第54話 ねずみの死骸

 張り詰めたような、互いをじっと物色するような、そんな奇妙な空気を破ったのはノギだった。

「ええ、言い伝えではそうですね」

 さらりと。しかし、確信めいた言葉は続けなかった。

「……では、太陽の民はなぜ天に返ったのですか?」

「返った?」

 ミアの問いに思わず言葉を漏らしたのは、ノギの後ろに座っていたラダンだった。

 ミアはちらとラダンに視線をやって、小さく頷いた。

「はい、この書物はこんな書き出しから始まります。


――太陽ノ民、これすなわちその身に天ノ光を宿す者なり。

  その双眸に気高きようノ気を纏い、万物を照らす者なり。

  天は彼らに光を与えたもうた。さあ、地に雨を、地に新緑を、地に風を。


 しかし、最後はこう書かれて終わるのです。


――光あれば影もしかり。光、影に喰われて天に返る。

  天はいかりて月をつかわす。影を喰らうは諸刃もろはなり。

  さあ、とくと見よ。腹の内から喰い破られる、いやしき影の哀れさよ。


 筆師様は最後の一節について、詳しいお話をご存じですか?」

 ミアの問いに、ノギは驚いたように目を丸くした。

「いえ……僕にも詳しくは分かりません」

 申し訳なさそうに小さく首を振りながら、ノギは続けた。

「そ、そもそも、口承民話にはないのです。なぜそれが起こったのか、なぜそうなったのか、というよりは、この伝承から我らは何を学ぶのか、ということに重きを置かれているからです。人々は伝承を語り継ぎながら過去の過ちを決して繰り返さぬようにと、一種の警告として受け入れているのです。ですから、ミアさんの求めているなぜは、恐らく見つからないかと思います……」

 ノギは一度言葉を切り、ちらとミアをうかがい見てから更に続けた。

「この物語から学ぶことは〈神のものはほっするな〉ということです。もっと簡単に言えば、神のものに手を伸ばした者はいずれ報復があるから決して欲を出して手に入れようとするな、ということです。まあ、もしかすると、常人と神域を分離するのが目的だったのかもしれませんが。だから……」

 そして、最後は独り言のように小さく呟いた。

「なぜ、なんて聞かれるとは思わなかった」

 それを聞いたミアは一瞬黙り込んだ後、そうですか、と小さく吐息をもらした。

 そんなミアの様子を横目に、ノギは暫く何かを考えている様子でぼうっと宙を見つめていたが、やがて、頭の中で何かが繋がったのか、ああ、と呟いてミアの方に顔を向けた。

「この〈太陽の民〉が〈金色こんじきまなこ伝説〉と何か関係があると思われているのですね?」

 ミアの大きな目が僅かに見開いたのが見てとれた。

「だとしたら、恐らくその考えは合っていると思いますよ」

「え?」

 ノギの言葉にミアは思わず驚きの声を上げた。

「伝承や民話というものは原点となる物語から幾つも枝分かれし、その時代の、その国の、そこに生きる人々の都合のいいように少しずつ変わっていくものなんです。ですから、この太陽の民の物語と金色こんじきまなこの伝説もどこかで繋がっていてもおかしな話ではありません」

「だとしても、内容に相違があり過ぎではないですか?」

 ミアの問いにノギは軽く頷きながら答えた。

「ええ、つまり、金色こんじきまなこを裏切り者にしなければならなかった誰か、もしくは国、時代があったのでしょうね」

「そんな……」

 ミアは理解出来ないとでもいうように顔をしかめた。

「信仰や伝承といったものは、常々そういうものですよ。誰かの為に少しずつねじ曲がり、そして、その誰かの為の隠れみのとなる。大抵そこには皇族や権力者が絡んでいるので、それこそ、なんて問うこと自体が禁忌だったりするんです」

