第44話 二度目の春

 そして季節は巡り、イファルは二度目の春をこの地で迎えようとしていた。

 庭の桜は今年も見事に咲いた。

 前回と変わったことと言えば、木から木へと縄が張り巡らされ、そこにいくつもの紙灯籠かみとうろうがぶら下がっていることだった。

 近々ユクの成人の儀が行われる為、庭はその装飾で華やいでいた。

 こうして渡廊わたりろうを歩くたびに、装飾が増えていく庭の景色をユクはいつも嬉しそうに眺めていた。

「イファル!」

 突如背後から大きな声がして、隣を歩いていたユクがびくりと肩を上げた。

 イファルは聞き覚えのあるその声に小さくため息をつくと、顔をしかめながら振り返った。

「なんだ、ナジウ」

 この男、月詠みのナジウはとにかくうるさかった。事あるごとにイファルに突っかかってきては、小言ばかりを言う。

 イファルは慣れた様子でナジウの小言を聞き流しつつ、装飾に彩られた華々しい庭の景色を黙って見つめていた。

「おい、聞いているのか!」

 ナジウの興奮した声が耳に障り、イファルはようやくナジウに顔を向けた。

「ああ、聞いていない」

 平然とした態度で言い返すと、ナジウはますます声を荒げてイファルの名を呼んだ。

 すると隣から、ふふっと小さな笑い声が聞こえてきてイファルはそちらに視線を向けた。

 見るとユクが口に手を当てて静かに笑っている。

「お二人ともいつの間にそんなに親しくなったのですか、私はとても嬉しいです」

 ユクの言葉にイファルはぎょっとした。

 同時に、あれだけうるさかったナジウですら絶句してその場で押し黙ってしまった。

 僅かな沈黙の後、ナジウは心底嫌そうな表情をしながら首を一つ横に振ると静かにユクに言った。

「姫様、騙されてはいけません。この男は本当に危険なのです。私はと親しくするつもりなど毛頭ありませんし、姫様も決して心を許さぬように。これはお願いではございません、忠告です」

 ナジウは少しだけ身をかがめてユクに顔を近づけると、忠告ですよ、と念を押すように言葉を繰り返した。

 ユクは穏やかに笑いながら、こくこくと何度も頷いてみせたが、その姿は誰の目から見てもナジウの忠告を聞き入れているようには見えなかった。

「姫様! わたくしは――」

「ここにおられましたか、月詠み殿。おさがお呼びです」

 言い終わらぬ内に、いつの間にか背後にきていた近衛兵の一人がナジウを呼んだ。

 ナジウはイファルたちに何か言おうと口を開きかけたが、ぐっと口を閉じ、やがて、苛立たし気にさっときびすを返して去っていった。

「……なぜあんなにもイファル様に食ってかかるのでしょうか」

 去っていくナジウの背を見つめながらユクが小さく呟いたのを、イファルは黙って聞いていた。



 その夜もイファルは月明かりのない天を舞っていた。

 ユクの離れの近くにそびえ立つ一本の大木に背を預け、目を閉じて鷹に魂を乗せていた。

 今は丁度、狩人かりびとの屋敷から帰ってくる途中だった。

「随分と熱心に鷹を飛ばすのだな」

 頭上から声がしてイファルはぱっと目を開けた。

 急に引き戻された人の視界に一瞬ぐらりと脳が揺れたが、イファルは微動だにせずそれに耐えた。

 見上げずとも、誰がそこに佇んでいるのかはすぐに分かった。

 イファルは前を見つめたまま、心の内で小さく舌を鳴らした。

(油断した……)

 今夜は新月だ。月が隠れている新月の夜は月のを詠まぬと思っていたが、どうやら読み間違えたらしい。面倒なことになった。

 イファルは静かに答えた。

「時折こうして天に返してやらないと、飼われている鳥はすぐに弱る」

「ほう、お前の一族はみな、夜目の利かぬ鳥をわざわざ夜に放つのか?」

 ナジウは声を低くしてイファルを見下ろしながら問うた。

 イファルは暫く黙っていたが、やがて、ナジウの方に顔を向けた。

「好きに解釈しろ、お前が俺をどう思おうが構わない」

 イファルの答えにナジウはぐっと顔を歪めた。

「お前は一体何を企んでいる? この地に何が起こるというのだ……なぜ急に月はもやに身を隠した」

 最後の言葉は、きつく噛み締めた歯の隙間から漏れ出すような小さな呟きだった。

「……?」

 イファルは眉根を寄せてナジウを見つめた。

「何の話だ」

「お前には関係ない」

 ナジウは首を振りながら吐き捨てるように言った。

 そして、どさりとイファルの横に腰を下ろした。

「おい、何をしている」

 イファルは呆然とナジウを見つめた。この男の行動が信じられなかったのだ。

 しかし、ナジウはそんなイファルの様子など気にする様子もなく、変わりに大きなため息をついた。

「なぜお前なのだ、お前は姫様を救ったではないか……」

 目頭を押さえながら独り言のように呟かれたその言葉に、イファルは僅かに目を揺らした。

 そこからは、もう互いに口を開かなかった。

 大木の下には静かな夜風が吹き流れ、夜行性の鳥や虫たちの鳴き声だけが、やけに大きく響き渡っているだけだった。

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