赤羽の〝化け物〟 第五話

 大家兼管理人の話によると、件の部屋は、関係者も含めてすでに何人もの犠牲者を出していた。

「ええ。鑑識にいらした警察の方が一人。その後、リフォーム会社の営業担当の方が一人。皆さん、どういうわけか勝手にあの部屋に入り込んで、勝手に倒れて亡くなってらしたのよねぇ」

 困惑顔でぼやくと、都築さんは頬に手を当てて溜息をつく。彼女はこのマンションの所有者兼管理人で、彼女の立場から言えば、勝手に自分の物件に侵入され、挙句、勝手に倒れ込まれるのは迷惑以外の何者でもないだろう。

 加えて今回は、兄さんは彼女に命を救われてもいた。

「このたびは……ご迷惑をおかけしました」

 兄さんが病院に運ばれた翌日、僕はふたたび赤羽に足を運んでいた。目的は兄さんの見舞いのほかにもう一つ――兄さんが倒れたというマンションの調査だ。

 さすがに医師の口からは、兄さんが倒れた具体的な場所については聞き出すことができなかった。ただ、兄さんが最近買い取った物件の中に、赤羽の区分マンションが含まれていて、そこが現場ではないかと僕は直感したのだ。

 結果はビンゴ。兄さんが倒れたのは、まさにその一室だった。

「ああごめんなさい。別にお兄様を責めたわけではないの。そもそもあのお部屋は、すでにお兄様の所有なのだし……」

 今回、部屋で倒れる兄さんを最初に発見したのが彼女だった。昨夕、彼女が防犯のためにマンションを見回っていると、そこで偶然、部屋に向かう兄さんと出くわした。その夢遊病めいた表情に、ふと嫌な予感を覚えた築城さんは、こっそり兄さんの後をつけ、部屋に忍び込んだ。

 彼女の勘は当たった。すでに兄さんは床に倒れ、苦しげに胸を押さえてうずくまっていたらしい。その後、彼女が咄嗟の判断でAEDを用いてくれなければ、今頃、兄さんは本当に帰らぬ人となっていただろう。

「本当に、このたびは何とお礼を申し上げればいいか……」

「いいえ。私の方こそあんな危ない部屋を売ってしまって……やっぱり呪われているのかしらね」

「……呪い」

 彼女の話によると、その部屋では一年ほど前に無理心中が起きているらしい。以来、その部屋では謎の不審死が続出しているとのことだった。僕も一応、今の仕事はそれなりに長いと自負している。生者に害をなす厄介な亡霊に遭遇したことも一応、なくはない。ただ、さすがに部屋を訪れただけで呪い殺されるなんてケースは今回が初めてだ。

 ようやくエレベーターが目的のフロアに到着する。降りてみると、この階のホールにもAEDが設置されていた。一階のロビーのそれと合わせると一棟に計二つ。分譲ならともかく、賃貸マンションではかなり異例だ。

「この階にもあるんですか、AED」

「ええ。念のため設置しておいて助かったわ。だってほら、今回で三回目だから」

 なるほど。これまでの経験を踏まえた上で一応このフロアにも設置したのか。医師の話によれば、心筋細動では一秒でも早いAEDでの処置が明暗を分けるとのことだった。彼女の咄嗟の機転と、これまでの経験を踏まえた設備投資が兄さんの命を救ったのだ。

 その彼女が、廊下の中ほどでふと立ち止まる。見ると、廊下の先で一人の男性がじっとドアを見つめたまま立ち尽くしていた。その横顔は、遠目にもわかるほどひどい火傷の痕に覆われていて、見るからに痛々しい。

「あら、梶井さんったらまた……」

「梶井さん?」

「例の心中事件で生き残った旦那さんよ。今はもう退居してしまっているのだけど、時々ああして心愛ちゃん……娘さんが好きだったガーベラの花束をドアの前に置いてゆくの」

 よく見ると、ドアの前には小さな花束が置かれている。集合住宅の管理人にしてみれば、共有部に、それも住人でもない人間に勝手に私物を置かれるのは迷惑以外の何物でもないだろう。が、なぜか築城さんはそれを咎めない。むしろ、痛ましそうに梶井さんの横顔を見守っている。

 やがて梶井さんは振り返ると、築城さんの顔を見るなりびくりと首を竦めた。

「す……すみません、すぐに立ち去ります」

 小さく一礼すると、梶井さんは足早に廊下の奥へと駆けて行く。エレベーターではなく階段で降りるつもりなのだろう。

 その背中を、僕は慌てて呼び留めた。

「ま、待ってください!」

「え……」

 つんのめるように足を止めた梶井さんは、振り返り、それから、困ったように目を左右に泳がせる。急いでいるというより、単に都築さんと顔を合わせるのが気まずくて、早くこの場を離脱したがっているらしい。集合住宅で火事を起こしてしまった元入居者としては、大家に合わせる顔がないのだろう。

