平成最後の夏、少女は猫になることにした

黒本聖南

第1話

 若いというほど若くはなく、老いているというほど老いてもない。

 そんな三十と数年生きてきた中で、最近の若者は引っ越しの挨拶をしない奴もいると聞いたことがあるが、私の隣の部屋に越してきた若者はどうやら違うらしい。

「となりに、こして……きました、」

 ぼそぼそとした声で紡がれるその名前を、私の耳は聞き流す。

 若者の名前よりも、若者の容姿に、私の意識は奪われていた。

 ……眠たそうな目をした男だ。

 美しくもなく醜くもなく、顔のパーツはどれも平均的な形をしているが、目元だけは徹夜明けか不眠症かと疑うほどに瞼が垂れ下がり、隈も色濃く、よく見れば身体は右に傾き僅かに揺れている。

 常であれば、ここで倒れられたら困るから、早く自宅に戻って横になれと思っただろうが、若い男の容姿が、そんな思考を抱かせない。

「……っ」

 似ている。

 一年前に出会った少女と、目の前にいる若い男。髪型に長短の差はあれど、眠たそうな目をはじめ、二人の容姿はよく似ている。まるで生き写しとばかりに。

 そのことが懐かしさを感じる要因になるかといえば、そんなことはなく。

 宅配業者かと勘違いして、不用心にも扉を開けてしまった自分に腹が立つ。玄関モニターがあるというのに、活用しないでどうするのか。

 苛立ちと警戒から、視線が自然と険しくなっていく。そんな私の脳裏にふと、あの少女の言葉が浮かんだ。


『兄はただ、私に***ほしいのよ』


「あの」

 若い男が口を開き、緩慢な動きで右腕を持ち上げ、私の足元を指差す。

 視線を向けずとも、そこに何がいるのかは分かっている。

 ──みゃあと、弱々しくも可愛らしい声で、彼女が鳴いた。

 つい先日、友人からもらい受け、私が世話をしている猫だ。

 墨をぶちまけたように真っ黒な毛並みで、よく眠っているくせに、いつもどこか眠そうな幼いメス猫。先程まで私と惰眠を貪っていたが、チャイムの音に共に起こされ、玄関へと向かった私についてきたようで。

「……かわいいですね」

 ほんのり口角を上げて呟くその様は、どこか不気味で、

「……ありがとう、ございます」

 礼を口にしつつ、若い男の視線から、彼女を隠すように動いていた。

「……」

「……」

 みゃあ。

 足元で彼女がまた鳴いた。短く小さなその声に、不思議と呑気さを感じられないのは、私の思い込みだろうか。

 そうだとしても、私のすることは決まっている。

「もう、よろしいでしょうか」

「え、あ……はい」

 これからよろしくおねがいします。と一礼すると、若い男はそのまま私の部屋から出ていった。

 タオルなりお菓子なり、引っ越しの挨拶の時に渡されるような物は一切渡されておらず、本当に挨拶だけだった。単に寝惚けて渡し忘れてた、とかではないといいが。

 あの男に関わってはいけない。

 この猫に関わらせてはいけない。

 私は鍵を締めるだけでなく、ドアロックも掛け、二度ほどきちんと閉まっているか確認すると、足早に部屋の奥へと向かう。猫も小さく足音を立ててついてきた。

 点けっぱなしにしていたテレビを消して、ローテーブルの上に置いていたスマホを手に取り操作する。電話帳を開いて、とある人物の名前を探し、その人に電話を掛けた。

 耳にスマホを押し当てる。三コールで相手は出た。

『どうしまし』

菊見きくみ先生!」

 失礼ながら相手の声を遮って、私は言った。

「あの男です! あの男が、私の……隣の部屋に!」


 あれは昨年の、平成最後の夏のことだった。

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