16話 妹にだけは引かれたくない


「ぷはぁ!」


 女子トイレから飛び出してブレザーを引きはがすと、生まれ変わったように視界と心が晴れ渡った。深呼吸して肺に新鮮な空気を巡らせる。トイレのドアの向こうから桃紙ももがみさんの泣き声に交じって水を流す音が聞こえてきた。


………どうやら、間に合ったようだ。


ほっとした途端にへなへなと膝が崩れ落ち、床に両手をついた。


「はぁ~、焦った~~。でも、ま、なんだかんだで間一髪間に合わせちゃうあたり、さすが不可能を可能にするサンデーゴリラって感じよね」

役目を終えたブレザーをバサッと肩にかけるおりんさん。

「二度とごめんよ、こんな下品なスリルは。んで、結局鍵はどこにあったの、ちゃー? やっぱり衣装ケースの中でしょ?」

 ハンカチで汗をぬぐいつつミシェルさんは自説の正しさを主張するが、

「ちゃうちゃう。ウニが持っとってん。一年の廊下で拾ったんやってさ」

 ちゃーさんはふるふると顔を振る。

「はあ? なによそれぇ。じゃあ、結局ガミエが落したってことじゃない。まったく、あのポンコツは。これで何度目のドジよ。ねえ坊や?」

いや、知らないよ。僕に振らないでくださいよ。つーか、ウニって誰だ? まだ他に部員がいたのかよ、サンデーゴリラって。


れん……ちゃん?」


と、崩れ伏す僕の上にそっと人の影が差す。

……ああ、そうか。大事な人を忘れてた。うん、いるわ。確かにあと一人部員がいるわ。なるほど、宇仁島うにしまでウニね。いろんなあだ名つけるなあ、この人達は。


「あ、あのさあ、蓮ちゃん。ちょっといい?」

 後にしてくれ。今はもう顔を上げるのも億劫なんだ。

「なんで………………女子トイレの前で跪いてるの?」

ひ、跪く? ああ、うん。そういえば確かに今は四つん這いで跪いているけれど……。

「なんで、トイレでガミエが泣いてるの?」

 ああ、うん。確かにトイレからぎゃんぎゃん鳴き声が聞こえてくるけれど……。

「なんで、お鈴ちゃんのブレザーに顔を埋めながら女子トイレから飛び出してきたの?」

 ああ、うん………なんでだろうね。逆に僕が知りたいよ…………。

「蓮ちゃん……」

 

かれこれ十年以上の付き合いになるけれど、これほどドン引きした羽織はおりの顔を見たのは初めてのことだった。


 

「た、ただいま………」

「あ、お帰りおにーちゃーん」


 夕方、疲労困憊で我が家の玄関によろめき入ると、今まさに閉まろうとしていたトイレの扉が開き、天使がにょきっと中から顔を出した。

「今日は遅かったんだね、お兄ちゃん。何かあったの?」

 ……ああ、栗。俺の栗。うん、色々あったんだ。

お兄ちゃん今日、ホント――――――――――――――――に色々あったんだよ。

「ど、どうしたの、お兄ちゃん。泣いてるの?」

「ううん、なんでもないよ。なんでもないから、栗はいつまでそうやってお兄ちゃんのことを見つめていておくれ」

「おトイレ行きたいんだけど!」

 その時、

 ―――ドバンッ!

 背後で炸裂する暴力的なドアの音。

「兄貴っっ!」

 至福の妹タイムをぶち破ったもう一人の妹は、玄関に入るなりただいまも言わず猛然と僕の元に詰め寄って来た。なんだよもう、やめてくれよ。疲れてるんだよ、今日は。

「あのさあ、兄貴。さっきそこで羽織はおり姉に会ったんだけど………」

 ああ、羽織か。あの後あいつを説得するのがまた骨だったんだ。三十分以上かけて事情を説明してようやく納得させることができたから良かったけど………。

「兄貴が女子トイレでハァハァでいいながら女子のブレザー匂ってたって、本当?」


 ……ちっとも良くなかった。なんでそんな伝わり方してるんだ、羽織。


「お兄ちゃん……」

 悲しそうな呟きはまた背後から聞こえてきた。静かに閉じられるトイレの扉。

 ―――カチャリ。


 扉に鍵をかける音が、心なしかいつもより大きく廊下に響いた気がした。

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