赤染衛門の詠んだ月

桃栗三千之

赤染衛門の詠んだ月

 そろそろ蝉が鳴き始めた。今年も定期試験の季節がやって来た。

 私は東京某所AB大学の文学部国文こくぶん学科の二回生、必修科目「国文学概論」の試験を明日に控えた身である。「国文学概論」が終われば定期試験終了、晴れて自由の身であるが、これが今季最後にして最大の難関試験である。というのは概論というのは文字の上だけで、講義の内容は担当教授の研究分野であるところの和歌、特に百人一首の片言隻句を逐語解釈していく、極めて難解かつ無意味かつ無感動で無味乾燥な授業なのである。第一番の

  秋の田の かりほのいほの とまをあらみ 

  わが衣手ころもでは 露にぬれつつ

の ”つつ” は何を意味する何詞か、といったことが延々と講釈されるような授業であるから、文学という広大な沃野を開拓せんとして文学部に入った私もまったく興味が湧かない。そもそも概論のくせに百人一首の各論が始まるところがおかしい。学問の横暴である。職権乱用である。もし今が六〇年代であったら、前衛的学生が講義に乱入してアジビラをバラまくこと疑いなしである。だがそれは半世紀前の話だ。必修科目なので単位を落としたら再履修であるから逃げ場が無い。昨年度の定期試験ではまず第一問、第二問の単語の解釈で躓き、トドメに

「 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

と詠んだときの源宗于みなもとのむねゆき朝臣あそんの心境を述べよ」という禅問答のような問題を出された。不動明王のような形相でウンウン唸りながら考えたが、元より煩悩まみれの私に禅問答が解ける筈もなく、答案用紙が真っ白であえなく単位を落とした。そんな平安貴族的憂鬱が、現代に生きる平凡な庶民の私にわかるはずがないではないか。

 そして今年度再履修して退屈と眠気に喘ぎ喘ぎ、時には太ももを殴りつけて睡魔と闘いながら”つつ” の講釈を再び聴き、そろそろ百人一首並びに選者の定家卿ていかきょうが憎むべき対象になりかけてきたところで今日に至る。もしまた今回定期試験を落として来年度も再履修ということになれば、間違いなく私は発狂する。そして私は書店で目に入るところの百人一首関連の本を片っ端から買い漁って焚書ふんしょするであろう。そんなことを考えつつ試験勉強を続けているといつの間にか夜が明けていた。歌の解釈はだいたい覚えるまでに至ったが、昨年度のような禅問答を出されたら勝ち目が無い。実家が禅寺でもないのに禅が分かるものか。

 それにしても、眠い!この状態で下宿まで自転車を漕ごうものなら、居眠り運転で大事故確定である。仕方がないのでサークル棟の部室で仮眠を取ることにすると、薄汚れた壁の前にボロ椅子ボロ机を無造作に置いた殺風景な部屋の中に、史学科の木田きだがいるだけであった。昨晩は学問的探究心の命ずるままに典雅な古典的文学作品の味読に夜を明かしたので眠い、仮眠するから起こさないでくれと言い、何のことやら理解できずに、

「お前は試験期間中なのに相も変わらず夜っぴて猥褻キネマを見ていたのか、この堕落学生め」

 見当違いも甚だしい彼に反論する気力も無く、椅子に腰掛けてすぐにウトウトしはじめた。


 後ろから肩をたたいた者がある。寝惚け眼で振り返ると松上まつがみ千紗夜ちさよが立っていた。私を見下ろしてニヤニヤしながら、

「普通、試験期間中にこんなところで寝る?」

 木田にしたと同じ説明をすると、

「ははあ、『国文学概論』の再履修だ。昨日遅くまでテスト対策してたってところかな」

 と木田より大分頭の回りが早いことを言った。

「じゃあ百人一首が終わったら、平安貴族よろしくお月見と洒落こまない?ちょうど満月だからね」

 サバサバした気性、気安く話せる同学科かつサークル仲間。肩で揃えたはねっ毛と二重瞼、肉厚の唇とで、黙っていれば美人の部類に入る。おまけに知力も高く、「国文学概論」も昨年度一発で「優」の評価を取るような才媛さいえんなのだが、しばしば突拍子も無いことを考えついて私を巻き込むので、どうも完全に気を許すことができない。先だっては私にあげると言って小さな植木鉢を持ってきて、なんとかいう科学誌によると植物を世話することで精神衛生の改善に効果があるとのことで、それを実証してみたいから身近に置いておけと言う。

