吉祥寺の座敷童子 第二話

 啓太君の両親が移り住んだ介護つきマンションは、吉祥寺から電車でさらに二十分ほど下った町にあった。

 入り口の受付では、意外にもすんなりと中へ通された。どうやら事前に兄さんの方から用向きを伝えていたらしい。さすがに息子さんの霊を祓うためにお母様に会わせてください、なんてことは言えるわけがないから、どうせ適当な口実を告げたのだろう。

「本当に、連れて来なくてよかったの」

「ああ」

 最初の内見以来、すっかり桃子さんに懐いた啓太君は、今日は麻布の屋敷で彼女と一緒に留守番をしている。本当は同行させたかったのだけど、なぜか兄さんに反対され、結局はお留守番というかたちになった。

 理由はわからない。ただ、兄さんのすることだ、何か……考えがあるのだろう。きっとそうだ、そうに違いない。 

 中庭に面するガラス壁から冬の澄んだ日差しが燦々と差し込むロビーは、若輩の僕でもつい居座りたくなってしまう心地よさだ。そのロビーにいくつか並ぶテーブルの一つで僕らを出迎えたのは、しかし、意外にも美里さん本人ではなかった。

「吉井です。……失礼ですが、比良坂さんでいらっしゃる?」

 立ち上がり、そう声をかけてきたのは険しい顔つきの初老の男性だった。

 毅然とした表情のせいか、白髪と、目元の皺が目立つ以外は今日日の若者よりも若々しく見える。わざわざ施設への入所を選ぶほどだから、てっきり五津氏のように、足元が覚束ないほど体力が衰えているのかと思ったのだけど、案外そうでもなさそうだ。

 念のため周囲を見渡すけれど、奥さんらしき女性の姿は見当たらない。

「ええ。昨日お電話を差し上げました比良坂です」

 兄さんは深々と腰を折ると、懐から名刺入れを取り出す。背広の時の兄さんはどこからどう見てもエリート官僚の佇まいで、今日の朝食で「にんじんはもう一生分食った!」と、ポトフの人参をきれいに残した二十七歳児には見えない。

「不動産投資業……」

 名刺を受け取った吉井氏が、ふと怪訝な顔をする。

「マンションのトラブルに関する質問と仰るので、てっきり管理組合の方かと思っていたのですが」

 そう問いかける吉井氏は、早くも怪訝の色を強くしている。

「先に断っておきますが、例の瑕疵について私に責任を求められたところでどうしようもありません。当時、あのマンションを買い取った業者にも、例の瑕疵についてはきちんと説明しておりますし、そういった事情も込みで査定をして頂きました。あなたも、売買契約を結ぶ際に前のオーナー、あるいは業者から告知を受けたはずですが?」

 自分に責任はないという、かなり強めの予防線。ひょっとすると吉井氏は、これまでも似たようなやりとりを以前の業者やオーナーと繰り返してきたのかもしれない。

 でも今回は、決して彼に責任を問いに来たわけではないのだ。

「ええ。告知事項についてはもちろん伺っております。今回、吉井さんをお訪ねしたのは、あの現象がいつ頃、あるいは、どういった出来事をきっかけに起こるようになったのか、それを伺うためです」

「……きっかけ」

 兄さんの言葉に、吉井氏は安心するどころか余計に警戒の色を強める。今の反応を見るに、責任云々よりも怪異そのものについて探られることを強く恐れているようだ。

 やはり吉井氏は、怪異の原因を知っているのだろうか。……それが、息子の啓太君であることも。

「査定時にご丁寧にも買い取り業者に申告なさったということは、以前からああいった現象をご存じだった、ということですよね。とはいえ、怪異の内容を聞き及ぶ限り、原因も何も知らない状態では長く耐えられるものではありません。しかし、あなたと奥様はあの部屋で三十年も住まわれた。……ゆえに私は、吉井様はその原因に心当たりがあるのでは、と考えているのです。同じ怪異でも、原因に思い当たりがあるものとないものとでは、受け取るストレスも変わるものです。なので、」

「知らんッッ!」

 唐突な怒号とともに、吉井氏の拳がテーブルを叩く。僕は慌てて首を竦めると、おそるおそる吉井氏を見上げた。

 落ち着いたナイスミドルはすでにそこにいなかった。代わりに僕らを睨みつけていたのは、こめかみをひくつかせた癇症の老人だ。

 なぜ、ここまで僕らを拒むのだろう。

 事前に調べたところによれば、啓太君は日射病、今で言うところの熱中症で亡くなったとされている。虐待などの後ろ暗い事情があればともかく、彼は、あくまでも突然の不幸で息子を亡くしたにすぎない。……なのに吉井氏は、怪異の原因に触れられることをひどく恐れているように見える。

