短編集

寿美琴(ことぶき みこと)

犬のいる丘

星が降りそうな夜だった。

広漠とした丘に、果ての見えない闇が続いていた。

傍らには、ともに歩いてきた主人の姿があった。主人は犬の頭に手をおき、ただ目を閉じている。

犬はそっと眠りについた。



犬は思い出していた。

始まりは主人の愛する妻からいつもの温もりが消えて動かなくなったときだっただろうか。

あのとき主人は顔を手で覆い隠しながら、犬を抱きしめた。犬はその日から、肉が入った柔らかくて美味しい食事を食べられなくなった。きちんと座って待っていても、焦げの味がするパサついた食事が出てきた。主人はいつもそれを犬が食べるのを見ては泣いた。


あの日からずっと、犬は主人のそばで眠った。犬は主人のそばを離れなかった。春の宵はまだ寒い。犬は主人を温めるように寄り添った。

主人はいつも日がな一日窓から景色を見ている。夜になると、毎晩地図を広げた。

「なあ、おい」

あくる晩、主人は犬に呼びかけた。

「明日ちょっと、出かけるぞ」

犬は久々に出る外にわくわくした。主人は最近ちっとも散歩に出ることがなくなって、雪が降っても走り回ることが叶わなかったからだ。季節は変わってしまっただろうが、外に出られるのは嬉しかった。そのときも、尻尾を振った犬を主人は抱きしめて泣いた。


次の日は一日歩き続けた。犬は途中から家に帰らないことを悟っていた。それから三日くらいは陽が出て沈むのを数えたが、それからはもう何度日が沈んだか覚えていない。

海へ行けば熱を持った砂の上へ寝転がり、川辺を登れば水をすくって飲んだ。どこにいても見えていたアルタイルは、気付けばどこかへ逃げてしまっていたようで見当たらない。主人の顔には皺が増えた。そして少し、痩せた。


空気が乾燥してきたら、山のふもとにある洞穴に身を隠した。犬は前の冬遊べなかった分だけ走り回った。足の裏がきんと冷たくなったら、主人が犬を温めるようにして抱きしめてくれた。犬はそれが嬉しくて、朝から晩まで雪と戯れた。主人はその度に「仕方が無い」と言っては温かい息を犬の手に吹きかけた。


雪も溶け始めたころ、洞穴に別れを告げた。

それから一度街に立ち寄ってから、味気のない丘に辿り着いた。その中腹に、いま犬と主人はいた。

もうぐるりと季節は一周していた。頭を撫でてくれる人が一人減ったときと、同じ匂いを風が運んでくるようになった。

主人はさっき、たくさん犬を撫でてくれた。抱きしめてくれた。そして最後はやっぱり、泣いた。「お前を残すのが苦しいな」と言った。

久しぶりに聞いた主人の声は、いつになく掠れていた。「そろそろ、あいつも寂しいだろうから、行ってやらんとな」とも言った。

犬は主人の頬を舐めて、励ました。寂しいならそばにいると。主人の涙はいままでのいつよりもしょっぱく感じた。

「好きなところへ行って、幸せに暮らしなさい。しばらくしたら、またわたしたちの元に来てくれるか」

犬は首を傾げた。いま幸せに暮らしている。主人がいて、頭を撫でてくれる。しばらく時が経たなくとも、主人の元にいる。

主人は目を閉じた。犬はいつものように寄り添った。少しだけ潮のにおいがするから、明日はこの丘を越えて、海に行くだろう。そしたらまた、主人は貝殻を拾って犬に見せてくれるだろうか。明日は主人と、どんな一日を過ごせるだろうか。

犬は主人の膝からおりていつものように寄り添った。主人が寒くないように。春の風に体が冷やされぬように。

犬の頭から、主人の手が滑り落ちた。


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