだ。あんたが殺した。もう、僕はあんたを許さない。いいか、よく聞け。あんたは……あんたは、もう誰にも愛されない」

 もはや死すらこの女への罰になりえないのなら。

 永遠に続く呪いを、僕が、この女に与えてやる。

「そう、誰も愛さないんだよ。お前のような身勝手で、強欲で、独りよがりで、我儘な屑女を誰が愛せるっていうんだ。いいか、よく聞け屑女。お前は化け物だ。相互理解不能なモンスターだ。お前のような救いようのないサイコパスはな、永遠に、地獄の底で独りで震えていろ。そう独りでだ!」

「い――いや、いやよ! どうして、私、何も悪いこと」

「散々他人を手に掛けておいて、なに被害者ぶってんだド屑がぁ!」

「うるさい黙れ――」

 ふと懐に白いものが伸びてくる。それは、しかし一瞬後には横から飛び込んだ何かに捉われていた。捉われていたのは加奈さんの腕。その手は僕の胸板数センチ先で、わなわなと虚空を掴んでいる。そんな彼女の腕を今もがっちりと掴んでいるのは――

「桃子さん!?」

「七十年幽霊をやってきた私でも、さすがにその発想はできなかったわ」

 冷ややかに吐き捨てると、桃子さんは加奈さんの腕を掴む手にさらに力を籠める。幽霊なので痛みはないはずだが、加奈さんの顔はひどく苦しげだ。

「は……離せ! 離しなさいよ、この……ガキッ!」

「離さない。生者の身体を擦り抜けられることをいいことに、瑞月さんの心臓を握り潰すつもりでしょう。さすがに潰すまではできなくとも、ほんの数秒、動きを止めるぐらいはできる。心不全を引き起こすことも……そうやって、この部屋を訪れた男性を何人も殺してきたのね」

「だから何? だって、そうしなきゃ新しい家族が……私を愛してくれる家族が、」

「じゃああなたは、心愛ちゃんを愛したの?」

「は……?」

 加奈さんの目がはっと見開く。その、あからさまに面食らった顔が僕は見るに堪えなかった。彼女にとってそれは、意表を突く類の言葉だったのだ。人の親なら、大人なら、当たり前に持つべきはずの感情、それを言い表す言葉が。

「さっきから聞いていれば、愛してほしいだの愛されたいだの! いい歳をして見苦しいとは思わないの!? あなたは、大人になったんでしょう? なれたんでしょう? 平和な時代で何不自由なく! だったら少しは大人らしくなさい!」

「お、大人――」

「やめて!」

 舌足らずな絶叫が、焼け落ちた部屋に響く。

 見ると、桃子さんの腰に小さな影が縋りついていた。影の正体は心愛ちゃんだ。非力なりに精一杯、母親から桃子さんを引き剥がそうと踏ん張っている。

「もう、ママをいじめちゃだめ! ママは、とってもかわいそうなの。ずっと、パパだったひとたちにいじめられてたの。ずっと、こわいって泣いてたの!」

「心愛ちゃん……」

 少女の訴えに、怒りと敵意で強張っていた桃子さんの顔がふと緩む。と、その隙を突くように加奈さんの腕が桃子さんの手を振り払い、そのままこちらに突っ込むようにふたたび手を伸ばしてくる。

 体勢を崩した桃子さんがふたたび手を伸ばすも、縋りついた心愛ちゃんのせいで身動きが取れない。心愛ちゃんとしては別に悪気はなく、ただ母親を虐める人間を引き剥がそうと頑張っているだけなのだろう。その無垢な善意が伝わるだけに、余計に僕は悲しかった。

「だめ! ママをいじめちゃ、だめ!」

「心愛ちゃん、離して!」

 どうして。なぜ、こんな――

「――え?」

 その影が、今度は唐突に目の前から消える。まさか桃子さんが体当たりを、と振り返れば、未だに彼女は心愛ちゃんと縺れ合ったまま悪戦苦闘している。ただ、その目は今の出来事に釘付けになっていて、じっと僕を、いや、僕の隣を見つめていた。

