人気のない旅館

平中なごん

人気のない旅館(一話完結)

 そういう経験ってのは、誰でも一度や二度はあると思うんですがね。


 泊まるホテルや旅館に入った瞬間、「うわあ、ここなんかやだなあ、ぜったいに何かあるなあ…」って直感でわかることがままあるんです。


 これも、私の仕事仲間とそのカノジョが、とある温泉で有名な観光地で体験したそんなお話です。


 彼の名前はA君、カノジョはB子さんとでもしときましょう。


 二人とも普段は忙しく仕事してるんですが、急に休みがとれたんで「それじゃ、温泉でも行ってゆっくりしようか」って話になったんです。


 でも、誰でも知っている有名な観光地ですよ。急なことだったんで、宿の予約もせずにいざ行ってみると、どこも満室で泊まる所がない。観光案内所に訊いてみても、やっぱり見つからないんです。


 とはいえ、このまま帰ったらせっかくの旅行が無駄になってしまう。


「困ったね、どうしよう?」


「でも、小さな民宿とかならまだ空いてるかもしれないし、ちょっと探してみようよ」


 車で来たA君達は市街地からちょっと離れた山の端まで、自分達でホテルや旅館を端から尋ねて回ったんです。


 そうしたらですよ。山道を少し分け入った静かな場所に、けっこうな大きさの旅館が一棟建ってるんです。


 少々古めかしい観はありますが、たいそう立派な門のある純和風造りですよ。いわゆる〝隠れ家的〟な宿って感じで、なんともいい雰囲気なんです。


 こんなステキなとこ、さすがにもう空いてないだろうなあとは思いましたが、それでもと入って行って訊いてみると、そこの女将さんらしき人が「ええ、空いてますよ。二名様でよろしいですか?」と、これが泊まれるっていうんだ。


 もう夕暮れ近い時間帯でしたし、これ以上探しても他に空いてる所なんかありそうにないですしね。「いやあ、訊いてみるもんだねえ。探し回ったかいがあったよ」なんて言いながら、A君達は即決でそこに泊まることにしました。


 女将さんの他にもう一人仲居さんがいて、その仲居さんに連れられて部屋に向かったんですが、その間に見た内部の造りもまあ立派なもんですよ。


「ほんと、いいとこが空いててよかったあ」


「そうだねえ。他の所が満室だったおかげねえ」


 いい宿の見つかったことを改めて喜ぶA君達でしたが、ふと、ある疑問が頭を過ったんですね。


「でも、こんないいとこなのに、なんで部屋空いてたんだろ?」


「ていうか、わたし達の他に宿泊客いないんじゃない?」


 そうなんです。明らかにいい旅館のはずなのに、自分達以外に誰もお客がいるような気配がないんです。一部屋だけ空いてたとかならまだしも、他の所は全部混んでていっぱいなのに、なんだか妙な話ですよね。


「おかしいねえ。何か欠点でもあるのかな? それとも、何か事件か事故でもあったとか?」


 そう言われてみれば、一つ気になったことがあります。


 女将さんにしろ仲居さんにしろ、どうにも暗い印象を受けるんです。表情も沈んでいて笑顔一つ浮かべないし、目も虚ろで、声もなんだか消え入りそうなか細いものなんです。


「女将さん達のあの感じ、やっぱり何かあったんだよ、きっと」


「でもまあ、他にお客さんいないんなら、むしろ貸し切りみたいででラッキーってもんじゃないの」


 なんだか不審な点は残るものの、今さらキャンセルするわけにもいかないですし、もともと二人は前向きな性格でしたんで、その環境を逆手にとってせっかくの旅行を楽しむことにしました。


「じゃ、さっそくお風呂にでも行こうか? これはお風呂もなかなかスゴいんじゃないの?」


 なんて、期待しながら大浴場へ行くと、案の定、とっても大きくて立派なお風呂ですよ。檜の湯舟を使った室内風呂だけでなく、その奥から外に出れば、絶景をバックに露天風呂なんかもあったりなんかしてね。


 ですが、B子さんが脱衣場で服を脱ぎ始めようとすると、浴場の方からなにやら水音が聞こえてくるんです。


 浴場とは摺りガラスの引き戸で仕切られてるんで中の様子は見えないんですが、人間、長年聞いてきた生活音っていうのは、それが何をしている時の音なのかなんとなくわかるんですよね。


 浴槽に浸かってザーっとお湯が床に溢れたり、桶に汲んだお湯をバシャーっと体にかける時のような、そんな誰かがお湯を使っている水音なんです。


「お客さん他にいないと思ったけど、やっぱりいたんだ。なんだあ、せっかくお風呂独り占めできると思ったのになあ」


 そんな風にB子さんはちょっと残念にすら思いながら、服を脱いで浴場へ向かったんですがね、それが引き戸を開けてみると、中には誰もいないんです。


「あれ? 確かにお湯の音がしたと思うんだけど……わたしの気のせいだったのかなあ?」


 露天風呂の方へ行ったのかとも思いましたが、そちらを覗いてみてもやはり誰もいない。


 でも、誰かがそこにいたような気配はあるんです。家でも誰か家族が使っていた後の風呂場へ行くと、湿気とか温度とか、なんとなくそれがわかりますよね? ああいう感じがするんですよ。


