第52話 始まりの地へ

 しんと静まり返った夜のしじまが耳を刺す。

 ムウは呆然と顔をあげたまま、先ほどエメオスの口から零れた言葉の意味を必死に理解しようと努めていた。

(……生きているだと)

 胸の底で何かがひとつ、どくんと波打った。小さかったそれは徐々に大きな波へと姿を変えてゆき、やがて、ムウの胸の内を激しくかき乱すほどまでに膨れ上がった。

 耳奥で己の鼓動がいっそう大きな音をたてて鳴った時、浮かんできたのはある人物たちの顔だった。

――金色こんじきまなこの……父と母。

 そう思った瞬間、酷く目が揺れた。

 しかし、ムウはその考えを打ち消すように強くかぶりを振った。

 いや違う、琥珀族の特徴と相違があるではないか。彼らは金色の髪でも金色の瞳でもない。

(だとしたら……)

 いよいよ分からくなって、ムウは顔を歪ませながら歯を食いしばった。

 疲労が思考の邪魔をする。

(考えなければ)

 そう思えば思うほど呼吸は荒くなり、目の前の景色が揺らいでいく。目の縁に熱い何かがせり上がってきたかと思うと、つっと頬に垂れ落ちた。

 異変を察したエメオスが何か言いながらこちらに駆け寄ってくるのを、ムウは薄れる意識の中でぼうっと眺めていた。


 次にムウが目を覚ましたのは翌日の昼間だった。

 見覚えのある天幕の中に寝かされ、上からは大きな毛皮が掛けられていた。

 慌てて身を起こすと、近くにアーシェラが座っていた。

 脇には水の入った桶と小さく折り畳まれた布が置かれており、どうやら一晩中看病してくれたようだった。

「とんだ、ご迷惑を……」

 ひりついた喉からは擦れた音しか出なかった。

 アーシェラは穏やかに微笑むと、小さく首を振った。

「心も体も限界だったのでしょう。答えを求めてここにいらしたはずなのに、ますます複雑になってしまったのですから無理もないことです……今までどうにか張っていた気が切れてしまったのでしょうね」

 アーシェラの言葉はすっとムウの胸に沁み込んだ。

 確かにその通りだったのかもしれない。一晩ゆっくり眠ったおかげか、頭の中は昨日とは違い随分とすっきりしていた。

 アーシェラから差し出された碗を丁重に受け取り、一気に飲み干すと、ムウは大きく息を吸った。

「突然のご訪問にも関わらず、本当にありがとうございました。ましてや看病まで……どう恩を返していいものやら」

「いいえ、お気になさらないでください。私とてムウ様には感謝しております、ようやく少し肩の荷が下りました。我らが犯した大罪を懺悔する機会を賜ったのですから。そして、貴方はそれを断ち切ってくれた」

 アーシェラは一度言葉を切り、晴れやかな顔をムウに向けた。

「ここに来られたのが貴方でよかった」

 椀を握っていた手にぐっと力が入る。

(そうだ、ここで立ち止まってはならぬ)

 誰もがみなこの世に生を受けたたった一つの尊き命なのだ。遠い昔の因縁に縛られ、おそれ、うとまれることなどあってはならないはずだ。

「本当にありがとうございました。必ず皇太子様の命を救う真実に辿り着きます」

 ムウは立ち上がると、穏やかに頷いたアーシェラに向かって深く頭を下げた。

 天幕の外に出ると、入り口脇にエメオスが腕を組んで立っていた。

「貴方にも助けられました、本当にありがとうございました」

 ムウの言葉にエメオスは何も答えなかったが、小さく頷いたその顔には微かな笑みが浮かんでいた。

(帰ろう、恐らく真実は全てが始まった場所にある)

 ムウは覚悟を決めたように顔をあげると、エメオスの案内の元、目を閉じた者ラ・ガット・テゥイルの地を後にした。

 そうして、滝の入り口から再びムウが姿を現した頃、遥か上空で大きな翼を広げながら何かを探すようにゆっくりと旋回していた鷹の目がひとつ、ぎらりと鋭く光ったのをムウは知らなかった。



 アウタクル王国には、戦を知らぬ生温い平穏がそこかしこに漂っていた。

 ラダンは先を行くノギの背を見つめながら、鼻に皺を寄せた。

 いかにも穏やかそうな人々と、活気溢れる露天商たち、手を繋いで走り回る子供たちの賑やかさ、そのどれもが甘ったるく、どうにもラダンの胸の内をぞわりと逆撫でさせた。

「ラダン! こっちですよ!」

 はしゃぐわらべのように顔を輝かせ、手招きしながら自分を呼ぶノギの姿に半ば呆れながら、ラダンはひとつ頷いて足を早めた。

 暫くノギを追っていると、目の前に大きな天幕が現れた。

「良かった、間に合ったみたいだ」

 ノギは紡謡の民オルガ・ヤシュが立てたと思われる大きな天幕を見上げながら嬉しそうに呟いた。

 そこには広くならされた土地が広がっており、天幕はその土地いっぱいに立てられていた。恐らく紡謡の民オルガ・ヤシュのような旅芸人たちの催しの場として造られたものなのだろうな、とラダンは天幕を見上げながら思った。

 さっそくノギが天幕の中へ足を踏み入れようとした時、丁度誰かが出てくるところだった。

 ノギは構うことなく、その人物と入り口の隙間にするりと身を滑らせると、あっという間に天幕の中へと姿を消していってしまった。

 ラダンは小さく肩を竦めながら、道を譲るようにして少しだけ身体を横にはけさせた。

 入り口から出てきたのは僅かに目尻の吊り上がった、猫のように大きな目をした女だった。

 はっきりとした目鼻立ちにすっきりとした眉、薄く整った唇が、この国の美というものをその顔に集約しているようだった。

 昼間の光を反射してきらりと光った黒い瞳をちらと見ながら、何とも気の強そうな女だな、とラダンは心の内で呟いた。

 女が小さく会釈をしてラダンの横を通り過ぎようとしていた時、天幕の中から声が響いた。

「待ってくれミア、さっき話しておった筆師ふでしがちょうど来たぞ!」

 ミアと呼ばれた女は驚いたように振り返ると、足早に天幕の中へと戻っていってしまった。

 ラダンは片眉を上げて暫く入り口を凝視していたが、ノギの呼ぶ声が聞こえて、渋々天幕の中へと足を踏み入れたのだった。

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