「キミ結構しかめ面してるでしょ?自分では意識してないんでしょうけど」

 傍若無人なようで結構他人を見ているとは思いつつも、私を使って人体実験がおこなわれているような感じがして植木鉢は木田に押しつけた。それは部室の窓際に置かれて木田が今でも水遣りをしているが、彼の精神衛生改善に効果があったかは知らない。

 またある時は、彼女のおじいさんが戦後に独自に作り出した強壮飲料というものを薦めてきたが、私が今までに飲んできたものとは明らかに異質な、揮発性の臭いがする。飲むのを躊躇していると、実家では七〇年余りもこれを飲んできたのだから何も心配無いと言うのだが、七〇年前とはすなわち戦後間もない頃であり、もしかしてこれは噂に聞くメチルアルコール、そして千紗夜の家系は七〇年もこんなものを飲み続けて、メチルアルコールに対して耐性を獲得してしまっているのではないだろうか。流石に私の妄想極まれりとは思ったが、可能性がゼロとは言い切れないのが彼女の恐ろしいところである。すると横から木田が手を伸ばし、

「松上さんの手作り!お前が飲まないなら俺がいただく」

 と叫ぶや、それは祖父の手作りだけど、と千紗夜が注釈を入れる間もなく私の手からもぎ取って一息で飲んでしまった。それを見た私は吃驚仰天、

「うわ、なんで飲んでるんだ。手に取った物なんでも食べちゃう子どもか。早く眼科に行け」

 思わず叫んでしまったので、二人が目を丸くして私を見た。

 その後も木田の目と肝臓に異常は無いのでメチルではなさそうだが、少なくともおじいさんが密造したカストリ酒であったのだろうと私は今でも思っている。


 万事この調子なので、月見に行こうと言われた時も思わず嫌だと言ってしまった。

 千紗夜は一瞬言葉に詰まったようだが、すぐに私の心配を察したのか、またニヤニヤ笑いながら、

「大丈夫、裏も表も右も左も無い正真正銘ただの月見だから。私のお気に入りお月見スポットがあって、いい季節だから是非とも紹介したいと思ってさ。あと、この植木鉢はキミが持ってなさいよ」

 せっかく木田が丹精している植木鉢を私の手元に戻しながら、

「それに、沙織さおり先輩とのデートの下見になるよ」


 沙織先輩は同じサークルに所属する大学院一回生の、堀辰雄ほりたつおの作品に出てきそうな繊細な深窓の令嬢である。千紗夜は「沙織先輩は繊細じゃないし、ましてやご令嬢なんかじゃ絶対ない」と言っているが、とにかく私の目にはそう見える。その長い黒髪を微風にそよがせながら、持ち前の切れ長の目を伏し目がちにしてキャンパス中庭の椅子に座って本を読んでいる姿など、私の心を惹きつけてやまないのである。さらに言うなら、千紗夜と違って気持ちよくウトウトしている人間の肩をぶっ叩いて起こすという狼藉をしそうも無く、たおやかに優しく叩いて起こしていただけそうなところが良い。

 しかし私は沙織先輩と親しく話せたことは無い。そもそもきっかけが無い。院生の彼女は滅多に部室に顔を出さないし、出したとろで彼女の専門は詩なのであった。詩。悲しいことに、私の詩的センスは壊滅的であった。詩を読んでも何を書いているのかさっぱりわからない。なぜ汚れちまつた悲しみが狐の皮衣かわごろもなのか。訳が分からぬ。わからないから眠くなる。島崎藤村、中原中也、一度は読んでみたが誰一人私の睡魔に勝てなかった。朔太郎さくたろうの名字がオギワラなのかハギワラなのか今でもわからない。調べる気にもならない。だから沙織先輩と私は、例えるならば同じ「音楽好き」という人間の中に演歌が好きな人間とヘヴィメタルが好きな人間がいて、その二人はおそらくわかりあうのに多大な時間を要するのと同じことである。だが私は諦めていない、演歌もヘヴィメタルも、突き詰めれば単なる五線譜上のオタマジャクシの集まりではないか。詩と小説も突き詰めれば単なるいろはにほへとちりぬるを。演歌がわからなくとも音楽は語れる、詩がわからずとも文学は語れる。だから沙織先輩と気安く話せる千紗夜に、それとなく先輩の詩以外の好みをいろいろ聞いてもらっていたのであった。情報をもらう度に学食を奢るという条件付きで。

