第41話 ──○○○○○○、○○○○○。


「はい、どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 浅倉家のリビング。

 かつおダシと醤油の甘い匂いがすっと漂ってきて、空っぽの胃袋がキュッと締まる。


 目の前に置かれた土鍋を目にし思わず「うお……」と感嘆が漏れた。


 黄金色のスープに、綺麗に盛られた小麦色のうどん麺。

 具材は大ぶりの白ネギ、細く切られたお揚げ、種を取り除いた梅干し。

 真ん中には、金色に輝く半熟卵が主役と言わんばかりに存在感を主張している。


 いわゆる、めちゃくちゃ美味そうな鍋焼きうどんだった。


 さて、どうしてこうなったのだろうかと回想する。


 胃に優しいお昼ご飯をとコンビニに向かう途中、薫さんとバッタリ会った。


 驚く薫さんに、体調を崩して学校を休んでいる旨を明かすと、


『それは大変! うちへいらっしゃい、なにか作ってあげるわ』

『いやいやそんな、悪いです。熱もほぼ下がってますし、お昼も適当に済ますので……』

『だーめっ。風邪は治りかけに油断するとまたぶり返しちゃうの。いいからここは、大人を頼りなさい』

『でも』

『今日もご両親、家にいないんでしょう?』

『うっ……』

 

 という流れである。

 有無を言わさない圧力で浅倉家に連行され、ご相伴に預かることとなった。


 凛の手作り弁当といいい、この前のお昼ご飯といい、浅倉家には胃袋がお世話になりっぱなしだ。


「ささっ、熱いうちに食べて」

「はい。いたただき、ます……」


 おずおずと割り箸を受け取ってから、手を合わせる。

 そして、薫さん特製『鍋焼きうどん』を一口。


「うっ、うまっ!」

「ふふっ、よかった」


 麺は細いけどコシがあり、カツオの出汁が効いた醤油ベースのスープとよく絡み合っている。

 熱々のスープは甘めでほんのりと優しい味がして、胃に流れ込むと身体の芯から温まっていくような感覚を抱いた。


「懐かしいわねー」


 止まらない箸にはふはふと身を任せていると、薫さんが微笑ましげな声を漏らした。


「二人が小学生の頃を思い出すわ。よくここで、凛と一緒にご飯食べたわね」


 蘇る、遠い過去の記憶。

 多忙だった両親に代わり、薫さんがよく夕食をご馳走してくれた。


 このリビングで凛と一緒に、いろんなものを食べた。


「その節は本当に、お世話になりました」


 箸を置いて、ぺこりと頭を下げる。

 すると薫さんはぱたぱたと、片手を上下に揺らした。


「いいのよー、そんな畏まらなくて。私も楽しかったし、それに……」


 柔らかく微笑んだ薫さんが、目を細めて言う。


「凛にお友達ができて、私はとっても嬉しかったわ」


 感謝の気持ちに溢れた笑顔だと、一目でわかった。

 人からの感謝に慣れていないためか、胸のあたりがむず痒くなる。


「それは、俺も同じですよ」


 一息ついて、そのままの気持ちを言葉にする。


「俺も当時ひとりだったので……凛が友達になってくれて、良かったです」


 言うと、胸のむず痒さが一気に増した。

 それを誤魔化すかのように、ウーロン茶を一気に飲み干す。


 我が家で作るウーロン茶よりも、人の家のお茶のほうが美味しく感じるのは俺だけだろうか。


「最近、凛とはどう?」


 食べ進めていると、薫さんがにまにまと恋話に興じるの女子高生のような笑顔で尋ねてきた。


「最近は……」


 強い五感情報が思い起こされる。


 手作り弁当の味。

 自分よりも高い体温。

 ほんのりシロップを含ませたような笑顔。

 ふわりと漂う甘い香り。

 掌を通じて伝う絹糸のような髪触り。

 鼓動の音、吐息、衣擦れの音。


 上記の情報が発生した経緯を口にするのは、憚られた。

 特に、相手は凛の母親である。

 

