9.私


 見違えたよ、と誰かが言った。今までごめんなさい、と口が動いた。

 私、目が覚めました。だから、今日からは、新しい私です。

 髪を整え、背筋を伸ばし、笑顔で、目を見て、善き人間らしく。一般に馴染み、社会性を保ち、関わりを忌避せず、善意を確かに受け止める。求められた人間性で茶番をこなし、人を愛するふりをする。

 すべてが遠く、過ぎ去った日々のように実感を失って、おぼろげなスクリーンに映る世界を、私は見つめている。

 微睡みの淵で、私の帰りを待ちながら。


 彼女はマンションの階段を上り、表札のない部屋の前で立ち止まるだろう。静まり返った暗闇を、通路の青白い光が照らしているはずだ。その中で、彼女は鍵を回して、ドアを開ける。

「や、ただいま」

「おかえり」

 私はスウェットを着たまま、電気を点けたままの廊下で彼女を出迎える。彼女はスーツを着て、揃えられた靴から足を抜く。

「はー、今日も疲れたよ。お腹すいちゃった」

 傍を通って、明るいリビングに向かう彼女の背を、私は追っていく。もう暗闇に帰る必要はない。これからはいつだって、私がいるのだから。

 料理、代わってもらえる? と彼女が言う。

「うん、まかせて」

 そう言って、私は笑う。

 世はすべてこともなし、と言うように。

 一人きりで、笑ってみせる。

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名前のない 伊島糸雨 @shiu_itoh

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