第2話  小白川 (こしらかわ) ~宮仕え前~

 あれは正暦四年の一月半ばころのことでした。

 私は与えられた宮中の局にて、亡き父の知人でもあった式部のおもとと対面いたしました。文は何度かやりとりをしていたものの、父とおもととがどのようなつきあいであったのかも知らず、言葉を交わすのは初めてです。

「関白様ご一家は、あなたの出仕をそれはもう待ち望んでいらっしゃったご様子ですよ。とりわけ、中宮様がお喜びのようで。私も間に立って何度もあなたに文を送った甲斐があったというものです」

 想像していたような、『宮中に仕える古参の女房』とは異なり、おもとのさばさばとした物言いに、私は緊張がほどけていくのを感じました。

「いろいろとお世話をおかけ申し上げ…」

 言いかけたところで式部のおもとは「いいのよ」というふうに軽く首を振り、なおもこう続けたのです。

「あなたのお噂は宮中でも評判で、中宮様はとくに小白川のお邸での話をお気に召したようですよ。言葉のやりとりとなると、殿方とでも正面から向かっていくのが『女離れしている』と仰せでした。例にも無いことに、中宮様御自らあなたの呼び名をお考えになったのですよ。『中納言の義懐よしちか』と渡り合ったのなら、少納言と呼びましょう』と。あなた、今日から清少納言せいしょうなごんよ。ずいぶん、名誉なことですこと」

 式部のおもとの話は、本当にもったいないこと限りなく、返事に困るようなことなのでした。おもとの口調にとげとげしさはつゆほども感じられなかったのですが、中宮様からお名前を頂戴したことは人に語るまいと思いました。

 それにしても、小白川でのあの出来事を中宮様がご存知だったとは…。六、七年も前の話ですから、父君道隆様にお聞きになったのだろうと推量し、その場にいらっしゃった、お若かった当時の道隆様のご様子が鮮やかに思い出されました。


 小白川邸といえば藤原済時なりとき様のお邸ですが、寛和二年の夏、華八講がそちらで催されました。四日間も続く盛大な法会ほうえですので、なんとか半日だけでも聴講したいと思い、お顔もお声も申し分なく高貴で美しいと評判の清範僧都せいはんそうずがお説教なさる日を選んだのです。それは当然のことでございましょう。うっとりと目が釘付けになる方が、教えもそのまま身につくというものです。さもないとよそ見をしてしまいお説教を聞き逃してしまいそうです。ああ、こんなことを言って仏罰をこうむるといけないのでよしましょう。

 小白川邸へ赴いた目的は他にもございました。私には橘則光たちばなののりみつという夫がありましたが、子供の頃から父に教え込まれた風流じみた感覚を、家の女という枠の中でもてあましておりました。せめてこのような催しでやんごとなき身分の方々を垣間見て、華やいだ気分になりたかったのです。

 その日、朝早くから出かけたので、邸内に招かれておいでの上達部かんだちめ殿上人てんじょうびとからさほど離れていないところに場所をとることができました。さすがに文殊菩薩の化身とうたわれた清範僧都せいはんそうず様。後ろには次から次に車が押し寄せて、まるで折り重なっているようです。皆、目的の半分は物見遊山といった風情でした。

 邸の中では、まだ三位の中将でいらっしゃった道隆様、藤大納言為光ためみつ様、権中納言義懐よしちか様、邸の主済時なりとき様のお身内実方さねかた様が特に人目を惹くご立派なお姿でした。義懐よしちかさまは女車が来るたびにそちらへ目を走らせ、お文の使いをおよこしになるのでおもしろくて、目が離せない気がします。そこへ新たに来た車に目をお留めになって、早速お文を使わされたところ、先方からのお返事がなかなか参りません。

「歌など詠んでくるのかもしれないから、実方さねかた、今から返歌を考えておけよ」

 義懐様が笑って仰るので、こちら側の人々までが興味深げにうかがっておりました。ようやく戻って来た使いがゆっくり近づいてきて、態度を気取らせて申し上げようとするのを、道隆様が横から、

「早く言え。あまり風情を見せすぎて、失敗するなよ」

 などと仰ったりするのが聞こえて私は吹き出しそうになりました。

 とりわけ、為光ためみつ様はのぞきこんで、

「どう言ったのか」

 と色めいてお聞きになります。

「どうやら、ひどくまっすぐな木の枝をへし折ったようなものですね」

 再び道隆様が間を置かずにおっしゃるので、為光さまも義懐様もお笑いになって楽しげでした。色好みの義懐様に対して、女車からのぴしゃりとした愛相のないお返事だったのでしょうか。

 まもなく、後光がさしたような清範僧都がお見えになって法華講が始まりました。本当に尊い講座でございましたが、私は積もる雑用をこの日ばかりはと、うちやってきておりましたので、昼までには帰らねばなりません。周りの人に何を言われようが、ようやく道をあけてもらいながら車を出していると、

「やあ、退くもまたよし、さ」

 笑いながらおっしゃる義懐様のよく通ったお声が背後から聞こえました。これは、釈迦の説法の途中で悟りを得てもいないのに得たと思って慢心し、席を立った五千人の僧に対して釈迦が言われたお言葉。『法華経』で来ましたね、と心の中で受け止めて、退出できてから返事の使いを出しました。

「釈迦を気どっているあなたさまも五千人の中にお入りにならなくもないでしょう」

 その日いらっしゃった藤大納言為光様は、私が後に宮中で親しくなる雅な貴公子、斉信(ただのぶ)様のお父君。兵衛ひょうえすけ実方さねかた様はこれがきっかけで私の恋人となったお方。後に関白におなりの道隆みちたか様は、中宮様のお父君。そして、義懐よしちか様は…。

 義懐様は、このたった五日後に花山天皇に付き従って、ご出家の身になられました。あの花盛りのようなご様子を目に浮かべながら私は、世の移ろいを感じずにはいられませんでした。

 花山天皇は、夫則光のりみつの乳兄弟で出世の後ろ盾でもあります。他人事とは思えません。花山天皇を出家に追い込んだのは、道隆様のお父君兼家かねいえさまと、兄君の道兼みちかね様。その後、一条天皇をお立てになった兼家様が摂政となられたのが御一族の栄華の始まりでした。道隆様は義懐様のご出家に複雑なご胸中でしたでしょうか。

 もしも道隆様があの日のことを覚えておいでで、私を中宮様に召し抱えなさることを思いつかれたのでしたら、小白川での出来事はその七年後に私の人生を大きく変えたことになります。

 宮仕えのお誘いをいただいてから出仕を心に決めるまでかなりの時間がかかったのは、摂関家に良い感情を持たない夫の反対もあったためです。とはいえ、私の心は初めから決まっていたのかもしれません。けれど、時間をかけたおかげでだんだんと自然に離れることになり、憎み合うこともありませんでした。私は、宮仕えは夫のためにもなるのではないかとさえ、ひそかに思いました。それは情というものでしょうか。


 式部のおもとと対面し、中宮様のお住まいの登華殿に上がった日、それは昨日まで故歌人清原元輔きよはらのもとすけの娘、あるいは橘則光たちばなののりみつの妻でしかなかった私が、『清少納言』になった日でもありました。


※法華八講

仏道に縁を結ぶために行う講座。『法華経』を朝夕一巻づつ講じ四日間で終わる

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