「ああ……そうだ」

 振り返ると、今なお意識のはっきりとしない兄さんが、固く握りしめた右ストレートだけはしっかりと前に突き出したまま、茫然と前を見つめていたいた。

「俺はただ、瑞月を……弟を護りたくて……なのに何で、こんなことになっちまったんだろうな……」

「に……兄さん……?」

「本当に……何でだろうな」

 そんな、らしくない自問の言葉を遺して、兄さんは煙のように掻き消えた。

「う……」

 嘘だ。どうして、そんな悲しい顔で成仏なんか。

 僕のもとに留まることなく成仏するのは仕方がない。そういう信条の人だったから。でも……よりにもよって、あんな顔で逝くなんて。

 吐き気にも似た嗚咽が喉元にこみ上げる。ああそうだ、本来、喪うとはこういうことなのだ。ある日突然、大切な人との永遠の断絶を強いられる悲しみと理不尽への怒り。父さんと母さんが死んだ時にはうまく向き合えなかった感情。ああそうだ、これが……

「また……捨てられた」

 足元から哀れみを誘う呟きが聞こえる。見ると、加奈さんが瓦礫だらけの床に蹲ったまま、殴られた頬を押さえ、丸めた背中を小刻みに震わせていた。

「いつもそう。結局、私は捨てられるの。誰も……誰も私を愛してくれない……また、独りで……」

「ママ」

 そんな加奈さんの肩を、心愛ちゃんの短い腕がひしと抱きしめる。

「こわくないよ。ママは、心愛がまもるんだから」

「こ、心愛……」

 娘に縋るその顔が、不意にはっと色を失い、それから、ふたたび苦しげに歪んでゆく。その双眸には、しかし、すでに憎悪の色はなかった。代わりに、深い悔恨と自責の色とが涙とともに鳶色の双眸を濡らしてゆく。

「ご……ごめんなさい心愛、あたし、とっても、酷いこと……」

 悲鳴に似た慟哭が、彼女の総身から俄かにあふれ出す。

 あまりにも遅い気づきだった。おそらく彼女は、たった今、初めて自分が奪ったものの大きさに気づいたのだろう。反吐が出るほどの愚劣さ。そんな救い難い人間にも、愛してくれる家族がいる。僕のような人間を愛してくれた人がいたように。

 彼女が、具体的にどういった過去を持ち、どういった人生を経て〝化け物〟と化したのかは知らないし興味もない。ただ、それは彼女なりにとても辛いもので、自己憐憫でもって自分を悲劇のヒロインに仕立てるでもしなければ耐えられないものだったのだろう。

 その彼女が今、初めて自分以外の人間の痛みを認め、そのために涙を流している。自分の罪を悔やみ、心から詫びている。自ら殺めた娘の愛によって。

 だが、いくら彼女が悔やもうと、彼女が奪った命は二度とよみがえらない。

「いいの、ママ。だいすき」

「……心愛」

 母親の腕が、縋るように娘を抱き寄せる。そのまま二人は、強く抱き合ったままふわりとどこかへたなびいていった。

「憎しみも知らずに死んだのね、あの子」

 二人が消えた後に残る暗闇をじっと見つめながら、冷ややかに桃子さんが呟く。ただ、その横顔は口調に反して痛ましげで、自分と同じく未来を奪われた者同士、心愛ちゃんの境遇に思うところがあったのかもしれない。

 ただ、今の僕には残念ながら彼女の痛みに寄り添う余裕はなかった。

 兄さんが死んだ。

 これまで身を挺して僕を護り続けてくれた兄さん。僕を支え、この世界との橋渡しを担ってくれた兄さん。ある意味モンスターである僕が、それでも社会から孤立せずに生きられるよう気遣ってくれたのも、仮に孤立してしまうにせよ、そのための生きる糧を用意してくれたのも、全て兄さんだった。

 僕は知っている。兄さんが躍起になって収益物件を集めていたのは、僕に居場所を作ること以上に、たとえ僕一人が遺されても不自由なく生きていけるよう、その糧を現世に遺すためだったのだと。人はいつ、何をきっかけに命を落とすかわからない――だからこその備えとして。

 だからって……こんなに早く逝かなくても。

 そういえば、さっきからポケットのスマホがしきりに震えている。見ると案の定、表示されていたのは兄さんが入院する病院の代表番号だった。

「瑞月さん」

「……ええ」

 電話口で鼻声にならないよう先に洟を啜る。すでに結果を知る悲劇を、改めて聞かされるのは、それはそれで苦しいし、悲しい。でも僕は、今や兄さんにとって唯一生き残る肉親なのだ。

 かつて父さんたちが死んだとき、兄さんが独りでそうしたように、今度は僕が、兄さんのいない世界と向き合わなくちゃいけない。

「……もしもし。比良坂です」

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