「沙織先輩って月が好きなの」

 と尋ねると、とぼけた顔で、

「先輩ほど月に魅せられた人はいないよ。愛読する詩集は『月に吠える』『月下げっか一群いちぐん』、小説なら『山月記』『月と六ペンス』、古典は『雨月物語』、愛唱する和歌は赤染衛門あかぞめえもん『やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな』、俳句は蕪村ぶそんの『菜の花や 月は東に 日は西に』、ついでに浮世絵なら月岡芳年つきおかよしとし

 詩集はともかく小説から先は疑わしいし、浮世絵のくだりなど嘘八百もいいところである。名前に月と入っているだけではないか。よくもこんなでまかせを淀みなく喋れるものだと感心しながらも、沙織先輩との共通の話題ができるかもしれないという期待が千紗夜への警戒心より上回り、裏も表も右も左も上も下も無いただの月見、という彼女の言葉を信用する気になった。

 するとにっこりしながら、

「じゃあ、明日御茶ノ水駅で待ち合わせね。楽しみにしてるよ」

 千紗夜が部室から出て行った後、木田が目を怒らせながら、

「お前も加盟している『AB大学モテナイ連盟』の規約第一条、『異性ト親シク交ハルヘカラス、みさおヲ固ク保ツヘシ』を忘れてちんちんかもかもしてもらっては困る」

 とうなってうるさいことこの上ないので、黙って植木鉢を彼の前に押しやり、再び眠りに就いた。


 その翌日。問題を見ると今回も三問構成で、第一問と第二問の単語の解釈は難なく解けた。伊達に二年も講義を受けてないんだ、と出題者に言ってやりたい気分である。二問が解ければとりあえず単位がもらえるのは確実であるから、書店の定家卿が火あぶりの運命を辿ることは免れた。しかしせっかく二年も講義を受けた上は、「優」の評価を取りたいものである。その意気込みで第三問を見たところ、「五十九番の赤染衛門

  やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて 傾くまでの 月を見しかな

で詠まれた”月”はどのような月か」という、またしても掴み所の無い禅問答であった。歌の意味はうんざりするほど復習したのですぐわかる。

「あなたが来ないと知っていたら、もだもだせずに寝てしまったものを。ずっと待っているうちに夜が更けて、西に傾く月を見ることになってしまったよ。」

 しかし約千年前の人間が見たという、その月の様子など知りようがない。おそらく教授は文学士を目指す学生たちに知的で詩的な答を期待しているのであろう。こんなことなら昨日千紗夜が口からでまかせで沙織先輩の好きな歌だと言った時、彼女なりの解釈でも聞いておくべきであった。だがそもそも講義で話しもしなかった、こんな問題が出ることがおかしい。学問の横暴である。職権乱用である。もし今が六〇年代であったら、ゲバヘルとゲバ棒に身を固めた私は教授の研究室に乱入して……

 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。私なりの知的で詩的な答を考えなければならぬ。今年もまた不動明王のような形相でウンウン唸りながら考え、とにかく回答用紙いっぱいに書いたところで試験止めの号令がかかった。第三問の答がうまく書けないモヤモヤ感は残るが、ひとまずこれで満足としよう。


 予報では一日晴れだということだったが昼過ぎから雲が出始め、夕方には曇りとなったので、仕方がないから月見は延期しようと電話すると、

「今日は行く。私が行くと言ったら行く」

 そして電話が切れた。横暴にも程がある。

 しぶしぶ御茶ノ水駅に着くと、千紗夜が「遅い!」と言いながら笑っている。いつも着ているような格好ではなく、黒と茶のチェック模様のワンピースにダークブラウンのローヒールパンプス、白い帆布のハンドバッグとなかなか洒落た出で立ちである。それと並んでしまうと、よれよれのTシャツにしわしわのハーフパンツ姿の自分が気恥ずかしくなる。いくら相手が千紗夜とはいえ、流石にもっとまともな服装をしてくるべきであった。

 しかし彼女は私の服装に頓着する様子もなく、足取り軽く先を歩いていく。案内されるまま聖橋ひじりばしを渡ってしばらく歩く途中、彼女はよほど楽しみなのか、いつも以上に喋りまくっている。花鳥風月を愛でるような人間とは思っていなかったので、少し意外であった。やがて行き着いた先は神田明神かんだみょうじん、千紗夜が私を見上げながら聞く。

