4.先輩


 小学校に上がるまでは漠然とした、けれど強烈な対人不安のようなものだったのが、明確に吐き気と直結するようになったのは中学生の頃からだ。

 自分から流れる血の生臭さを知って、それがたまらなく人間であることを感じさせた。それが、最初に覚えた吐き気になる。

 これが皆に流れているのか? そんなことはあるはずもないけれど、そういった事実は何一つとして私を助けなかった。

 私は時間とともに吐き気と嫌悪を学習していった。貪欲に自分を調教し、条件付け、奴隷として仕立て上げていく。意図も恣意も介在せず、当たり前に周囲と同じだけの力で生きようとすればするほど、私の口からは自分への励ましよりも胃液の方が多く出た。そういった諸々の原因が人との関わりにあると気づいてからは、拒絶と回避を繰り返すようになって、おかげさまで孤立することができた。

 他者と距離を置いて一人で過ごす日々は穏やかだった。ただ一つ、自分という切り離せない人間がいることを除いては。

 本当の自分がどうかなんてどうでもよかった。私が私であることの重要性など知りたくもなかった。

 ただ、赦すことができなかった。この剥がすことのできない皮膚、赤々とした肉と黄色い脂肪が私であるということを、どうしても許容することができなかった。

 今は気がついてよかったと思っていることがある。幾度か首に痕を残してから、不意に私は怖くなった。もしかしたら、死は終わりではなく、新しく始まるための事象に過ぎないのではないか。巡るために必要とされる通過儀礼に過ぎないのではないか……。もう一度繰り返す可能性を想像した時、私は死に縋るのをやめた。地獄を繰り返すのは、罪人の役割というものだろう。

 大学生になって、一人でいるために親元を離れて暮らし始めた。そのはずなのに、どうしてか気がつくと同居人の彼女が居座っていた。卒業後は就活に一度失敗してから、どうにか今の会社に入ることができた。他に選択肢を考えられなかった私のろくでもなさによって、生活のためだ、と必死に耐える日々が続いている。

 パーソナルスペースというものが物理的な隔壁として機能すればいいのにと、常日頃から思っている。憎しみと怒りと吐き気をマーブル色に混ぜた思考で、馴れ馴れしい先輩や不躾な上司から遠ざかる。

 口を開いてもいいことがあるとは思えないから、必要以外は黙り込んで仕事に集中した。最低限の接触。最低限の会話。必要以上の仕事。悪態は吐かない。悪意のない善人に、会話の口実を与えてしまうから。

 悪意のない善人。それは例えば件の先輩だ。合コンの折に背中をさすりに来た人。人好きのする目鼻顔立ちに、身体つきもきっと理想的な部類に入るのだろう。あの人は、あれから私を気にかけてか、休憩時間や終業後に私のところまで顔を出すようになった。これまでは、そんなに頻繁に現れることもなかったのに。こっちに来ると必ず、私を気遣うような言葉をかけてくる。最低限の反応は返すけれど、はっきり言ってやめて欲しかった。私はそのよくわからない善意を受け取れないし、返すあてもない。溝の中にいる私に硬貨を投げつける行為は、私を痛めつけるばかりだった。

 大丈夫? 調子はどう? 顔色悪いよ? あ、そうだ、もしよかったら今度お茶でも……。

「それは君のことが好きなんだろうね」

 揶揄うように言う彼女に私は反駁した。馬鹿げている。わけがわからない、と。

 すると彼女は私の顔を指し示して、

「言われたんだろ、素材はいいんだから、って。人類もこれだけ蔓延っていれば、素材を大切にする人間もいるだろうさ。一人や二人どころじゃなく、ね」

「いい迷惑だよ。独善的で、暴走してるでしょ。理解できない……」

 彼女はその日で一番大きな声で笑った。たっぷり十秒は笑ってから、吐き出すように言う。

「そりゃそうだ! だってそれは、一つの愛の形なんだからね。独善的、暴走、大いに結構。誰かを愛するなんて、そんなもんなんだよ」

 君が読んだ本からだってわかるはずだよ。君が一時期理解しようと努めたものの亡骸の中に、そんな表現はいくらでもあったじゃないか。

「まぁ、それでわかるわけもないのだけどね。だから見切りをつけた。その選択は、正解だったかな」

 彼女の口調にはかすかに嘲りの色が見て取れた。私が最近苛立っているのを受けてのことだろう。

 煩わしく鬱陶しく私を追い詰める人、人、人。そして私。

 感情は名前を帯びて、言葉の上で私を苛んでいく。

 終わりなどないだろう。けれど、いつしか何か一つだって、解決の果てに辿り着けはしまいかと、日々夢想せずにはいられない。

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