第45話 爆ぜた月

 ユクの成人の儀を翌日に控えたある晩、ナジウは苛立たしげに閉じていた目を開けた。

 すっかりもやに身を隠し、ぼやけてしまった月を見つめながら、ゆっくりと深いため息をついた。

(いつからだ……)

 あの男のことを詠もうとすると、月は身を隠すようになった。月光も月のも揃って口をつぐみ、何も告げてはくれなくなった。

 それは、決まってあの男のことを詠もうとする時だけだった。

 明日の成人の儀で何かが起こるかもしれぬと思い、月を詠んでみたが、月はいつものようにユクの無事を告げた。

 では、一体何が隠れている? 月はあの男の何を隠しているというのだ? 

 考えてみたところで、さっぱり分からない。

 こんな奇妙な出来事は月の音を詠み始めてから今まで一度も経験がなく、ナジウは大きく混乱していた。

――突如ふらりとこの地に現れた術師、何処の氏族の出かも分からぬ正体不明の男、そして、月が災いと告げた男。

 あの日詠んだこの地の光景が頭から離れなかった。

(しかし、それでも、姫様の命を救った男……)

 イファルの前で楽しそうに笑うユクの顔を思い出して、ナジウは再び大きなため息をついた。

(俺は何か詠み間違えているのか……?)

 答えの出ぬ自問自答に辟易へきえきして、小さく頭を振った。

 ぐるぐると巡る思考の狭間に生じた僅かな願望に困惑しながら、ナジウはぼやけた月を見つめ続けた。


 翌日、ユクの成人の儀はつつがなく行われた。

 シャン、シャンと規則正しく鳴り響く鈴の音と共に正装に身を包んだユクが長い渡廊わたりろうをゆっくりと歩いていく。

 長く伸びた金色こんじきの髪は綺麗に結われ、普段は幼顔のユクもこの時ばかりは大人の色気を漂わせていた。

 綺麗だと思った。

 屋敷仕えの者たちと共にユクを眺めながら、イファルは素直にそう思った。

 薄く白いを纏った顔に濃い色のべにが良く映えている。

 儀を執り行う大広間の両脇には、各氏族のおさたちとその伴侶、そして、ナジウが正座をして座っており、琥珀族のおさは一段高くなった上座にゆったりと胡坐をかいて座っていた。

 今まで話を聞いたことはなかったが、どうやらユクには母親がいないようだった。

 長の横には儀を執り仕切る祭司たちが数人立っているだけだった。

 大広間にユクが到着すると、両脇に座っていたナジウたちが一斉に頭を下げた。

 そして、ユクが大広間の中央ですっと背を伸ばしてから小さく一礼したのを合図に、成人の儀が始まった。

 祭司の一人が朗々と祝詞のりとを読み上げ、次に大広間の下座で祝いの舞が舞われた。

 舞が終わると、ようやくユクは目の前に用意された金地の分厚いしとねに腰を下ろした。

 すると、小台を捧げ持った祭司がゆっくりと近付き、ユクの前で二度礼をしてからそっと小台を置いた。

 小台の上にはいくつかの祝い具が並んでいる。

 小さな盃に入った祝い酒、厄を払うと謂われる刀がひとふり、そして、黄金こがね色の小さな石がはめ込まれた金細工の耳飾りが二つ置かれていた。

 耳飾りの緻密な文様は太陽神を表しており、それを身につけることで加護を受けるという習わしがあるらしい。

 まず、ユクは静かに盃に入った酒を飲み干した。次に刀を手に取ると、鯉口を切りゆっくりと刀を抜いた。刀身を僅かにかざしてから再び鞘に収めると、最後に金細工の耳飾りを両耳にはめた。

 そして、両手を床につき長の前にぬかづいた。

 こうして、ユクの成人の儀は無事に終わりを迎えた。

 その晩、盛大な宴が開かれ、屋敷中の者たちがユクの成人を祝った。

 イファルも宴に参加し、一杯だけ今日の主役であるユクに酒をついでいた。

「ありがとうございます。この日を迎えられたのはイファル様のおかげです、本当に感謝しております」

 そう言って、微笑みながら酒を飲み干したユクを見届けると、イファルは大広間を後にした。

 宴の賑やかさが徐々に遠のき、明るさは庭道を照らす灯籠とうろうのほのかな灯りだけになっていく。

 静かな竹林を通り抜け、いつもの大木が姿を現すとイファルはようやく深い息を吐いた。

 大木に背を預け、何を考えるでもなく、ぼうっと夜空を見上げる。

 この静けさと暗さが心地良かった。

 しかし、そんなイファルの静かな空間を壊す者がいた。

「なぜこんな所にいる?」

「……」

 イファルは大きなため息をつくと、その人物にわざと聞こえるように大きく舌を鳴らした。

「疲れたから休んでいるだけだ。お前こそ、何の用だ」

 イファルはナジウの方を見ようともせずに冷たく答えた。

「姫様が、お前がいないと言って探していたぞ」

 ナジウはイファルの横に立ち並ぶと、同じように夜空を見上げながら言った。

 イファルは僅かに眉をひそめた。

「なぜだ?」

「さあな、聞いていない」

 ナジウは小さく肩をすくめた。

「……暫く休んでから戻ると伝えてくれ。俺はああいう場に慣れていない」

 イファルは小さく首を振って目頭を揉んだ。

「確かにその仏頂面には似合わぬな、愛想笑いの一つも出来ないものかと屋敷中の者が心配していたぞ」

「どうでもいい」

「そのくせ、姫様の要望には応えるんだな。分からぬ奴だ」

 からかってやろうとイファルに顔を向けた瞬間、ナジウは顔からさっと笑みを消した。

 一瞬、ほんの一瞬、イファルを纏っている何かが酷く揺れた気がしたのだ。

「まさか、お前……」

 ナジウは戸惑うようにイファルを見つめた。

 イファルは、次に紡がれる言葉が予想できずに、顔をしかめながらナジウを見つめ返した。

 暫く互いに何も言わずに見つめ合っていたが、やがて、ナジウは静かに口を開いた。

「慕っているのか、姫様を……?」

 その瞬間、何かが爆ぜた。

 反射的にナジウは天を見上げて絶句した。

 それは、月詠み師だけが聞くことを許された月の音であった。

 ナジウは目を見開き、夜空に浮かぶ月を見つめた。

(そんな、馬鹿な……)

 そこには、煌々と輝く月が浮かんでいる。

――それは、かげらず、にごらず、ただ美しく天で輝いていた。

(……なぜ晴れた? なぜ今この瞬間にもやが晴れる?)

 ナジウは信じられぬ思いで唖然と月を見つめた。

(これが……これが、真実だとでも言うのか)

 確かめるようにゆっくりとイファルに向き直ると、イファルはただ呆然と虚空を見つめ、放心したようにその場に立ち尽くしているだけだった。

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