「神田明神、夜に来るの初めて?」

 今まで日のあるうちにしか来たことはない。昼と違って境内は人が少なく、どこかしら落ち着いた気になってくる。

 本殿に参拝した後、彼女は境内東側の駐車場に私を引っ張っていき、

「今日は『たなびく雲の絶え間よりもれ出づる月』は無理そうだけど、ここから月が見えるときは綺麗だよ」

 確かに境内が高台にあるので空が広く、東京にはなかなか無いような場所である。しかし雲はますます濃くなったようで、雨さえ降りだしそうに見える。

「ごめん、予報では雲が薄くなるはずだったんだけどなあ」

 千紗夜が大して申し訳なく思ってもいなさそうな顔で言う。

「まあまたの機会に見ればいいさ。しかしよくこんな穴場を知ってたね」

「たまに来てるからね。なんだか悲しいときにここからぼーっと月を見ていると、ちょっと元気になれる気がする」

 千紗夜にこの世で悲しいことがあるかは疑問だな、と茶化そうとすると、彼女が妙にしんみりと、

「実は私、彼氏ができそうなのさ。言い寄られていてね」

 話の繋がりがよくわからないので、ただありきたりの祝辞だけ述べると、

「まあ、キミは興味ないだろうけど」

 そして唐突に、

「これで下見は終わったんだから、沙織先輩をこの場でデートに誘いなさいな。アドレス教えるから」

 あまりの提案に驚愕の私はうまく舌が回らない。

「ななな何言ってる。時期尚早だろう。もももっと先輩についていろいろ知ってから……」

「その情報取ってくるの私じゃない。キミのこと気取られずにそれとなく聞くの結構気を遣うんだから。私もそろそろやめたい」

 そう言われると一言も無い。

「ほら、早く文章打つ。なんなら私が代筆しようか」

 代筆を頼んだら何を書かれるか分かったものではないので自分で文章を打ち始めたが、うまい誘い文句が思い浮かばない。私が読んできた小説や、必死で勉強していた百人一首の美しい言葉たちはどこへ行ってしまったのか。この肝心な時に役に立たずに何が文学か。手汗がじっとり滲んできた。

 長いことかかってようやく書き終えたが、懸想文けそうぶみとはこれで良いのかまったく自信がない。千紗夜に添削を願うと、私も誘い文句なんかに詳しくないんだけどなあ、と嫌そうに言いつつも手汗でべとべとになった携帯を受け取り、

「なになに、『拝啓。蝉もようよう鳴き出した今日この頃、貴女におかれてましては……』あのねえ、たかが大学の先輩にこんな挨拶いらないの。削除!」

「でも、せっかくひねり出した文言を削除しないでも……」

「デモもストもメーデーもありません。次。『……今の私の心を述べますには、

  かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

歌意は貴女の方がお詳しいでしょうからあえて書きませぬが……』ええい、まどろっこしい!一緒にお茶を飲みませんかって一言書くだけでしょうが!先輩は簡潔明瞭なコミュニケーションが好きなの!」

 癇癪玉が爆発した彼女はその通りの文言を打ち、止める間もなく送信してしまった。  

 私は頭を抱え、うめき声が洩れてくるのをどうすることもできない。冷静になった千紗夜がとりなし顔に、

「そこまで悲観することないじゃない、先輩からOKもらえるかもしれないんだし」

 そんなことを言っている間に先輩からのメッセージ着信を知らせる通知が来た。私は最早全身が震え始め、

「おおお俺は怖くてメッセージを開けない。代わりに開いてくれ」

「なに情けないこと言ってるの。自分で読まなきゃ意味ないでしょうが」

 彼女に促され震える指でメッセージを開くと、簡潔に「いいよ」とだけあった。私の口から歓喜の叫びがあがった。

 千紗夜の手を取り、土下座せんばかりに感謝すると、にっこり笑って、「よかったね」

 その後一、二回のやりとりで明晩に御茶ノ水で待ち合わせることになったので、私は急いで帰って持っている服の中から一等モダンでハイセンスなものを手入れしておくことにした。後ろから千紗夜が、

