吉祥寺の座敷童子 第五話
「子供の霊を連れて行ったんだな」
翌朝。ダイニングで食事を摂っていると、ふと、思い出したように兄さんは切り出した。それは一見、穏やかに聞こえる口調で、でも昔から、本気で怒った時の兄さんが逆に物腰柔らかく見えることを知る僕は、口に含んでいたパンをごくりと呑み込むと、フォークを置き、慌てて居住まいを正した。
「……うん」
あの後、おそらく吉井氏は兄さんにクレームの電話を入れたのだろう。偽りの用件で押しかけられた挙句、危うく奥さんを殺されかけたのだ。たとえ兄さんが直接の犯人ではなかったにせよ、吉井氏にしてみれば、あれが僕の独断専行だったのか、それとも兄さんの命令だったのかはわからないし、どちらでも変わりのないことだ。
「ご……ごめん。あんなことになるなんて、その、思ってなくて……僕はただ、二人が幸せになればいいと思って、それで……」
「だが俺は、会わせるなと言った」
「……うん」
手元のパンを見つめながら、僕はこく、と頷く。あえて兄さんの目を見る勇気はなかった。怒りならまだいい。例えば、そこに突き放すような軽蔑の目があったなら、きっと、僕は耐えられない。
「もう二度と、兄さんには逆らわないから……言いつけは守るから……」
震える声で、辛うじてそれだけを絞り出す。……怖い。兄さんに見捨てられることが。だって僕は、兄さんがいなければ何もできない。仕事も、生活も、他者とのコミュニケーションも、僕一人ではどうにもならない。だから。
「過ぎたことはもういい」
僕の言葉を、兄さんは静かに否定する。
「それより瑞月。お前は、なぜ俺が二度とあの夫婦に関わらないと言ったと思う。子供の霊を、母親には会わせないと言ったと思う」
「それは……け、啓太君が、お母さんを殺すと思ったから……?」
「違う」
意外な返答に顔を上げる。恐れていた軽蔑の目はそこにはなかった。代わりに、ひどく悲しげな双眸が僕をじっと見つめていた。
そう、悲しい眼だ。叶わぬ何かを願うような、遠くて……
「俺だって、あんな結果を予測できたわけじゃない。俺が訊きたいのは、俺の言葉をお前がどう解釈したのか、だ。お前はなぜ、俺があの二人の再会を引き止めたと思う」
「そんなの……」
わかるわけがない。そもそも僕は普通じゃない。普通じゃないから、あらゆる思考が歪んでしまう。間違ってしまう。だからこそ、あえて考えることをやめたのだ。考えれば考えるほど、自分が普通ではないことを思い知らされてしまうから。
「わ……わからない。あの子が可哀想だと思っただけで、解釈なんて、何も……」
ふと冷たい沈黙がテーブルを覆い、気まずさにそっと目を伏せる。やっぱり僕の答えは駄目だったらしい。でも、じゃあ何と答えればよかったのか。僕は一体、何をどうすればよかったのか。――そもそも何もしなければよかったのか。
「可哀想、か」
そう呟く兄さんの声は、何だかひどくくたびれて聞こえた。
「死んだ人間には同情できるのに、生きている人間の気持ちは、これっぽっちもわからないんだな、お前は」
「えっ」
「もう二度と、俺の仕事に関わるな」
それは一体、どういう――そう、僕が問い返そうと顔を上げた時には、もう兄さんの姿はテーブルにはなかった。
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