「あ……あなたは?」

「この部屋の新しいオーナー……の、弟です」

「オーナー? あの、そのような方が、どういったご用で……」

「あ、どうか身構えないでください。僕はただ、家事で亡くなった奥様と娘さんについて伺いたくて」

「加奈と……心愛の?」

「はい」

 どうやら奥さんは加奈さん、娘さんはココアちゃんと言うらしい。

「ええと、失礼ですが、何のために?」

「あっ……」

 警戒心全開で問うてくる梶井さんに、僕は精一杯の笑顔を返す。が、ぎこちなさは拭えない。やはり初対面の他人との会話は苦痛だ。まずもって会話の引き出しが少なすぎる。霊の視える変人として周囲に避けられ、そんな彼らをこちらも避けてきたせいで、会話の経験値が少なすぎるのだろう。それでもどうにか生きて来られたのは、そうした対外的な役目を全て兄さんが担ってくれていたからだ。仕事や経済的な側面に限らない。霊の視えない人々との橋渡し役としても、兄さんは、僕にとって不可欠な存在だった。

 でも、これからは僕が、一人で……

「内装工事の前にお祓いがしたい」

「えっ?」

 振り返ると、桃子さんがうんざり顔で僕を見つめていた。

「ほら、早く復唱なさい。――お祓いの際、亡くなったお二人に哀悼の意を表したい。そのためにも是非、生前のお二人についてお話を聞かせてもらいたい、って」

「ええと、」

 とりあえず、言われた通りに復唱する。梶井さんは訝しむ顔を見せたものの、やがて、観念したように小さく溜息をついた。

「そうですね……考えてみれば、私に事実を伏せる権利などあろうはずもないんです。まして、現オーナーさんが相手ということなら……」

 そして梶井さんは、ひどく疲れた目でうっすらと笑う。何となく長くなりそうな予感がした僕は、人様のマンションで立ち話も何ですからと、とりあえず場所を移すことにした。


 僕らが移ったのは、駅前のスターバックスだった。

 重い話を交わすにはカジュアルすぎるチョイスという気もしたが、たまたま目についたのがお馴染みの緑の看板だったのだ。

 とりあえずカウンターでブレンドコーヒーを二つと、桃子さんのためにキャラメルモカフラペチーノを注文すると、僕は、三人掛けのテーブルを選んで腰を下ろす。僕と梶尾さんが向かい合うように。そして、余った一席には桃子さん。

「彼女は……加奈は、愛し方の難しい女性でした」

 コーヒーを二、三口啜ったところで、梶尾さんはおもむろに口を開いた。

「難しい?」

「ええ。何と……説明すれば良いんでしょう。例えるなら、栓の抜けた……いくら水を注いでもお湯の溜まらないお風呂、と言いますか……とにかく……受け取ってもらえないんです。こちらの愛情を、一切……例えば、プレゼントは全て捨てられる。一度なんて、誕生ケーキを買って帰ったら玄関先で箱ごと投げ返されたこともあります。……いや、あの時はさすがに堪えたなぁ」

「……それは、」

 単に愛されていなかっただけでは、と喉まで出かかる言葉を慌てて呑み込む。ただ、今の話を踏まえるなら、加奈さんは夫の梶井さんを憎むか嫌うかしていて、だから……

「単に嫌われていたということなら、正直、マシだったと思います」

「えっ、あ……」

 どうやら呑み込んだ言葉が勝手に顔に書かれていたようだ。が、さいわい梶井さんは気を悪くするでもなく、淡々と話を続ける。

「まぁ、普段はこんな調子ですが、実はものすごく愛情に飢えていたんですよ、彼女。少しでもLINEの返信が遅れると、死ぬと言って本当に手首を切ったり……あと、結婚記念日に僕が残業で帰りが遅れた時は大変でしたね。あの時は、睡眠薬をドカ飲みされて結局、救急車を呼ぶ羽目になりました。いや、あれは本当に大変だったな……」

 そして梶尾さんは、ははっと乾いた笑い声を漏らす。でも、僕としては笑い事どころじゃない。そもそも、相手の感情表現がいちいちエキセントリック過ぎて理解が追いつかない。こう言っては失礼に当たるだろうけど、もはや人語を解さない獣も同然だ。

 ふと、ある可能性が胸を塞ぐ。あの部屋で待つのが――兄さんを死の淵に招いたものが、この、意思疎通不能な〝獣〟だったとして。

「あの……別れようとは思わなかったんですか」

 すると梶井さんは、カップに目を落としたまま力なくかぶりを振った。

「怖かったんです。心愛ちゃんが……殺される、と思うと……」

「殺される?」

「はい。加奈は……何といえばいいのか……そう、他者の愛を得るためなら手段を選ばない女性でした。そのためには……心愛への暴力すら厭わなかった。あの無理心中ですら、その一手段に過ぎなかったんでしょう」

