第25話 幼馴染の「ぎゅー」のおねだり、そして──

 俺がとあるアイテムを発見したことによって、凛の部屋には微妙な空気が漂っていた。

 

 アイテム──『恋愛成就』と刺繍された、パステルピンクのお守り。


 10年前、凛にプレゼントしたお守りだ。


 当時の記憶が蘇る。


 凛の悲しそうな顔を見て、どうにかしたいと強く思ったこと。

 神社に行って、お守りを買ったこと。

 凛が見せた、嬉しみが溢れんばかりの笑顔。


 当時小2だった俺は、凛にプレゼントしたお守りがいわゆる『縁結び』のそれであることを理解していなかった。


 今はお互いに、理解している。


 そう思うと、途端に胸のあたりがむず痒くなった。

 無知だったとはいえ、最も縁を結びたい相手に渡すなんて恥ずかしすぎるだろと、顔を覆いたくなる。


「ま、まだ持ってたんだなっ」


 とりあえず硬直した時間を動かそうと、当たり障りのない事を口にする。

 すると凛は、くまのぬいぐるみをぎゅうっと抱き締めて、

 

「……とても、大事なものですから」


 表情に喜怒哀楽のひとつ目の感情を浮かべて、恥ずかしそうに笑ってみせた。

 不意に表出した息を呑むような表情に思わず見惚れていると、凛がすくりと立ち上がる。


 とてとてと、側までやってきて、


「ちょっと隣、お邪魔させてください」


 言われるがままに身体を横に移動させると、俺が座っていた位置に凛がぽすりと収まった。

 人をダメにするクッションは、その名の通り人をダメにするために開発された兵器なのでそれなりの大きさがある。


 俺と凛、二人が肩をくっつけて座るくらいには。


「透くん」


 左腕に、自分以外の体温。

 すぐそばから、凛の声が聞こえる。


「私は今日、早起きして頑張りまして」

「……お、おう。ありがとうな、すっげー嬉しい」


 言うと、凛はもじもじと所在無さげに身体を揺らした。

 不規則な息遣い、衣擦れの音。


 間近から、凛の緊張が伝わってくる。


「それでですね、私、今ほんのちょっとだけ疲れているんです」

「……おう?」


 凛の言葉の意図が読めなかった。

 ただなにかを俺に求めている、それだけはわかった。


 なにを求めているのか、すぐにわかった。

  

 意を決したように、凛はすうっと息を吸ってから、


「知ってますか、透くん」


 ほんのりと赤らんだ、もちもちしてそうなほっぺ。

 揺れつつもしっかりと、瞳に意思を灯して、

 

「ハグをすると、疲労の3分の1が吹き飛ぶらしいですよ」


 言ってから凛は、僕に向けてぎこちなく両腕を開いた。


 俗に言う、ぎゅーしてのジェスチャー。


 ……。


 ……えっと。


「凛さん?」

「勘違いしないでください。これはあくまでも疲労を効率的かつ迅速に回復する手段としてハグを提案したのであって特に深い意味はありませんから、ありませんから」

「まだなにも言ってない件」


 上目遣い。

 ぷるぷると震える唇、か細い腕。

 恥ずかしいんですから早くやってくださいと、瞳がそう訴えかけている。

 

 なにか、気落ちすることでもあったのだろうか?

 それか、言葉の通りただ単純に癒しを求めてるとか?