「……ま、まあ、仲良くやってると思いますよ、はい!」

「ふふっ、そっかそっか」


 声を上擦らせる俺にうんうんと、薫さんは嬉しそうに頷いた。


「凛、最近とっても楽しそうなの」

「え?」


 薫さんの言葉に、うどんを持ち上げた箸が止まる。


「朝、支度する時も、帰って来た後も、ご飯食べてる時もずっと、るんるんっ、って感じ」

「そうなんですか」


 意外だと思った。


 ただ、その光景は容易に想像できた。

 いつもは無表情な印象の凛だけど、ああ見えてすぐ感情が動作や表情に出る。

 

「何かいいことあったの? って聞くと、なにもないっ、て返ってくるんだけどね。もう、本当にわかりやすいというか」


 口に手を当てた薫さんがくすくすと笑う。

 それから俺の方を見据えて、


「凛と友達になってくれて、ありがとう。本当に、感謝してるわ」


 はっきりと紡がれた言葉に、また、胸のあたりがむず痒くなる。


「礼を言うのは、俺の方ですよ」


 ぽりぽりと後ろ手で頭を掻いてから、言葉を並べる。


「むしろ俺の方が、凛に支えられてます。なんなら俺、凛にはいっつも迷惑ばっかりかけて……この前も、心配かけてしまいましたし、今日も……」


 口を開くと、なぜだか言葉が止まらなかった。

 胸の中に押し込めていた気持ちが、底の抜けた水筒のように溢れて出る。


「時々、わからなくなるんですよ」


 一度火がついた感情を鎮火させることはできない。

 ここ最近、いや、もっとずっと前から抱えていた疑念。


 きっと、誰かに吐き出したかったのだろう。

 普段は考見えないように蓋をしていた裏の感情を、そのままに口にしてしまう。


「なんで凛みたいな子が……俺みたいなのとずっと、一緒にいてくれるんだろうって」


 自分の中でずっと巣食っている自己肯定の低さが、そう思わせていた。


 片や、成績優秀スポーツ万能、心優しくて努力家で気遣いに溢れていて、誰もが振り向くような美少女。


 片や、成績中の下スポーツも中の下、カッコつけで自己中ですぐ調子に乗る口だけは大きい凡人。

 

 なんで? と思うなという方が無理な話であった。


「凛なら絶対、俺となんかよりもずっと……ずっといい出会いがあると思うんです。でも凛は、いつもと変わらず、俺のそばにいてくれている……その理由がわからなくて、最近ちょっと、不安というか……」


 言葉の通り、不安があったのだろう。


 俺の存在が、凛の足を引っ張っているんじゃないかとか。

 俺じゃない他の誰かと関わった方が、凛の人生は良い方向に向かうんじゃないかとか。


 という、不安が。


 そんな内心もすべて見透かしてたような面持ちで、薫さんは耳を傾けてくれてた。

 

 俺の吐露を、どこか愛おしげな表情で受け止めてくれた。


「あっ……すみません」


 吐き出し終えてハッと冷静に戻ってから、バツの悪い心持ちになった。


 こんなのいつもの自分じゃない。

 まだ、熱があるのだろうか。


「すみません……こんなの、薫さんに話すようなことじゃないですよね……ちょっと今日、変みたいです、俺」


 場を濁すように笑うと、


「ううん、いいのよ」


 目を閉じ、ゆっくりと首を振る薫さん。


「そう思ってた時期が、私にもあったもの」


 どこか、懐かしげに目を細めて、口を開く。

 

「若い頃は目に見える部分で人を判断しがちだから……そうでない時は、色々と不安になるものよ」

「目に見える、部分」

「そうそう」


 人差し指をピンと立てて、薫さんはまるで学校の先生みたいに説明してくれる。


「勉強ができるとか、運動ができるとか、お金をたくさん稼げるとか、人は目に見える部分で人の価値を判断しがちなの。わかりやすいしね。実際、その基準で一緒にいる人を選ぶ人もたくさんいるし、別にそれは悪いことじゃない」