 そして、ノギは少し間をあけてから確かめるようにミアに訊ねた。

「ミアさんが先ほどおっしゃっていたは、神に近い存在とされていた者たちが、なぜ真逆の存在になってしまったのか、ということですよね?」

「……」

 ミアは一瞬口を開きかけたが、思いとどまったのか肯定も否定もしなかった。

「うーん、ミアさんは伝説をひっくり返したいのですか?……いや、違うな、元に戻したいという方が正しいのかな」

 そう言ってノギはゆっくりと顎をさすりながら、何やら一人でぶつぶつと呟き始めた。

「なぜ? ここまで全土に根付いた裏切り者の伝説をなぜ今更元に戻す必要がある? 今戻さないといけない理由はなんだ? なぜ今のままだと不都合なんだ、いや、そもそも誰にとって不都合なのか? 確か……ミアさんは月詠み師で、帝の……」

 そこまで言うと、ノギはぎょっとして顔を弾き上げた。

「まさか、皇――」

「誰だ!」

 ノギが言おうとした言葉を遮ったのはラダンの厳しい警戒の声だった。

 それと同時にノギの頬の横を、鋭く尖った小さな飛び道具がびゅんと音を立てて凄まじい速さで通り過ぎていった。

 ラダンの放った飛び道具は戸布の一点を突き破り、あっという間に天幕の外へと姿を消した。

 しんと静まった天幕から一拍置いて、ミアを青ざめた様子で慌てて立ち上がった。

紡謡の民オルガ・ヤシュだったらどうするのですか!」

 ラダンのあまりの躊躇ためらいのなさにミアは悲鳴にも似た声を上げてラダンを睨みつけた。

「いや、明らかに違う気配だった」

 ラダンは言いながら小さく首を振ってそれを否定した。

 穏やかそうな紡謡の民オルガ・ヤシュとは違う、何か別の気配だったことだけは確かだった。しかし、不思議なことに殺気やこちらを敵視しているような気配は一切感じられなかった。

 それはまるでこちらをじっと観察しているような、我らの行動を監視しているような、そんななんとも言えぬ奇妙な気配だったのだ。

 ミアが外の様子を窺おうと恐る恐る戸布をめくり、地面に突き刺さった飛び道具を見つけた瞬間、はっと息を飲むのが分かった。

 ラダンは素早くミアの腕を掴み天幕の奥に引き戻すと、警戒しながらぱっと戸布を捲り上げた。

 ラダンの目に飛び込んできたのは一匹のねずみだった。

 飛び道具に全身を貫かれ、地面に貼り付けにされている小さなねずみがそこで息絶えていた。

(有り得ない、あれはただの小動物の気配ではなかった)

 ラダンはぐっと顔を歪め、暫く考え込んだ。

 俺を追ってきたのか、それともこの国の連中か、どちらにせよ危険に変わりない。

(さて、どう動く? 顔を見られた上に、国の秘密を知った者として認識されてしまった今、下手に単独行動が出来なくなってしまった……)

 ラダンは小さく奥歯を噛んで心の内で悪態をつきながら、じっとねずみの死骸を見つめていた。



「どうしたの?」

 突如背後から声をかけられて、従者はびくりと肩を震わせた。

 ぎこちなく振り返り、背後に現れた人物がおのあるじであると認識した瞬間、従者ははっと我に返り慌てて敬意の姿勢を取った。

 いつの間にか詰めていた息を静かに吐き出すと、つっと背中に冷や汗が流れ落ちる。

(命を、落とすところだった……)

 飛び道具の気配に少しでも気付くのが遅れていれば、あのまま魂を乗せた器ごとやられていただろう。

 荒々しく悲鳴を上げているおのれの心音を耳奥で聞きながら、従者は女人にょにんが上座に腰を下ろすのをじっと待った。

 焚き上げた香草の煙を割るようにして女人は従者の横を優雅に通り過ぎていく。

 やがて、腰を下ろすと同時に女人は静かに従者に問いかけた。

「それで、事は順調に進んでいるの?」

 穏やかな物言いとは対照的に、その声には不安と焦燥感が入り混じっていた。

「はい、先日の稀有けうな来客にはたいそう驚きましたが、問題ありません。互いに手を取ることで同意しました」

 女人は暫く黙っていたが、やがて、己に言い聞かせるようにゆっくりと数回頷いてから、細く息を吐いた。

「そう、では苦労をかけるけれど……引き続きお願い」

 懇願にも似た女人の言葉を従者はしっかりと受け止めて、静かに言った。

「御意」

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