第3話

 たしか、菊見先生は独身で、交際をしている彼女さんも、家に遊びに来るような親戚もおらず、たまに来てもらう家政婦さんや編集さんは今日は来ないと聞いていた。チャイムからは先生の声がしたし、家も間違っていないはず。

 この声の主はいったい誰か?

 少し迷ったが、家の主に上がって良いと言われているので、私は扉を開けることにした。

 果たしてそこには、

「……誰?」

 酷く眠たそうな目をした、着物姿の少女がいた。

 時折ハンサムと言われる菊見先生にはまるで似ていない。美しくもなく醜くもなく、至って普通の容姿だが、その今にも閉じてしまいそうなほど瞼が垂れ下がった目元が、心配なり不快感なり、人に何かしらのネガティブな感情を抱かせる。

 櫛も通していないような乱れた長い黒髪、名も知らぬ真っ白な星座があしらわれた黒地の着物の着崩れ具合は、年齢のせいか表情のせいか、劣情を煽るよりだらしなさを感じさせる。

 彼女は玄関の上がりかまちに腰を下ろし、膝に真っ黒な毛並みの猫を乗せて背中を撫でていた。その猫は菊見先生の愛猫で、名を紫月しづきという。少女の撫で方が上手いのか、紫月は気持ち良さそうに眠っている。私の時には寝たことなどないくせに。

 驚愕に若干の嫉妬が混ざりつつ、私は彼女に言った。

「はじめまして、菊見先生の友人の真山です。しばしお邪魔させてもらいます」

「……真山、さん? あなたが?」

 首を傾げ、紫月の背を撫でる手を止めて、少女はじっと私を見ると、

「……あの人なら、居間にいるはず」

 それだけ言って、少女は私から視線を逸らし、またぞろ紫月の背を撫でる。

「……」

 彼女は名乗らない。私への興味も失せたか、ちらりと見てくることもない。

 気にならないと言えば嘘になるが、葡萄や牛乳寒天を早くしまいたかったので、菊見先生の元に向かうことにする。

 屋上と地下に続く階段、寝室、洗面所を通り過ぎ、中途半端な長さの廊下を進んでいくと、奥の、居間へと続く扉を開ける。

 清涼な風が、頬を撫でた。

「菊見先生」

「いらっしゃい、真山君」

 たしかに、菊見先生は居間にいた。

 エアコンのよく効いた六畳の和室、焦げ茶色の座布団を卓袱台を挟んで二つ置き、その内の一つに、紺色の作務衣を着た五十路の作家は正座して、瞼を閉じて腕を組んでいた。小説のネタでも考えていたのかもしれない。

 胡座の方が何かを考えている感が出るだろうに、と思いつつ、扉を閉めながら声を掛ける。

「葡萄と牛乳寒天、買ってきましたけど」

「冷凍庫と冷蔵庫にそれぞれ適当に突っ込んどいてください。ついでに、冷凍庫から凍った葡萄を二房持ってきてくださいね。君と僕の分です」

「いつもありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ」

 台所に行って、葡萄と牛乳寒天をそれぞれ突っ込み、かちこちの葡萄を取り出して、食品棚から皿を二枚出してそこに載せ、居間に持っていく。

 彼と会うのは二週間振りだが、その間に美容室に行ったようで、白髪混じりだった短髪は、今や艶やかな茶色に染まっている。若々しくなりましたね、などと言ったら、皮肉になってしまうだろうか。

 卓袱台の上に葡萄を置き、座布団に座ると、雑談の一つもせず、私達は黙々と葡萄を食し始めた。

 一粒ずつ、一粒ずつ、潰さないよう圧力を掛けて皮を剥き、口に運ぶ。

 冷たく甘い爽快感は、けれど一瞬で消えてしまう。次へ、次へ、摘まむ手は止まらず。

 お互い食べ終わるか否か、という所で、菊見先生が口を開いた。

「時に真山君、人間の身体の部位で一番美しくないのは足だと思うんですよ」

「……足、ですか?」

 藪から棒に何を言うのか、そんなことよりも教えてもらいたいことがあるにあるが。

「僕は昔からカナヅチでね、小学校を卒業するまでには泳げるようになることを諦めたのだけれど、三年生の頃はまだ努力をしていましてね。先生の手を借りて、水面に顔をつけて、ひたすらバタ足を繰り返す。ゴーグルを付けていたので、水中を見ることができたわけですが、」

 見えるんですよね、と、一瞬低い声音で言うと、元の調子に戻し、

「下を向いていたので、僕の手を掴んでくれていた先生の足がはっきりと。足をバタつかせながら思いましたよ。あぁ、なんて形の悪い足だろう」

「そんなに酷かったんですか?」

「妙に角張っていて、親指が異様に大きかったというだけで、至って普通の足でしたよ。ただ、子供心にあまりよく見えなかった。それ以来、他人の足が気になるようになりまして。少しでも素足が視界に入ったなら、確認せずにはいられなくなった。悪癖、というやつですね。それもあって、元から好きではなかった水泳が余計に嫌いになり、やがて泳ぐことを諦めたわけですが」

 そこまで話すと、卓袱台の下に置いていたティッシュ箱から二枚手に取り、口元と手を拭き始める。私もその時には食べ終わっていたので、ついでに一枚取らせてもらった。

「だからでしょうかね、恐怖よりも、安堵を抱きまして」

「……何に、ですか?」

「庭にいた少女にですよ」

 こんな風に繋げてくるとは思ってもみなかった。

 たしかに、気にはなっていたし、教えてもらえたらと思っていたが、急に、とはこれいかに。

「玄関にいた少女のことですか?」

「玄関? ……あぁ、君の為に鍵を開けていましたね。上がっていましたか」

 脳裏に、不法侵入の文字がちらついた。

「お知り合いですか?」

「いいや、全く。昨日初めて会ったお嬢さんですよ」

 いつの間にか庭で紫月と戯れていましたよ、と語る声は呑気で、危機感とか、不快感とか、そういったものがない。

 あるのは、本人が言う所の、


「彼女ね、足がないんですよ」


 安堵か。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る