私本ネルソン提督伝

あん

第1話 『ドレッドノート(恐れ知らず)』 サ・イラ号追撃戦

 「フランスの大艦隊が西に向けて逃走中!」


見張りが叫んだ。


数十隻のフランス艦隊がアガメムノン号のはるか北西に姿を表したのである。




 「例え我が艦のみと言えど、追いすがって戦闘に持ち込むぞ」


艦長ネルソンの命令は激烈なものであった。






 フランス革命戦争は過渡期に差し掛かっていたと言える。


南フランスの要衝トゥーロン港がフランス砲兵隊によって失陥し、


地中海の制海権に陰りが見えていたのである。


今や欧州全土がフランス総裁政府の武力に畏れおののき、


各地で「自由」の名の下に凄惨な殺戮が繰り広げられていた。




 今フランスに唯一対抗できる国は英国のみである。


しかし、その海軍力を持ってしてもトゥーロン失陥を防ぐことはできなかった。


フランスの砲兵将校の中にイタリア生まれのナポォーレオネ:ヴォナパルテという


才気走った男がおり、彼が弱気な指揮官を出し抜いてトゥーロンを


攻略してしまったのである。


これによって北地中海が英国の手から滑り落ちた。




 ネルソン艦長は常日頃、英国海軍の海戦指揮に不満を抱いていた。


「私が指揮官ならば、大戦果をあげるか、戦死してウェストミンスター寺院に


魂が葬られる事を選ぶ。『勝利か、然らずんば死か』の心境だ。」




 だが、一介の大佐艦長には作戦指揮の権限があろうはずもなく


また彼にはこれといった海戦での戦功もないのである。


病弱な上に先日陸上作戦で右目を失い、そのため常に偏頭痛に


苦しめられている華奢な体躯に、闘志だけは不似合いにも


艦隊随一というどうしようもない男である。




 艦長が小男である上に、乗艦であるHMSアガメムノン号も


地中海艦隊中最も非力で小型の64門戦列艦であった。


だが艦長同様、この小さな船には過剰とも言える闘争本能が隠されていた。




 そして今まさにその危険すぎる本能が暴発しようとしていた。


備砲100門搭載の一等戦列艦を含む13隻の大艦隊に


ただ一艦で襲いかかろうとしているのである。




 味方の戦列艦と違い、小型で備砲も少ないために、


アガメムノン号は巡洋艦並みに快速である。


あえて戦闘を避けるためにおっとり刀で追撃している味方艦隊を尻目に


快速をもって北西を航行中のフランス艦隊を猛追した。




 「艦長、艦隊より信号です。アガメムノン号は撤退せよとあります」


信号士官からの報告を聞いたネルソンは物憂げに味方艦隊を見やり、


一瞬にやりとしたかと思うと失明した右目に望遠鏡をあてがい


「困った。私は目を負傷しているから信号が見えないんだ。」


これには周囲の皆が吹き出した。




 「では進路このまま、敵艦隊最後尾の80門艦に砲撃を浴びせよ」


ついにアガメムノン号の艦首追撃砲2門が敵の最後尾を射程に納めた。


それに対し、敵艦からも激しい応射があった。




 64門艦であるアガメムノン号の追撃砲は前部に9ポンド長砲が2門のみである。


それに対しフランス艦サ・イラ号の艦尾には18ポンド迎撃砲が6門搭載されている。


当方の8倍の砲撃力で応射されては、アガメムノン号が圧倒的に不利である。




 「くそ、ならば目にもの見せてくれる。総員上手回し用意。」


ネルソンが回頭の指示を出した。


上手まわしとは、風上に船を向ける事で急ブレーキがかかる事を利用して


艦尾を横滑りさせて急速回頭する航法である。


すぐさま当て舵を逆に切り、速度を落とさずに急角度に曲がれるために


(現在の自動車のドリフトと同じ原理)突然敵の目の前で側面を晒した格好になる。




「右舷全門撃て」




アガメムノン号の片舷の備砲32門が一斉に火を噴いた。




 「すぐさま上手まわし用意、今度は船員左舷砲列につけ。」


逃走する敵艦の艦尾に圧倒的な砲撃を加えつつ、


速度を維持するために敵後方で連続で上手回しを繰り返すネルソン。


もはや当初の優位は消え失せ、サ・イラ号の艦尾はズタズタにされていた。


遂にフランス艦隊の戦列艦2隻がサ・イラ号を救援すべく


アガメムノン号に近づいてきた。




 「これでフランス艦隊を戦闘に引きづり込めるぞ。」


狂喜したネルソンであったが、信号士官が伝えてきた艦隊信号は


ネルソンを落胆させるものだった。


『追撃中止、全艦帰投せよ』




 結局海戦には至らず、フランス艦隊の逃走を許すこととなった。


艦隊司令官はネルソンの命令無視を不問としたが、


武功を挙げ損なった惨めなネルソンには堪え難い屈辱であった。




 「世界よ、俺を認めろ。俺が世界を変えてやる。」


その激烈な慟哭はアガメムノン号に響き渡り、船員の一人ひとりの心を打った。




 ネルソンがサンヴィセンテ冲海戦で


世界を驚愕させる武功を立てる一年前のことであった。

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