第24話

「まあ、いいよ、すべて忘れよう」


 そう呟いて、真昼は再び椅子に座った。


 月夜は軽く頷き、すべてを忘れる。


「そろそろ、全部忘れられた?」


「忘れることはできないけど、忘れたことには、できる。だから、それは、できた」


「うん、なかなか素晴らしいね。反応が早くて助かるよ」


「助けようとは思っていないけど、君が、助かったのなら、それでいいと思う」


「うん、そうだね」


 沈黙。


 月夜は、頭の中で、帰宅後のスケジュールについて考えていた。帰ったら、風呂に入って、眠るだけだ。しかし、今日(正確には今日ではない)は宿題が出されたから、それを解き終えてからでないと、眠ることができない。あるいは、次の朝早く起きて、学校に行く前に終わらせるか、遅くとも、学校に着いたあと、授業が始まる前に、教室で終わらせる、という方法も採用できる。しかし、それでは、終わらなかった場合のリスクが高いし、ぎりぎりだと、精神に支障を来す恐れがあるから、できるなら、彼女は、宿題はその日の内に終わらせたいと思っていた。


 宿題は、いわゆる勉強だから、すでにやり方が決まっている。したがって、それらは単純な作業だ、ともいえなくはない。作業を素早く終えるには、予め頭の中で段取りを考えておくと、無駄を省くことができて、時間の短縮に繋がる。だから、彼女は、今、その宿題を頭の中で解いている最中だった。解いているといっても、明確な答えを出しているわけではない。答えを出すための道順を構築している、といった方が近い。つまり、作業は自動化することで早くなるから、今の内にルートを確保しておく、ということだ。そのルートに従ってさえいれば、答えは自然と出てくるから、結果的に作業を効率的に行える。これは、実はテストでも同じことがいえる。テストは、問題に正確に答えることを目的としていない。如何に素早くルートを構築できるか、といった作業の効率を競っているのだ。


 真昼は、月夜の表情を見て、彼女が、今、何かを考えているのを察知した。彼女は(真昼から見ると)賢いから、会話をしながらでも、頭の片隅で別のトピックスについて考えることができる。真昼はそんな器用なことはできないから、そういう点では、彼は彼女に一種の憧れのようなものを抱いていた。


 その憧れは、彼女みたいに賢くなりたい、といったダイレクトなものではない。賢い、というレッテルを自分に貼ることで、自信を得たい、というのが、彼の正直な望みだった。真昼は、自分にあまり自信がない。むしろ、周りの人間が、どうしてあんなに主体的に行動できるのか、不思議に思えるくらいだ。真昼からすると、どんな人間も、自分の行動に自信を持っているように見える。自信がない、と言っておきながら、それは口先だけのことで、本当は自信満々、という人もいるが、彼は正真正銘自分に自信がなかった。


 というのも、嘘かもしれない、と、彼は一応は考えたが……。


「宿題は、順調?」真昼は当たり障りのない質問をした。


「うん、順調だよ」月夜は答える。「ところで、順調、の定義は?」


「予定通り、ということじゃないかな」


「君は、予め、スケジュールを立てるタイプ?」


「いや、たぶん、違うと思う」真昼は説明した。「僕は趣味人だから、行き当りばったりで選択することが多いよ。……君は、やっぱり、計画的な方、かな?」


「君と比べると、そうかもしれない」


「一般的には、そうでもない、と言いたいの?」


「言いたくはないけど、そういう意味も、含んでいる、と思う」


「なるほど」


「でも、君の生き方も、とても素晴らしいと思うよ」


「そう? それはありがたいね」


「そんなふうに、考えなしで行動できるのは、過去に蓄積された沢山のデータに基づいて、反射的に行動できるパターンが構築されている、ということだと、私は考えている」


「今日はやけに雄弁だね」


「そう?」


「うん。なんだか、いつもの君じゃないみたいだ」


「いつも、とは?」


「概念的に、頻度の高いパターン、という意味」


「それなら、たしかに、そう」


「どうして、雄弁なの?」


「理由は、分からない」


「でも、そんな君も、格好いいよ。そして、それと同時に、可愛くもある」


「格好いいと、可愛いの違いは、何?」


「格好いいというのは、対象に自分を守ってもらいたい、という感情。一方で、可愛いというのは、対象を自分で守りたい、という感情、じゃないかな」


「そっか」


「それは、納得したの?」


「うん。その説明は、凄いと思う」


「説明が凄いだけで、僕は凄くないからね。そこのところ、間違えない方がいいよ」


「よく、違いが分からない」


「分かる必要はない」真昼は話す。「分かる、というのは、分ける、というのが語源だから、分ける癖のない人には、分からなくても、当然だよ」

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