第40話 出会う

 琥珀族のおさが住む屋敷は、集落より少し離れたところに居を構えていた。

 屋敷の周囲には石積みの塀が巡らされているが、門はなく入り口と思われる所に番人が二人立っていた。

 話が通っているのか、彼らは化物けものたちを呼び止めることもせず、ただ好奇な視線を投げかけただけだった。

 それから化物けものは長に目通りすることなく、十人ほどの近衛兵たちに囲まれながら娘のいるはなに案内された。

 主殿から続く渡廊わたりろうを途中で降り、白い玉砂利の敷き詰められた庭道を暫く進むと、美しい竹林が姿を現した。

 その中にひっそりと隠れるようにして娘のはなは建っていた。

 短いきざはしを上って化物けものが近づいていくと、襖の前で正座をしていた男がさっと片膝を立てて顔を上げた。

 堀深い精悍せいかんな顔つきに似つかわしい二重まぶたの大きな目が化物けものを射抜く。

 僅かに目尻の吊り上がった目の奥にある黒い瞳には、隠そうともしない警戒と疑いの念が滲んでいた。

 加えて、この男の瞳からは琥珀族の屋敷で会ったどんな者よりも強い敵意が感じられた。

 傍付そばつきの護衛士だろうか? それにしては随分と線の細い男だ、と化物けものは男を冷ややかに見つめ返しながら思った。

くだんの術師が到着しました」

 前を先導していた近衛兵の呼びかけに、やや間を置いてから、ただいま開けます、と小さな声が返ってきた。

 そうして襖が静かに内側から開かれた瞬間、化物けものにしか感じることの出来ない突風が頬を裂くようにして通り過ぎて行った。

 それは、この光の地には不釣り合いなほどの黒い影を纏った風だった。

 その風の向こう、正方形の小さなしとねの上に娘はいた。

 化物けものは僅かに目を細めた。

 娘の身体から湧き起こるようにして、黒いもやが一室を満たしている。一目見て、ここが穢れた空間であることが分かった。

 その中でも一際色濃くもやが揺らめいているのは娘の首元だった。

――蛇だ。黒蛇こくじゃの化身が娘の首に巻き付いている。

 その化身から放たれる黒いもやは娘の全身に纏わりつき、内と癒着しているのか身体の輪郭をぼやけさせるほどのものだった。

 しかし、身に抱く娘の魂は未だに喰われてはいない。

 そればかりか、黒いもやの中でその魂は脈を打つ度に強い光を放っている。

 意外だった。とうに魂を喰われてとこに伏しているとばかり思っていた化物けものからすれば、浅く呼吸をしながらも背を伸ばして凛と座し、堂々と客を迎え入れている娘の姿はなぜか美しかった。

 苦しみを、痛みを必死に耐えたのだろう。唇下しんかにはきつく噛み締めたと思われる歯形がくっきりと残り、その周りは黒紫色に変色している。

 蛇が巻きついている首元には、幾重にも薄布が巻かれ、今もじっとりと鮮血が滲んでいた。

 黒蛇絞こくじゃこう夢術むじゅつを受けた者に現れる特徴だった。きつく締め上げられた首元の苦しさから逃れようと爪を立てて掻き毟るのだ。

 常人であれば発狂し自らの手で命を絶ちそうな術を、この娘は一人歯を食いしばって耐えているのだ。

 眠れずにできた目の下の青黒いくまやそれを際立たせる血の通っていない真っ白な顔、食えずに痩せこけてしまった身体がその惨状を存分に物語っている。……それでも気高いと思ったのは、真っ直ぐこちらを見据えるあの金色こんじきの瞳のせいだろうか。

 化物けものは暫くその瞳を前にして動けなかった。

 やがて、周りを囲っている近衛兵の一人に促されて、化物けものはようやく傍仕そばづかえの侍女に娘を奥の御帳台みちょうだいに寝かせるように伝えた。

 化物けものは娘の傍に腰を下ろすと、懐から薬草の入ったいくつかの包み紙と小さな香炉を取り出した。

 幾度も同じことを繰り返してきたのだろう、娘は化物けものの動きなど気にする様子もなくじっと天井を見つめているだけだった。

 そして、何人もの薬師くすしがそうしたように、化物けものが小さく首を横に振るのを待っているようだった。

 しかし、化物けものは首を振らなかった。

 化物けものは香炉に薬草を落とし入れると、そこに火をつけ白い煙を立ち昇らせた。

 煙の濃さが充分に増したのを確認すると、目を閉じて僅かに口を開いた。

 白い煙は化物けものが発する不思議な言葉の調子に合わせてゆらゆらと揺れ動き、黒いもやを覆うようにして徐々にその身を広げていく。

 まるで生きているかのように動く奇妙な煙が娘の首元に伸びた時、傍で見守っていた侍女がひっと小さく悲鳴を上げた。

 同時に、後ろで一斉に刀を抜く音がしたが、化物けものはそれら一切を無視して続けた。

 白い煙は音もなくするすると娘の首元に巻き付きはじめ、やがて、全身を覆った。

 一面に漂っていた黒いもやも端から端から白い煙に覆われ、あっという間に食い尽くされていった。

 すると、ゆっくりと、しかし確実に、娘の目が徐々に見開かれていく。

 それは驚きか、はたまた困惑か、細かく揺れ動く金色こんじきの目に静かに涙が盛り上がったかと思うと、容量を超えた水が溢れるようにして、つっと一筋頬に伝い落ちた。

 その瞬間、ひゅうっと甲高い音を立てて娘の喉が鳴った。

 音はそれしかしなかった。

 そこに居合わせた誰もが息を止め、身動きすら出来ぬ様子で目の前で起きていることを凝視している。

 そして、長く深く繰り返される娘の呼吸音だけが一室に響き渡るのをみなが呆然と聞いていた。

「ユク様!」

 我に返った侍女が発した歓喜の叫び声によって、止まっていた時が動き出したように一瞬にしてその場が慌ただしくなった。

 侍女の叫び声を聞いて飛び込んできた黒い瞳の男も、娘の顔色を見るや、呆然とその場に立ち尽くした。

 しかし、信じられぬとばかりに顔をきつくしかめると、化物けものに詰め寄った。

「何をした!」

「何も、ただこの娘にかけられた呪術を解いただけだ」

「……呪術だと」

 男は啞然として化物けものの顔を見つめながら、その言葉を小さく繰り返しただけだった。

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