第12話

 月夜はラーメンを啜る。スープが一緒に口の中に入って、美味しかった。けれど、その美味しさは、やはり数秒後には消えてしまう。美味しさがずっと続けば良いが、そんなことは起こりえない。主観的な知覚というものは、一瞬だけ存在する幻想だ、と月夜は思う。だから、もしかすると、今、こうして、目の前にいる彼さえも、自分の中にしか存在しない幻想かもしれない。目に見えるものは、可視光線を通して認識される、つまりは、主観的なものでしかないからだ。


「僕は、これから、図書室に行こうと思うんだけど、君は、どうする?」


 真昼が、食パンを一枚食べ終えて、月夜に質問する。


「図書室は、飲食禁止だから、食べ物は、私が預かっておこう、と思う」


「もう、食べないよ」真昼は笑った。「それとも、君が食べたいの?」


「私は、できるなら、食事はしたくない」


「どうして?」


「あまり、いいことじゃないから」


「いいことじゃない、の、いいこと、とは、どういう意味?」


「その行動をした結果、私が気持ちよく感じる、という意味」


「それなら、食事は、少なからず快楽を催すから、いいこと、なんじゃないの?」


「でも、論理的に思考すると、そうではない、という結論に至る」


「思考は、すべて論理的だよ」


「何をしに、図書室に行くの?」


「もちろん、本を読みに」


「そっか」


「うん、そうだよ」


「君は、どんな本が好き?」


「本ならなんでも好きだよ」真昼は、さらにもう一枚パンを取り出して、それを齧る。「僕は、本という媒体が好きなだけだから、内容はどうでもいい。だから、自分の周囲に本があって、それがすぐに手に取れるなら、それだけで充分」


「もう、パンは食べないんじゃないの?」


「ああ、そうだっけ」


「美味しい?」月夜は首を傾げる。


「うん、とびっきり美味しいね」


 こんなふうに、二人の時間は、いつも無意味に消費されていく。無意味というのは文字通りの意味で、消費というのも、時間は減っていくものだから、間違った表現ではない。そもそも、時間というものには、もともと意味がない。人間が、関わることで、意味が生まれる、というだけで、最初から意味があるものは、この世界には存在しない。したがって、世界、というものも存在しないことになる。世界とは、人間が規定したものだから、その規定に含まれないものは、実際に、存在しないことになっている。幽霊も、超能力も、世界の中には含まれない。けれど、中には、それらも世界の内だ、と主張する人もいる。そういう人の中では、確かに、幽霊も、超能力も、未確認飛行物体だって存在する。存在、という意味が人によって異なるから、世界、という言葉が示す範囲にも、使う人によって、自ずと差が生じてしまう。


 月夜は、今のところ、世界、の中には、自分と、真昼しか存在しない、と考えている。


 しかし、その規定も、どうしてそんなふうになったのか、自分でも不思議でならなかった。


 自分が存在するのは分かる。けれど、自分の世界の中に、真昼まで含めようとする理由が分からない。それは、自分で自分の意思が分からないということだから、やはり、世界を規定していても、完全にはその世界を理解できていない、といった一種の矛盾として処理される。矛盾は、どうしてもゼロにはできない。必ずどこかに存在する。それは、人間が言語を使って世界を記述するからであり、だからといって、言語を使わないことはできない。人間は言語とともにあり、言語もまた人間とともにある。だから、月夜も、同様に、言語とともに存在する。彼女が作った言語は、彼女にしか操作できないから、真昼が彼女の世界に干渉することは不可能になる。


 それでは、真昼は、どんな言語を使って、自分のことを記述しているのだろう、と月夜は思った。


 真昼は、月夜を、認識している。


 それなら、そこに、彼独自の言語が存在する。


 月夜は、その言語について詳しく知りたかった。


 けれど、知れない。


 もし、それを彼女が認識することができたら、その瞬間に、それは彼の言語ではなくなってしまう。だから、月夜が真昼の言語を理解するには、真昼になるしかない。


 そんなことは、確実になしえられない。


 それが……。


 それが、月夜は、少しだけ残念で仕方がなかった。


 悲しい、という感情に近い。


 寂しい、という感情にも似ている。


 悲しくて、寂しい。


 寂しいと、誰かと一緒にいたくなる。傍に、彼がいてくれれば、寂しさは緩和される。


 しかし、彼が傍にいるから、孤独が生まれる。孤独が生まれると、さらに寂しくなる。


 そうやって、永遠に繰り返すことになる。ここにも、やはり、矛盾が存在する。


 それでも、矛盾が生じると分かっていても、自分は、きっと、最後には彼と一緒にいるという選択をするのだろう、と、月夜は思った。

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