「私はもうしばらくここでぼんやりしてるから、先に帰っていいよ。幸運を祈る」

 と言ったようだったが、上の空の私にはほとんど聞こえていなかった。


 次の日起きて携帯を見ると、木田から夥しいメッセージが入っている。読んでみると千紗夜が彼に話したらしく、沙織先輩と私が今晩会うことになったのをなじるメッセージばかりであった。電話をかけると、我々は『AB大学モテナイ連盟』加盟員ではないか、違約だ、違背だ、と叫ぶ声がスピーカーから聞こえてくる。そんな不名誉な連盟に加入した覚えはないし、万一加入していたとしても今日限りで脱退してやると告げると尚も、お前はブルータスのようなユダのような小早川秀秋のような裏切り者だ、とまるで史学科の学生のようなことを叫び続けるので、面倒くさくなって電話を切った。

 今夜は幸いに晴れの予報、しかし昨日千紗夜に教えてもらった場所にそのまま先輩をお連れするのではあまりにも芸がない。私の導き出した結論はこうである。まずは駅近くのカフェで珈琲を飲みながら、先輩の好きな詩人の話をする。その準備のため、昨夜閉店間際の書店に駆け込み、『世界の詩人概要』なる本を買っていたのである。今からこれを読んでおけばなんとか話を合わせられるであろう。すると自然しっぽりした雰囲気となる。そして明神境内に移動して月を眺め一言、

「月が綺麗ですね」

 ――完璧である。こんな知的なデートは、夜っぴて猥褻キネマを見ている木田のような堕落学生には不可能なのである。教養の勝利といったところである。


 日が暮れると同時に電車に飛び乗って待ち合わせ場所に駆けていくと、先輩は既に待っていた。Tシャツにデニム姿とキャンパス内では見ないようなラフな格好であるが、それがまた新鮮な印象を与える。

 すぐに最寄りのカフェにご案内し、注文したものを席に運ぶのももどかしく、藤村でも中也でも三好達治みよしたつじでも立原道造たちはらみちぞうでもヘルダーリンでもハイネでもロートレアモンでも何でも来いとばかりに口火を切った。先輩のお眼鏡にかなう詩人はどなたでございましょう。

「私が最近興味があるのはシュルレアリスム。ブルトンとか、アルトーとか」

 シュルレアリスム!これは困った。詩はわからないから眠くなるが、シュルレアリスムはそもそも言葉に意味を持たせない試みではなかったか。例えるならば演歌とヘヴィメタルどころでなく、雅楽の譜とジョン=ケージの楽譜のような違いである。五線譜とオタマジャクシの共通言語が無いから、わかり合う術が無いのである。

 答えに窮した私は、ただ自分はシュルレアリスムはよくわかりません、と申し上げる以外になかった。

「まあ、それはどうでもいい。私は今日そんな話をしに来たんじゃない」

 先輩の語調が変わってきた。

「タバコ吸うけど、文句無いね」

 態度まで変わった。

 先輩はタバコを不味そうにスパスパやりながら、

「今日はキミに説教しにわざわざお茶の水くんだりまで来た。いったいキミは千紗夜ちゃんをどう思っているのか」

 先輩の豹変ぶりにびっくりしながらも、

「よく学問ができると思います」

 当たり障りのない評価を返すと、苛々した顔になりながら、

「ばかたれ、そんなこと聞いているんじゃない。一人の異性としてどう思うか、ということだ」

 なんと答えれば良いのかまるでわからない。おずおずと、

「黙っていれば美人だと思いますが、いろんなちょっかいを掛けてくるので、あまり近づき過ぎたくないかと」

「たわけ!そのちょっかいは彼女から向けられた好意だと何故わからない。私は鈍感でまどろっこしいヤツ、特に漱石が書くような男は大っ嫌いなんだ。なにがストレイシープだ馬鹿野郎、いつまでも愚図愚図ぐずぐずしてないで早く襲え!と怒鳴りたくなる」

 沙織先輩に対する私の中の堀辰雄的イメージが轟音を立てて崩れていく。千紗夜の言うことは正しかった。先輩は繊細ではないし、ましてや深窓の令嬢なんかでは絶対ない。

「例えば、彼女が植木鉢を贈ったことがあったろう。キミはそれをどうした」

「なんとか科学誌のなんとか説の実証とかいうことだったので、嫌になって木田に押し付けました」

「まぬけ!なんとも思っていない人間に植木鉢を贈るわけないだろう。実験云々は彼女の照れ隠しだ。キミがやったことは、異性にもらったラヴレターをその子が気にもかけていない、まったくどうでもいいヤツに押し付けたのと同じことだぞ」