 でも、と言い置き、核心的な言葉が紡がれる。


「中には人の見えない部分……その人の『心』に惹かれてしまう事もあるの」

「こころ……」

「そう、こころ」


 言って、薫さんは自分の胸に手を当てた。

 そして、ふふっと子供っぽく笑ってみせる。

 

 薫さんの言葉の意味を、完全に噛み砕くことは出来なかった。


 でも、説得力があった。

 それは単なるハロー効果なのか、薫さんの過去の経験からくる重みなのかは、わからない。


「話は変わるけど」


 薫さんの声の温度が、僅かに下がる。


「凛、小学校の頃……クラスメイトとトラブっていた時期があったじゃない?」

「……ありましたね」


 その出来事は、俺にとっても苦い思い出だ。

 当時小学生だった俺は、凛がクラスメイト達から心無い行為を受けていた事をどうにかするどころか、認知すらできなかった。


 その後悔があって、中2の時に別のやらかしをしてしまったのだけれど……それはまた別の話だ。


「凛は必死に隠してたけど、まあ、わかるわよね。毎日、泣きそうな顔で帰ってくるんだもの。私も出来る限りのことはしたけど……状況は、なかなか変わらなかった」


 言って、薫さんは目を伏せる。

 まるで過去を、悔やむかのように。


「でも、ある時から凛は、よく笑うようになった」


 薫さんの声に弾みが戻る。

 その時の出来事を、薫さんはついこの間の事のように話していた。


「それで凛に聞いてみたの。何かいいことでもあったの? って。そしたらあの子、なんて答えたと思う?」


 しばし黙考するも、てんで見当もつかず薫さんの顔を見る。


 すると薫さんはくすりと笑って、俺を見据え、その時の凛の返答を一言一句違わず言葉にした。

 





 ──気になる人が、出来ました。





 

 人は、ある一定以上の衝撃を受けると脳にストッパーがかかるらしい。

 

 光景に、現実感がなくなった。

 対面に腰掛ける薫さん、リビング、年季の入ったテーブル、たくさんの付箋が貼られた大きな冷蔵庫、全て作り物のように見えてくる、落ち着け。


 薫さんが紡いだ12文字の言葉が、脳内で反響している。


 胸を押さえ、ばくばくと高鳴る心臓を宥めながら、微かに機能する思考を走らせる。


 当時の俺が凛以外と交流が無かったように、凛も俺以外と交流はなかったはずだ。


 だから自動的に、凛の言う『好きな人』は……。


「お守り」


 はっと顔を上げる。


「凛、とっても喜んでたわ。本当に、ありがとう」


 感謝に満ち溢れた声。

 薫さんが、深々と頭を下げる。


 頭を下げるのは俺の方だと思った。

 今すぐ薫さんに土下座して泣いて詫びをぶちまけたいとすら思った。


 でも、出来なかった。


 凛のことですぐに頭が一杯になった。


 俺が凛のことを出会った時から好きだったように、凛も俺のことをずっと昔から、想い続けてくれていた。


 なぜ?

 理由はわからない、でも、もしそうだとしたら。


 俺が今自分に課しているルールは、凛に大きな悲しみと寂しさをもたらしているんじゃないだろうか。


 小説家になったら、凛に告白する。

 じゃないと俺は、凛の隣で肩を並べることができない。


 なんてのは実は、的外れで単に自分がそうじゃないと許せないというくだらないプライド、いわゆるエゴなんじゃないか?


 そんなつまらない意固地のせいで、長くて長い間、大切な女の子の気持ちを踏みにじってきたのではないか?


 本当に凛のことが好きなら、想うのなら、今俺が取るべき行動は──。


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