 ふと、梶井さんはぐっと声を詰まらせる。カップを手にする指先に、ぎゅっ、と力が籠った。

「心愛の身体には……四歳にして、すでに夥しい傷跡が刻まれていました。……過去、恋人に拒まれるたびに加奈は自傷行為で相手を引き留め、それでも相手が振り向いてくれないとなると、今度は……心愛を傷つけていたそうです。……もっとも、その事実に気付いたのは籍を入れてしばらく経った後でしたが……」

「ひどい」

 気付くと、そう声に出してしまっていた。が、梶尾さんもそこは異論はなかったらしく、素直に「ええ」と頷く。

「本当にひどい話です。あの子には何の罪もなかった。偶然、生き方の不器用な母親のもとに生まれてしまっただけで……」

 気まずい沈黙が僕らを包む。どこかのテーブルで明るい笑い声が弾け、それが、テーブルを覆う静けさを余計に際立たせる。

「あの子は……本当に良い子だったんです」

 梶井さんの手にするコーヒーが、ぽた、と音を立てて波打つ。見ると、いつしか梶井さんの頬は涙に濡れはじめていた。

「可愛くて、賢くて、血こそ繋がってはいませんでしたが、本当の娘のように……愛していました。ドアの前に置いたオレンジ色のガーベラは、生前、あの子が一番好きだった花です。将来は……お花屋さんになりたいと……そう、言って……」

「……それは、」

 言葉もなかった。少女に与えられたはずの美しい未来。それは、しかし一方的な大人の暴力に無惨にも奪われてしまった。

「……すみません。あの子の話になると、どうしても駄目でして」

 ようやく心が落ち着いたのか、セーターの袖口で涙を拭いながら梶井さんは詫びる。

「ええ。実の父親でもない僕に、あの子は、本当によく懐いてくれました。……もっとも、ころころ変わる父親に、その都度愛してもらうための生存戦略だったのかもしれませんが……」

 心愛ちゃんを憐れむ梶井氏の双眸は、加奈さんについて語る時よりも情愛に満ちて見えた。夫婦仲はともかく、彼ならきっと、心愛ちゃんの良き父親になっただろう。いや、なったはずなのだ。

「あの、こんな質問は酷だと承知の上でお訊ねしますが……どうすれば、お二人を救うことができたと思われますか」

 仮にあの部屋に潜むのが加奈さんの霊だとして、僕よりもはるかに彼女を知る梶井さんなら、あるいは成仏の鍵を示してくれるかもしれない――そんな僕の期待は、しかし、彼の疲れ切った笑みに打ち砕かれた。

「いっそ……私が加奈を殺せばよかったんです」

「えっ」

「そう、殺すべきだった……そうすれば、少なくとも心愛だけは護ることができた。まぁ、所詮は結果論ではありますが……」

 それは――確かに、有効ではあっただろう。相手がまだ生きていた頃ならば。

 店を出る頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。時計を見るとまだ午後の四時。冬の、とりわけこの時期はびっくりするほど早く日が落ちる。

 梶井さんに感謝と別れを告げると、僕らはふたたびあのマンションへと足を向けた。刻一刻と冷たくなる夜風が容赦なく体温を奪う。僕は鼻先まですっぽりとマフラーで覆うと、外灯がぽつぽつ灯りはじめた黄昏の町を、無言のまま、桃子さんと並んで歩いた。

 口を利く気になれなかったのは、単に、この北風のせいだけではなかった。

 もし、梶井さんの話が事実だったなら――今となっては、いっそ梶井さんの言葉が全て冗談だったならと思わずにはいられない。それほどに、彼の語る加奈さん像は理解不能の化け物じみていた。

 無限の愛情を求めながら、その実、一切の愛を拒む矛盾の塊。際限のない理解を求めながら、そのくせ一切の理解を拒む特殊すぎる精神構造。……まさに化け物、モンスターだ。

 いや。それを言えば僕だって。

 そう、僕もまた化け物だったのだ。言語は通じるのに、言葉は通じない。認識も、見つめる景色さえ共有できない。それでも兄さんは、いつだって僕に寄り添ってくれた。こんな、理解不能な化け物と。

 彼女にも、寄り添う誰かがいてくれたのなら、あるいは何かが変わっていたのかもしれない……

 不意にポケットのスマホが着信を告げる。さっそく取り出し、画面を見た僕は、そこに表示された番号に凍り付いた。

 表示されていたのは、兄さんが入院する病院のそれだった。まさか、と隣の桃子さんを振り返れば、桃子さんも何かを察したのか、ひどく蒼褪めた顔で僕とスマホの画面とを見比べている。

「瑞月さん」

 その手が、僕の手にそっと添えられる。

 僕は小さく頷くと、受話器の表示をそっとタッチした。

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