 それとも……なんにせよ、凛は俺にハグをご所望のようだった。


 ここで俺にハグを拒否するという選択肢は、存在しなかった。


 凛の方からハグをおねだりしてきた。

 それに対する「なぜ?」よりも、「可愛い、愛おしい、抱き締めたい」という感情が圧勝した。


 無言で、凛の背中に腕を回す。

 身体と身体を密着させ、抱き締める。


「ふぁ……」


 凛らしくない、とろけてしまいそうな声が鼓膜を震わせる。


 ダメにするクッションより段違いに柔らかい感触、自分よりも高い体温。

 甘くて安心する香り、鼻先をくすぐる繊細な髪先。


 先日、ハグの練習をした時と同じ五感情報。

 唯一の違いは、俺の背中を二本の腕がぎゅうっとホールドしてきたことだ。


 凛の鼓動が、服越しに伝わってくる。

 それに併せて俺の鼓動も速くなり、顔の温度が一気に上昇した。


 息遣い、衣擦れの音、時計が秒針を刻む音。

 部屋の中で生じるあらゆる音が、やけに大きく聞こえる。


 にも関わらず、窓の外で繰り広げられる日常の音は全く耳に入ってこなかった。

 この部屋だけが世界の日常から切り離されてしまったかのような、そんな錯覚を覚えた。


 全身から力が抜けて、途方も無い多幸感が溢れてくる。

 ほんわりとした安心感が優しく眠気を誘発し、ゆっくりと目を閉じる。


 すると俺の肩に、擦り寄る子猫のように顔を埋めてくる凛。

 わかりやすい甘えたな動作に、愛おしい気持ちが溢れんばかりに増幅した。


 半ば衝動的に、凛の頭に手を乗せる。


「へぁっ……」


 上擦った驚声があがるも構わず、梳(す)き心地の良い髪に指先を絡ませる。

 よしよしと、まるで赤子をあやすように優しく撫でた。


「お守り、ありがとうな」


 心に感謝の気持ちが湧き出て、沈黙に言葉を落とす。


「……礼を言うのは、私の方ですよ」


 ぎゅっと、凛が俺の服を掴む。

 まるで縋りつく幼子のように。


 表情は伺えないが、声でわかった。

 今、凛の面持ちは、嬉しみの感情に染まっていると。


 その時俺は、なにを思ったのか。

 ふと、小さな声でこんなことを尋ねた。


「ご利益……あったか?」


 言ってから、顔面の内側が灼熱の炎が生じたように熱くなった。


 なにを思って言ったのか、なんて、単純だ。

 凛の俺に対する気持ちの種類を、確かめたかったのだろう。


 俺の質問に、凛は一度びくりと身体を震わせた。


 それから5秒経過、10秒経過。


 たっぷり20秒経ってから、


「半分くらい、ありましたかね」


 羞恥、気まずさ、嬉しみ、心細さ、申し訳なさ。

 耳元で囁かれるように弾けた声は、様々な感情を含んでいるように聞こえた。


 ……はん、ぶん?


 凛の零した曖昧な4文字の真意を推し量ることができなかった。

 それ以上は、深掘りできなかった。


 胸に生じたもやっとした気持ちを拭うように、凛の頭を撫でる。

 すると凛は嬉しそうに喉を鳴らした。


 しばらくお互いに、身体を重なり合わせて過ごした。

 

「ごめんなさい、透くん」


 不意にぽつりと、凛が溢す。

 同時に、俺の背中に回された腕が解かれ、身体が離された。


 目の前に、ほんのりと呼吸を乱した小さな体躯。

 顔を朝焼け色に染めた凛は、僅かに上気した声でこう言った。


「これ以上は……私、ダメになりそうです」


 どくりと、心臓が大きく高鳴る。


 今まで目にしたことのない幼馴染の表情に、全身を巡る血流が沸騰しそうになる。


 なんでそんな、恋する乙女みたいな顔……。


 ……ぶっちゃけ、もう誤魔化しようがないように思えた。


 ここ2、3週間の記憶が脳裏にフラッシュバックする。


 突然、一緒に帰ろうと提案してきたこと。

 

 お弁当を作ってきてくれたこと。


 映画デートに誘ってくれたこと。


 お昼ご飯に誘ってくれたこと。


 手料理を披露してくれたこと。


 部屋に上がらせてくれたこと。


 頭を撫でさせてもらえたこと。


 ハグをさせてもらったこと。


 明らかに、変わった。

 なぜ凛は突然、こんなにグイグイ来るようになったのか。


 気まぐれ?

 そんなわけがない。


 幼馴染歴10年の勘が、凛のここ最近の行動には全て根本となる意思が存在していると叫んでいた。


 ……ひとつの結論が、確かな解像度を持って浮かぶ。


 それは胸の底の底に、俺自身が蓋をして見えないようにしていたモノ。

 俺が目を向けようとしなかった、気づいていないふりをしていた、そうではない事にしたかったモノ。


 俺が凛のことを想っているのと同じように、凛も俺のことを……。


「凛」

「んぅ……?」


 なあに、と凛が見上げて首を傾げる。

 いつものツンとした要素が抜け落ちた、無防備であどけない表情。


 俺が大好きな、表情。


 言葉を紡ごうとして口を開いて、閉じる。


「……なんでもない」


 結局、凛の気持ちは確かめられなかった。


 けど、流石にもう、ひとつの可能性しか考えられなかった。


 凛のここ最近の行動は恐らく、俺に対するアプローチ。


 凛も、俺に対して好意を抱いてくれている。


 そうとしか、考えられなかった。


 そしてもしそうだとしたら……嬉しい、すごく嬉しい。


 飛び上がるくらい、外を走り回って叫びたくなるくらい、嬉しい。


 でも、だけど。


 それと同じくらい、心苦しい、胸が痛い、頭を掻き毟って叫びながら走り回りたい。


 ……今の俺には、凛に気持ちを伝える資格がない。


 なぜなら俺は、まだ──。


 自己嫌悪、自責の念、気持ちに亀裂が入る音。


 凛に気づかれないよう、拳を握り締める。


 そのまま腕全体が震えるくらい、力強く握り締めた。

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