「……どうかしている」

 やがて氏は、震える声で吐き捨てた。

「まさか、お前たちまで啓太が原因だと? 馬鹿を言うな! あの子は三十年も前に死んだ! そんな子供に一体何ができる! それともあれか? お前たちまで啓太はあの部屋にいると、そんな、ふざけた妄言を抜かすのか?」

 そうまくし立てる吉井氏の目は、もはや完全に敵意に塗りこめられていた。しかも、その敵意は決して的外れではなく、僕らが言わんとすることを先回りで否定している。まるで……そう、すでにそうした〝妄言〟に散々苦しめられてきたかのように。

「啓太がどうかしたの、あなた」

 優しげな女性の声がして目を移す。吉井氏の背後に、品の良い初老の女性が杖を支えによろよろと立っていた。

「啓太が……ねぇ、啓太がどうかしたの」

「何でもない。いいから、美里は先に部屋に戻っていなさい」

「……美里?」

 ということは、彼女が吉井氏の奥様で――啓太君のお母さんか。

「今、啓太のことを話していたでしょう。ねぇ」

「戻れと言っている! 女が男の話に嘴を突っ込むんじゃない!」

 叩きつけるような怒号に、美里さんはびくりと首を竦ませる。が、夫の権幕に怯えはしても、その目は明らかな不満、いや怒りを訴えていた。その無言の威圧に、今度は怒鳴った吉井氏の方が気圧される。

「だ……誰も啓太の話などしていない。いいから部屋に戻りなさい。なに、すぐに終わる。部屋でお茶でも飲んでゆっくりしていなさい」

「……そう」

 美里さんは悲しげに目を伏せると、やはり杖を支えにのろのろと廊下の奥に消えてゆく。丸みを帯びたふくよかな背中は、今はひどく寂しげに見えた。

「啓太は……うちの一人息子です」

 その背中を見送りながら、ぽつり吉井氏は打ち明ける。皺に縁取られた眼窩の奥では、今にも泣き出しそうな眸が悲しげに震えていた。

「長い不妊治療の末にようやく授かった子供でした。産まれた時は、妻もとても喜んで……啓太という名は、世のため人のため、まだ見ぬ新しい世界を切り拓く人間になれるよう付けた名前です。……そういう人間に、育ってほしかった」

 嗚咽に喉を震わせながら、氏はテーブルに目を落とす。

 育ってほしかった。願いを込めた過去形が示す事実はいつだって悲しい。

「あれは、あの子が小学一年の時の、蒸し暑い夏の日でした。その日は、朝から校庭で全校集会が開かれていました。今はどうかわかりませんが、当時は、屋外での活動中に水を飲むことは厳しく禁じられていた。あの子が倒れたのは、集会の最中だったと聞きます。経過観察のために保健室に運ばれて、しかし、救急車が呼ばれるような事はなく、その間に息子は……」

「……それは」

 啓太君があらかじめ僕に打ち明けてくれた証言とも符合する。グラウンドでの集会の最中、不意に目眩を感じた啓太君はそのまま倒れ、次に目覚めた時には、病院で彼の遺体を抱いてむせび泣く両親の傍らにぽつんと立ち尽くしていたという。

「あの子は死んだ」

 吐き捨てると、吉井氏は振り返る。その目には、さっきと同じ敵意と警戒の色がよみがえっていた。

「そう、死んだんだ。魂として留まってもいなければ、私たちに語り掛けることも……だから、もう、二度と我々に関わらないでくれ」

「帰るぞ、瑞月」

「えっ?」

 驚く僕をよそに兄さんは腰を折ると、丁寧に断ってから踵を返す。僕は慌てて吉井氏に頭を下げると、小走りで兄さんの背中を追った。

「兄さん!」

 エントランスを出たところで、ようやく兄さんに追いついた。

「急にどうしたのさ! 美里さんに……お母さんに啓太君と会ってもらう約束は!」

「やめだ」

「えっ?」

「子供の霊には会わせない。……あの二人は、二度とこの件には関わらせない」

「……は」

 意外な言葉に、僕は途方に暮れる。急に何を言い出すんだ。目の前に、誰の目にも明らかな解決策が転がっている。たとえそれが解決策にならなくとも、啓太君はお母さんに会いたがっているし、お母さんも啓太君に会いたがっている……なのに。

「ど、どうしてそんな……だって、美里さんはあんなに、啓太君に会いたがって、」

「だからだよ」

 ようやく兄さんは振り返る。その、何かに憤るような、それでいて疲れたような目に、僕が抱いたのは強い既視感だった。

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