一回表 縦浜 VS 仁馬山・東海大付属連合②

 試合が始まった。


 未来は三塁側のベンチの片隅に腰掛け、いつもの無表情でグラウンドをじっと眺めていた。その華奢な両手には、例のスコアブックが握られている。ベンチには未来と下園、そしてマネージャーとして真中かなめが座っていた。三人の目の前を、これから始まる苛烈な戦いを予告するように、砂塵さじん吹雪ふぶいて通り過ぎて行った。


 いつになく真剣な表情の彼女に、ふと後ろから近づいて来る人影があった。

「どうかね? 生徒たちの調子は?」

「校長先生……」

 薄暗いベンチの中。不意に彼女の肩を叩いたのは、仁馬山高校の校長だった。校長は白髪を靡かせ、未来を見下ろして不敵に笑った。下園が校長の姿を見て、驚いたように身をすくめた。


「縦浜高校には、勝てそうかね?」

 校長が嗤った。

「君の言っていた、アー……西谷君? 西口君? だったかね?」

 校長がわざとらしく名前を間違えた。未来は無視し、真っ直ぐグラウンドを見据えた。


「見ものだねえ。いくら中学時代の期待の星とは言え、果たして彼が、全国トップレベル相手にどこまで通用するのか……」

「…………」

「君は、どう思っているんだね?」


 校長が喋りかけている間にも、試合は刻一刻と動き続けた。

先頭打者を何とかセカンドゴロに打ち取った西郷は、続く二番打者も

ワンボール・ツーストライク

と追い込んでいた。

初回から勝気に得意球パワーカーブを投げ込んでいく投球スタイルは、高校生になってからも健在のように見えた。未来は、その一球一球をスコアブックに書き記していった。未来が黙ったままだったので、一人蚊帳の外に置かれたような気がした校長は、苛立ったように咳払いをした。


「何とか言ったらどうだ。え?」

「そうですね……」

 そこでようやく未来が口を開いた。

「例えばプロ野球では、打者は3割打てば一流と言われています」

 彼女の視線は、相変わらずグラウンドに向いたままだった。


「逆に言えば、投手は打者に対して6〜7割は抑えられる……計算上、圧倒的に有利な条件でマウンドに立っている訳です。ましてや初見で、何の情報もない投手を打ち崩すのは、どんなチームでも難しい」

「じゃあ……」

「一巡目は、西郷くんも案外抑えるんじゃないでしょうか。だけど……」


 未来がそう言った途端、縦浜の二番打者が西郷の高めに浮いたストレートを見事に弾き返し、快足を飛ばして一気に二塁まで陥れた。


「早速打たれたじゃないか」

「……そう簡単にいかないのが、野球ってものなんですよね」


 早くもピンチを迎えたと言うのに、未来は何故だか嬉しそうに相好を崩した。

 校長は、彼女の真意が掴めずに、眉をひそめてその場に立ち尽くした。



 初回。

ワンナウト・走者ランナー二塁。

 

 西郷はマウンド上で帽子を取り、額を流れる汗を拭った。

頭から血の気が引き、後悔の念がどっと押し寄せる。

高めの釣り球のつもりが、コースが甘くなってしまった。相手が見逃してくれるはずも無く、思いっきり叩かれた。

近年の野球の流行トレンドで、

二番には、小兵よりも長打もある強打者

を据える傾向があり、それは縦浜高校も例外ではなかった。

事前の打ち合わせミーティングで、要注意打者だと頭に入れていたはずなのに……。


西郷サト、切り替えて行こう!」


 本塁から、捕手の安前が西郷に努めて明るく声をかけた。

西郷はボールを受け取って、黙って頷き、深呼吸を繰り返した。

西郷サトとは、安前が彼を呼ぶあだ名ニックネームだ。試合が終わると、安前は絶対西郷をそんな風には呼ばない。一体安前の中でどんなルールがあるのか分からないが、とにかくそうなっている。


 ともあれ、ここから

三、四、五と長打力もある選手がずらりと並ぶ。自然と西郷の掌にも汗が滲んだ。

プレートに足を乗せ、二塁走者を振り返り目で牽制する。走者のリードはそれほど大きくなかった。センターを守っている野々原が、ベースより右寄りにゆっくりと移動するのが見えた。


 実は西郷たちは事前に、配球を全て決めて、チーム全員と共有していた。


 例えば一番打者なら、

一球目にストレートを外角低めに投げ

二球目はまた外から外にパワーカーブ

三球目は内角にストレート

……と言った具合だ。

 捕手からのサインは、全て偽装フェイクだった。


 投球のパターン化作戦。

 

 投げるコースや球種が事前に決まっているから、自然と守備位置もそれに合わせて動くことになる。ざっくりと言うと、右打者の内角に投げれば、当然……サードやレフト方面……の打球が多くなる、と言う算段だ。