 まったくどうでもいいヤツに勝手にされている木田が少し可哀想に思えてきた。先輩の雄弁はまだ止まない。

「それに、彼女はちょっかいだけじゃなくおせっかいもしてくれているだろう。キミは彼女に依頼して私のことを嗅ぎ回っていたな?」

「よくご存じで」

「ぼけなす!あれだけ毎回毎回好きな食い物やら役者やら漫画やらスポーツやら観光地やら何から何まで、挙句の果てには好きな下着ブランドまで聞かれていたら嫌でも気付く。こんな不毛で下劣で無意味で下らない仕事を引き受けてくれる聖人君子、彼女以外にいないぞ」

 先程から先輩は罵言ばげんの嵐である。いかに鈍感でまどろっこしいと評される私であろうと、これは少々精神的につらいものがある。私の様子を察したか、先輩はやや落ち着きを取り戻し、タバコの火を灰皿でぐしゃぐしゃにして消すと、

「キミは知らないだろうが、私が彼女からどれだけキミについて聞かされたことか。蓼食う虫もなんとやら、彼女曰く物の役にも立たない蘊蓄を傾けられる人間に魅力を感じるらしい」

 唇を皮肉に歪めて、

「まあ普通の人間は、貰った飲み物をメチルアルコールだとかカストリ酒だとかの心配はしないわな」

 しかしなあ、と先輩は言葉を継ぎ、

「私はキミのような漱石流男子に興味ない。彼女と話す度に興味も関心もない男の知識が等比級数的に増える私の身にもなってくれ。これ以上キミのことを知りたくもないし、そろそろけりをつけてもらいたい」

「しかし、今の今まで意識していなかった人間を急に好きになれと言われても困ります」

「好きになれとまでは言わない。しかし、今まで抱いていた私への幻想も灰燼に帰しただろうし、もう少し千紗夜ちゃんにきちんと向き合ってあげてはどうかね。彼女のあまりにも不器用で報われない愛の試みを見聞きしていると、私はいたたまれなくなるよ」

 後は二人の間に会話は続かなかった。

 言われて思い返してみると、あれもこれも、千紗夜のひねくれた好意の表現だったのかと思い当たる。うるさく思うことが多かったにせよ、実害を蒙ったことは決して無かった。時にはそれが楽しいと思うことさえあった。それに対して、自分は何をしてきたか。彼女のやることなすことすべて厄介ごとだと頭から決めつけ、必要以上に距離を置くよう努めていなかったか。あまつさえ、気になる女性のことを聞いてほしいと依頼するなどとは。彼女は内心何を思いながら沙織先輩と会話していたのだろう。何を思いながらそれを私に報告していたのだろう。急に自分がこの上なく情けない男に思えてきた。

 私は立ち上がった。

「今日はありがとうございました。これから千紗夜のところに行ってきます」

 住所知ってるのか、と聞く先輩に、

「居る場所はわかります」

 すると先輩は今日初めての笑みを見せ、

「しっかりやれ、三四郎さんしろう!」


 境内は昨日と同じく森閑としている。東側に回ると、昨日と同じ場所に千紗夜が立って月を見上げている。今となってはそれが当然と思えた。もしかしたら、彼女はずっとここに立っていたのかもしれなかった。向こうも私に気付いた。

「かたぶくまでの月を見しかな、ってところかな、私の心境は。どれだけ待てばいいんだよ、と思って諦めようともしてみた。昨日ね。でも今日ここに立っていたら、やっぱり諦められない、早まったなあ、って」

 私が言うべき言葉は決まっていた。

「気付くのが、遅くなった。ごめん」

 すると満面の笑みで、

「だけど、この歌にも希望があると思うんだよね。まだ月が西に沈もうとしているだけ。完全に沈むまでに想い人の心が自分に向くかもしれないじゃない。それに次の日も、月はまた東から昇るんだよ」

 見上げると雲ひとつ無い空に満月があった。黄金色に輝く、狂気のように美しい月だった。なるほど、赤染衛門はこんな月を詠んだのだと思った。

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赤染衛門の詠んだ月 桃栗三千之 @momokurimichiyuki

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