赤羽の〝化け物〟 第三話

 ロビーに現れた吉井は、案の定、絵に描いたような仏頂面だった。

「二度とここには来るなと言ったはずだが」

 静かな物言いの中に潜む強い怒気に、陽介は臆することなくやんわりと微笑み返す。

「承知しています。ただ、最後に一度、先日のお詫びをさせて頂きたく」

 そして陽介は、持参した菓子袋を両手で恭しく差し出す。中身は、都心の百貨店にある和菓子コーナーで買い求めた高級羊羹で、謝罪のしるしとしては無難な品だ。

窓から降り注ぐ日差しは相変わらず眩しい。そんな中、吉井が纏う空気は先日と同様、恐ろしく冷ややかだった。

「うちの妻は、おたくの馬鹿弟のせいで危うく死にかけた。こんな、つまらん菓子折り一つで水に流せと?」

「いえ。これは私なりのけじめです。……どのみち許される罪ではありません」

「けじめ……か」

 吉井は小さく舌打ちをすると、ひったくるように紙袋を受け取った。

「受け取ってやる。だから、もう帰れ」

「はい」

 陽介は、それ以上は弁明の言葉を口にしなかった。ここで菓子折りを受け取ってもらえたということは、謝罪したい、という陽介の意志だけは汲まれたことを意味している。その温情だけで、陽介には充分感謝に値した。何より――今しがた陽介も言ったように、事実、あれは謝って済む類の罪ではない。瑞月が悪意からあのような行動を取ったとは、さすがに思わない。むしろ善意から、子供の霊を母親に引き合わせたのだろう。ただ、結果として一人の女性の命を奪いかけたことに変わりはないのだ。

 よしんば、子供の霊が彼の妻を手にかけなくとも、一度は二人が振り切った過去を――死者と暮らす異常な日常を、勝手に蘇らせようとした罪は重い。

 瑞月には理解できなかった。これが、どれほど罪深い行ないであるかを。それはつまり、あの日の陽介の想いが、願いが、何一つ瑞月に届いていなかった、ということを意味している。

「このたびは、ご迷惑をおかけしました」

 深々と腰を折り、踵を返す。吉井に釘を刺されなくとも、ここには二度と足を運ぶつもりはない。そもそも、訪れる理由もない。最初に彼がここを訪れたのも、遺族の言葉から何かしら除霊のヒントを得るためだったのだ。その子供も、瑞月の話ではすでに成仏しているらしい。

「君は平気なのか。ああいう家族を持って」

「えっ」

 足を止め、振り返る。陽介を見据える吉井の双眸は、先程までの高圧的なそれとは打って変わって険しい中にもどこか縋るような弱さが窺えた。

「俺は……平気じゃなかった」

「……吉井さん?」

「啓太が死んでしばらくして……妻は突然、啓太が帰って来たなどと言い出した。それから三十年、妻は、妄想の中の啓太と暮らし続けた。生きていた頃と同じように食事を与え、風呂に入れ、絵本を読み聞かせ、そうして一緒に眠った。……それを三十年、三十年だ! 普通じゃない。死んだはずの子供を、まるで、生きているみたいに……!」

 ぽつりぽつりと吐露される言葉は、気丈な表情とは裏腹に頼りなく震えていた。

 三十年。その言葉にこもる悔恨、絶望、無力感に、陽介はふと想いを馳せる。その間、おそらく吉井は誰にも相談できず、さりとて現状を打開する糸口も見つけられず、たった一人、理解者も得られないまま家族を支え続けたのだろう。吉井の言葉に滲む深い疲労は、その徒労を嘆く声なき慟哭のように陽介には聞こえた。

「それで、あのマンションを売って、こちらに?」

「ああ」

 吐き捨てるように答えると、吉井は皮肉っぽく唇を歪める。

「最後の手段だった。妻を現実に引き戻すためのな。妻にあの子を忘れさせるには、あの子の想い出が残る場所から引き剥がせばいいと。……結局それも、おたくの弟にぶち壊しにされてしまったが」

「その件に関しては……お詫びの言葉もありません」

 改めて、陽介は己の不手際が恨めしくなる。

 陽介が彼の立場なら、謝罪に耳を傾けるどころではなかっただろう。三十年分の苦しみを、孤独を懊悩を、決断をもって断ち切った矢先に全てをぶち壊しにされる。これほど腹立たしく、情けないこともない。

「それで……君は平気なのかね」

「……え」

「正直、君等とはもう関わりたくもない。……ただな、かつての俺と、あるいは同じ孤独を抱えているかもしれん青年を突き放せるほど、俺も人間が出来ちゃいない」

 その言葉に、陽介は何かが溢れかけ――ぐっと飲み込んでから深々と頭を下げる。

「お気遣い、痛み入ります」

「また来なさい。もう俺には売れる部屋も土地もないが……話だけなら聞いてやらんでもない」

 言い残すと、吉井は踵を返し、ロビーの奥へと消えてゆく。そんな吉井の背中をしばし見送ると、今度こそ陽介はエントランスに足を向けた。

 建物を出たところで懐のスマホが着信を告げた。番号は見なくとも、どうせ相手は瑞月か、さもなくば業者に違いない。

「おう、何だ――」

『パパ、次はいつ帰ってくる?』

「……は」

 聞き覚えのない――否、どこかで聞いたことのある声に陽介は息を呑む。一体どこで聞いた。まだ充分にあどけなさの残る、舌足らずな子供の声を、どこで……

「こ……今夜、帰るよ。ママにも、そう伝えてくれるかな」

『ほんと? わぁい!』

「うん。ママの言いつけを守って、いい子にしているんだぞ」

 返事はなかった。見ると、スマホの画面は真っ黒で待機画面すら映していない。ロックを解き、着信履歴を検める。リストの一番上に表示されていたのは、午前中に空室の確認を入れてきた業者の番号だ。それ以降の履歴は一つも表示されていない。

 一体、誰から。

 わからない。わからないが――

「……帰らなきゃ」

 そうだ。帰らなければ。愛すべき妻と娘が待つあの部屋へ。

 家族が待つ、あの部屋へ。

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