第10話 二人の時間(2)

 夜も深まり夕暮れの喧騒とは一転して静まり返るロンドンの市街をヴィクター様は言葉少なく手綱を握ってゆっくりと馬車を走らせる。ガス灯の光に照らし出された幻想的な街並みの中、時折隣に座る私を気遣うように向けられる視線は優しく穏やかで、その琥珀色の瞳に魅入られて不意に胸が高鳴ってしまう。


 ヴィクター様とワルツを踊ったときの記憶が頭の中を巡り、馬車を降りた記憶も曖昧なままホテルの部屋に戻ると、ヴィクター様は少しお疲れの様子でまどろっこしそうにフロックコートを乱雑に脱がれてソファにどしりと座り込み、タイを緩めて深いため息をつかれる。


「お疲れになられましたね。お飲み物をご用意いたしましょうか?」

「ああ、有難う。ウィスキーを頼む」

「畏まりました」


 虚ろな目で天井を仰ぎ見ながらの気の抜けたお答えを返してくるヴィクター様から受け取ったコートをクローゼットに仕舞い、キャビネットからウイスキーの瓶とグラスを取り出しチェイサーを用意してお持ちする。ヴィクター様はウィスキーの注がれたグラスを回して香りを確かめてから一口呑み、ふう、とまた深くため息をつかれる。


「君もそこに座ると良い」

「では、失礼致します」


 堅苦しいことを厭われてのお言葉に従い斜め向かいのソファに浅く腰掛けると、ヴィクター様は満足気に目を細めて再びグラスを傾けられる。


「ヴィクター様にふさわしい花嫁候補はいらっしゃいましたか?」

「さぁ、どうかな。どのように接して良いか解らず気疲れしてしまうばかりだよ」


 頃合いを見てお伺いするとヴィクター様は視線を落とし、半分になった琥珀色の液体がグラスの中で揺れる様子を見つめながら呟くようにお答えになる。


「ふふふ、本当にお優しい紳士であられて、侍女として少しもどかしく思います。ヴィクター様ほどのお方であれば、ご令嬢に対してそれほど気を遣われる必要はありませんよ」

「そうは言われてもだな…… この期に及んで、とは思うが、亡き妻に気兼ねしてしまっているようだ」


 昔を懐かしむような穏やかな視線がこちらに向けられる。


「そう、ですね。配慮に欠いてしまい失礼致しました」

「いや、これはただの臆病者の言い訳だな」

「ヴィクター様のお気持ちは、察するに余りあります。 ……ですが、ヴィクター様がお辛い気持ちを抱えたまま、孤独に人生を歩まれることは、亡き奥様も望んでおられないのではないでしょうか?」


 本当に、優しいお方だ。過ぎた言葉ではあるけれど、ヴィクター様には奥様の死を乗り越えていただかなければいけない。それはヴィクター様もよくわかっていらっしゃるはずだ。私の問いかけに答える代わりにまっすぐに向けられる鋭い視線を正面から見つめ返される。

 背筋が凍りつくようなピリピリとした緊張感。それでも、ここで引く訳にはいかない。これは貴族の方々にお仕えする侍女としての私のプライドだ。


「……そうかもしれないな。いや、その通りだ」


 しばらくお互いに無言のまま見つめ合ううちに、ヴィクター様はぽつりと呟かれ、ゆっくりとまばたきして手元のグラスに視線を落とされたあと、今度は穏やかな視線を私に向けられるのに合わせ、気づかれないように静かに息を吐き肩の力を抜いて居住まいを直し、ヴィクター様のお声に耳を傾ける。


「思い出したよ。私はクレアのそういうところに惚れたんだ。いつまでも過去に囚われていては彼女に笑われてしまう。ルーシー、少し、昔話に付き合ってもらえるか?」

「はい、もちろんです。ヴィクター様」

「そうだな、何から話そうか……」


 一口グラスをあおり、シャンデリアを仰ぎ見て少しづつお話を始められる。それはまるで、封印された記憶を紐解かれるように。


「クレアというんだ。美しく、優しく、明るく前向きでよく笑って、『夫を選べないのなら、私があなたを理想の王子様に仕立て上げるまでです』などと言って、私に至らぬ所があればすぐに叱りつけてくるような気の強い娘だったよ」

「ふふ、ヴィクター様をお叱りになられるとは、相当な女性でいらしたのですね」

「ははは、その通りだ。しかも許嫁の頃からだぞ…… 親が決めた結婚ではあったが、互いに深く愛し合っていた。ダンスが好きでな。毎晩疲れ果てるまで付き合わされていたものだ」

「ダンスがお上手なのは奥様のおかげでしたか」

「ああ、もともとは苦手だったのだがな」


 ヴィクター様はウィスキーを少しづつ飲みながら、静かに、ときに笑い、ときに眉をひそめて奥様との思い出を語られる。初めて会ったときのこと、二人で過ごされた日々のこと、些細な事で喧嘩したときのこと、そして、別れ。


「……もうこんな時間か。長々とすまなかったね。こんなに穏やかな気持ちで妻との思い出を話せるとは思っていなかった」


 子宝を授かり、日ごとに大きくなっていく奥様のお腹に期待が膨らみ、最高の幸福が訪れるその日を目前にした突然の悲報……

 心地よい低音のお声でゆっくり語られるそのお話に、胸が締め付けられ、目頭が熱くなり、涙が溢れる。


「ヴィクター様…… 申し訳、ございません……」

「いや、私にはもう、流す涙も枯れ果ててしまったようだ。ルーシー、代わりに泣いてくれて有難う」


 ヴィクター様はそれ以上は何も仰ることなく、ただ私の涙が収まるのを待ち、空になったグラスが静かにテーブルに置かれる。


「さて、そろそろ休もうか。君は向こうの部屋を使うと良い」

「お気遣いありがとうございます。それでは、お休みの前にお身体をお拭きしますので、寝室でお待ちくださいませ」

「そのくらいは自分でするさ」

「駄目です。侍女の仕事を奪ってはなりませんよ」

「はぁ、仕方がない。ここは侍女様に従うことにするよ」


 寝室へ向かわれるヴィクター様の背中を見送ってウィスキーとグラスを片付け、お湯を沸かして寝室へ向かうと、ヴィクター様はベッドに腰掛けうとうととまどろまれている。

 お声を掛けてシャツのボタンを外してはだけると鍛えられた逞しい肉体が露わになり、静かに息を呑む。そうしてすっかりシャツを脱いで頂き、太い腕、大きな背中、厚い胸板、深く割れた腹筋と筋肉の流れを確かめるように、お身体を丁寧に拭き上げる。


「お夜伽は如何なさいますか? 貞操までお許しすることはできませんが、この身体に触れるだけならご自由になさってくださって構いませんよ」

「いや、魅力的な提案ではあるが、そこまでは自分を抑えられる自信がない。今夜は一人で寝ることにするよ」

「畏まりました」

「ルーシー」

「はい」

「……何か気の利いたことを言おうと思ったが、何も思いつかないな。今日はありがとう」

「ふふ、お気持ちは十分伝わっておりますよ。おやすみなさいませ、ヴィクター様」

「おやすみ、ルーシー」


 穏やかに笑うヴィクター様にご挨拶を返し、胸が締め付けられる思いを心に秘めたまま寝室を後にして使用人の部屋に入り、着替えもせずにそのままベッドに飛び込んだ。

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