 なんだか狐に抓まれたような心持ちでしたがそれだけのことでしたし、露天風呂に出てみると、目隠しの塀の向こうからは「い~い湯だな~」なんて、A君の暢気な鼻歌も聞こえてくる。


「そうだよねえ、わたし達以外にいるはずないもんねえ」


 首を傾げながらもそう思い直し、B子さんもA君に負けじと温泉を満喫してお風呂から上がったんですが、それから部屋へ戻って夕飯をすまし、眠りについた夜のことです


 宿を探し回って疲れたんでしょうね。ちょっとお酒を飲んだりもしたんで、二人はすぐに眠くなって布団に入ったんですが、それからどれくらい経った頃か、A君はふと目を覚ましました。


 周りはまだ真っ暗なので朝が近いってわけでもない。別に目覚ましをかけていたのでもないし、それじゃあ、なんで目が覚めたんだろう?


 そう疑問に思うA君でしたが、その目の覚めた原因はすぐに知れました。


 ……ポタ……ポタ…。


 と、何か水滴が床の畳に落ちる音が耳元で聞こえるんですね。


 ……ポタ……ポタ…。


 静かな夜の闇の中、やけに大きく聞こえるその音に自然と耳を傾けていると、音と音との間隔からして、どうやら立った人間の頭の高さ辺りから水滴は落ちてるようなんです。


 そこからA君ははじめ、B子さんが夜中にもう一度お風呂に行って、帰ってきた彼女の濡れた髪からその水滴は落ちてるんだろうなあ…と思ったようです。


 でも、薄ら目を開けてとなりの布団を見てみると、そこにはちゃんとB子さんが寝てるんです。


 ……ポタ……ポタ…。


 それじゃあ、今聞こえてるこの音はなんなんだ? 不意にぞわぞわっと、A君は背中に冷たいものを感じたんですが、その疑問から思わず顔を上へ向けて、水滴が落ちて来るその場所を見上げちゃったんです。


 そうしたら、そこにいたんですよ……濡れた黒髪からポタ…ポタ…とA君の枕元へ雫を落とす、白い顔の女がじ~っと彼の顔を見下ろして。


「ギャっ…!」


 A君は短い悲鳴を上げて跳び起きたんですが、するとその女はパッと一瞬にして姿を消し、もうどこにも見当たらない。 


「なんだったんだ今のは? 夢でも見てたのか?」


 夢とも幻ともつかぬものを見て、びっしょり汗をかきながら辺りを見回すA君でしたが、そんな彼の耳に今度は誰かの話し声が微かに聞こえるんです。


「頼むからもう勘弁しておくれよ! あたし達が何したっていうの!」


「なんまいだぶ、なんまいだぶ…なんまいだぶ、なんまいだぶ…」


 どうやら女将さんと仲居さんのものらしいんですが、耳を澄ませると、そんな声がどこか遠くの部屋でしてるんですね。


「ねえ、何? あの声?」


 先程の悲鳴で起きたんでしょうか? 見れば、となりのB子さんも目を覚ましていて、やはりその声に気づいている様子です。


「知らないけど、やっぱ変だよ、ここ! なるべく関わらないようにして、夜が明けたらとにかく早やく出よう!」


 ようやくこの旅館にお客がいなかった理由を理解したA君達は、そう言って頭からすっぽり布団をかぶると、とにかく朝がくるのをじっと待ちました。


 初めの内は布団の中で必死に目と耳を塞ぎ、何も聞こえないふりをしていたA君達でしたが、いつの間にやら寝入ってしまったらしく、ふと気づくと辺りは明るくなっていたそうです。


「ああ、なんとか無事に朝が迎えられた。とりあえずこれで一安心だ……」


 恐怖の一夜が明け、ホっと胸を撫で下ろすA君達でしたが……ところがですよ、本当の恐怖はその後にあったんです。


「ええ? なにここ……なんでわたし達こんな所で寝てるの!?」


「いったいどうなってるんだよ!? 俺達、あの旅館にちゃんと泊まったよな?」


 起き上がって周りを見回したA君達は愕然としました。


 昨日は高級そうでイイ感じの部屋に思えたんですが、今見ると畳は所々ささくれてシミがついてるし、壁や天井も腐って剥げかけてるんですよ。それに今までかぶっていた布団もカビ臭いし、高級旅館どころか、まるで廃墟のように朽ち果てた部屋の中で二人は寝ていたわけだ。


「女将さーん! 仲居さーん!」


 飛び起きて部屋の外に出て見ても、やっぱり同じ状況ですよ。慌てて女将さん達を呼んでみるんですが、あの二人の姿もどこにも見当たらない。


「なに? 何がどうなってるっていうの!?」


「俺だって知らないよ! とにかく早くここから出よう!」


 わけがわからずパニックになりながらも、A君達は転がるようにしてその廃墟を逃げ出しました。


 その後、いろいろ調べてわかったんですがね。以前、あの旅館では女性客が入浴中に亡くなる事故が起きていて、それ以来、その幽霊が出るっていう噂が広まって客足が遠のき、ノイローゼになった女将さんと従業員も不可解な死に方をして見つかったようなんです。


 それからはずっと放置され、現在は荒れ放題の空き家になっているはずなんですがね……今もその旅館の建物は某観光地の山際に残ってるみたいですよ。

                                

                          (人気のない旅館 了)



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