この作戦のメリットはこうだ。

一つは、守備の一歩目の判断が早くなる。

どちらに球が飛んでくるかがある程度予測できれば、守っている側も準備しやすい。


 もちろん、計算通りに打球が思った方向に飛ぶとは限らない。しかし外野の両翼や一塁に初心者を置いた状況では、他の選手のカバーが何よりも重要になる。打球方向を予測して共有しておくことは、急造チームが取れる有意義ベターな策でもあった。


 この試合、西郷は9回まで投げ抜くつもりだった。

だから、三振は狙わない。出来るだけ球数を抑え、打たせて取る予定だった。


「ショートッ!」

「ショートォ!!」


 2球目。

バットが風を切り、快音が鳴った。

グラウンドを鋭い打球が這い、選手の叫び声が飛び交う。三番打者が、西郷の5球目・内角ストレートを強烈に引っ張ったのだ。何とかショートの田島が飛びつき、ファーストで間一髪アウトにした。


 ファーストの北方は初心者ながら……度胸が座っているのか、それともただ単に恐怖心が麻痺しているのか……なんとか無事に捕球をこなしていた。西郷はホッと胸を撫で下ろした。北方の守備この辺りは、一ヶ月の練習の効果も現れているのかもしれない。


 その代わり二塁走者セカンドランナー三塁サードへ。

 ツーアウトながら、初回にして三塁まで走者を進められてしまった。

しかも次の打者は、縦浜の選手の中でも一際身体の大きな主軸、四番打者だ。


 西郷は心臓の鼓動が早く鳴るのを、耳の奥深くに痛いほど感じていた。

遠くの方で鳥の群れが舞い、雲が走るように流れ去っていく。心なしか風が強くなってきた。


(えっと……次は……)


 一番から九番まで、初球から最終球フィニッシュまでの、全投球パターン。

 これを未来は、英単語を覚えさせるように、暗記カードに書いて全員に徹底的に記憶させた。それは全員が完璧に諳んじられるようになるまで毎日毎夜続いた。おかげで河南や上野は、寝不足で、その目にはくっきりとクマができてしまった。


西郷サト!」

「おぅ……」


 安前が再び西郷に声をかけた。西郷はロジン滑り止めに手をやって、小さく頷いた。

このパターン化作戦のメリットは、もう何点かある。


 その一つは、西郷が、マウンドで無闇矢鱈むやみやたらを入れ暴走しないようにする……と言う点だ。中学時代これまでの彼だったら、ムキになって得意球パワーカーブでごり押ししていた状況でも、次に投げる球種、投球パターンをあらかじめ決めているから気持ちにが効く。さらには、


「レフトーッ!」


 3球目。

西郷が投げ終わった後、チームメイトの叫び声が上がった。一瞬ひやりとする感覚が西郷を襲った。縦浜の四番が打った打球は、高々と右中間に上がり、三塁打者は悠々と本塁に足を踏み入れた。縦浜のベンチから歓声が上がる。


「違う……センターだ!」

 誰かが叫んだ。

あらかじめレフト寄りに守っていたセンターの野々原が、右中間の大飛球をジャンプして背面キャッチして、これには観客ギャラリーからも感嘆の声が上がった。野々原を始め、東川大の一年生のメンバーは仮にも、中学時代は強豪として鳴らした経験者たちだ。


 西郷はマウンドを降りたところで立ち尽くし、球の様子を追って、口を半開きにして惚けていた。

助かった……。

野々原のグラブに白球が収まった瞬間、思わずガッツポーズが出た。

パターン化作戦による守備位置の先取りが、早くも初回から功を奏した。


 この作戦、さらなるメリットとして、いざとなったらサイン交換無しでいくらでも投球テンポを速くすることができる。


 次の打者の待機場所ネクストバッターズサークルから観察した西郷の投球テンポと、実際に打席バッターボックスに入った時の投球テンポは、全く別物に感じられることだろう。


 要所要所でテンポやパターンをシャッフルし、相手を翻弄していく。決して相手のペース流れで勝負しない。これが今回の試合の戦略だった。


「ナイスキャッチ!」

! 野々原!!」


 センターの野々原が、チームメイトにバシバシ叩かれながらベンチに迎えられた。野々原ははにかみながら選手とハイタッチを繰り返した。

 初回は早くもピンチを背負ったものの、なんとか無失点で抑えられた。

 西郷は頬を緩めそうになり、慌てて表情を引き締めた。未来がじっとこっちを見ていたのだ。


「お疲れ様。案外悪くなかったわよ」

「あぁ……」


 西郷の予想に反して、未来は嬉しそうな顔をしていた。

「初回の攻撃、大事よ。どんな投手も、立ち上がりは緊張するんだから」

「だな」


 西郷は頷いた。遠くの方で鳥が鳴いた。運命の試合は、まだ始まったばかりだった。

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