夜は氾濫を含め、井戸と車輪を持つ

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夜は氾濫を含め、井戸と車輪を持つ

 さまになっているよ、なかなか。とぼくは彼に微笑みかけた。褒められ慣れている彼のこと、にやりとそれらしい顔つきをしてから、はあとひとつため息。どうした、とも聞けない。でも、まだお悔やみの言葉を言うにも早いような気がしていた。だって、まだにわか雨程度じゃないか?


 しかし確実に川は水位を増していた。ぼくはちょっとした治水の知見を持っているので、堤防を作ればいいんじゃないかと彼に善意の提案をしたことがある。あるいは氾濫時に、ぱかっと下に穴があいて、雨が落ちていくようにしちまったらどうだい?


「だめだろ、景観的に」


 ですよね。まあ、きみたちがそういうことを気にする『存在』だってことは知ってるさ。逆に、ぼくたちがすぐこういった即物的で現実的、あるいは超現実的、そういった物言いをする『存在』だってことも、十分ご承知の上だろう?


 彼はとくに返事をしない。失礼なやつだ、とは思わなかった。ぼくは、ぼく自身の言葉がそれなりに冗長なことを自覚できているので、同じ分だけの言葉が相手から帰ってこなくったって機嫌を損ねずにいられるんだ。それに、かれは美しいし、あんまり怒る気にもなれないんだよね。湿気高いこの日、水を含んだ髪を腰まで流しっぱなしにしたかれは、より一層切なく儚げに見える。


「ああ、雨になってしまったか」


 糸が落ちるような細い雨が、かれの髪の内側までも入りこむ。

 残念だ、とぼくは言っておく。


「そうだね」


 あなたは残念ではないのか、とできるだけ丁重に確かめる。


「もちろん、残念だよ。でも、これまでの三千年の間、雨が降ったことは何度もあった。悲劇――と、いう言葉はすこし過ぎるかもしれないが、しかしね、耐えられて、慣れてしまえるのが悲しみで、そうではないものが辛さというものなのだとしたら、いまぼくは悲しみを持っている」


 なるほどね、とぼくは納得した。もうあまりわざわざ言う必要もないだろうけれど、匂わせるだけ匂わせて聴衆を置いてけぼりにしたりするのはぼくの趣味じゃないので、ここでひとつ登場人物の紹介を。かれは彦星、ぼくは語り手だ。


 雨は強さを増して、もうどうしようもなさそうだった。せっかくここまでやってきてやったってのに、かの有名なる逢瀬の見学は出来ないし、しかも戻るのに16.73年かかるし。美しいかれが相手では、なかなか文句も言いづらいし。


「そういえばね」


 彦星が、つぶやくように言った。かれは清涼な声をしている。


「たまにね、ふとしたときに会えることがあるんだよ、この日以外にもね。会えるといっても、なんとなく思いのようなものが分かる程度なのだけれど。どこかで誰かがわたしたちのために、祈ってくれたのかもしれないし、光を交えてくれたのかもしれない」


 誰かがきみたちのために? なんのために、そんなことをするんです? と、言ったあとで、ちょっと気まずくなった。どうして僕ってやつはこう考えナシなんだろう。かれはまた、微笑んでいた。きっとどこかの誰かの善意を、素直に信じていたいんだろう。なにかを解決しようとなんてしないところ、ほんとうにかれのような『存在』にありがちだ。


 この空気を少しでも変えやできないか。


 どうしてあなたがたは、願いを叶えたりするんですか、とぼくは聞いた。不躾かもしれないけれど、ずっとずっと、疑問に思っていたんだ。


 かれは笑った。たぶん、かれにとって、ぼくのこの質問は何千回目とも繰り返されたものなんだろう。かれが口を開く。


「なんだろうな、返したいんだよ。いつか誰かに貰ったような気がするものをね」


 あなたたちは大抵、与えるばかりでなんにも貰ってないのにな、と思ったけれどぼくは何も言わなかった。




 *


 いやなもんだ! ああいうことをすべて無断に進めてしまえる人間の気持ち、実は正常にはよくわからないな。そんなふうに思わないか? 思わないか。まあ、いいよ、きみがぜえんぶ僕と同じ考えを持っていたりなんてしたら、それこそ気持ち悪くってしかたがないし?


 スペースシャトルが打ち上がる瞬間について、もうすこし吟味してみたい。一瞬後には死ぬかもしれないけれど、ひょっとしたら宇宙にいけるかもしれない人間の気持ちなんて、宇宙飛行士ではない僕たちには到底理解できないことだよね。もちろんそれでいい。それだからこそ、彼らは特別でいられるんだし、僕としては、宇宙飛行士の選考プロセスとか、学歴だとか、できればそういうものも全部伏しておいてもらいたい。かれらは地球に帰ってきたあとに、意味ありげで印象深いセリフを一言だけいって、それが教科書や宇宙センターのパンフレットかなんかに載ったりして、その程度の結びつきでぼくは満足だよ。


 書き手はさ、こういう愚鈍な文章でもいいから、最後まで書いてしまいたいんだってさ。愚かだね、って愚かなものにたいして言うことは容易いし正しいけど、でもほんとうにそれが必要だったのかってところについては僕はいつも懐疑的な気持ちでいるな。宇宙に行けようと行けまいと、人間であることに違いはないんだけどね、でもちょっと見る目が変わったりするのが人間ってもんだろう? この人には宇宙の空気が染み込んでいるんだ、って思ったらなおさらーーあ、宇宙って空気ないんだっけ。 僕は一度、友人に聞いてみたことがある。ねえねえ、人間が『そちらがわ』に侵食するのは怖くはないのかいってね。かれらは大笑いしていたよ。僕たちが月や木星に多少手を伸ばせたところで、それがなんだっていうんだ、こっちが光で何年の位置にいるのか知っているのか? だってさ。知らない、知らないよ! 僕のような存在にとっては、そういうことを『知らずに済ませることができる』ことこそが、もはや与えられし特権っていう感じだろ。


 でも彼らは、僕が彼らのことを心配してやってるようだとどうやら誤解したらしい。どうもありがとう、と言われたし、姫のほうなんて、僕の頭を撫でようとしやがった。長い付き合いだからね、いいよって子犬みたいに頭を差し出してやれたら良かったんだけど、さすがになんだか身震いがしてさ。僕はどちらかというと、全能や、全知や、完全や、傍観や、永遠や、その他さまざまな形容句あるいはシンボリックな、どのワードよりも、結局のところ『反抗期』に近いんだ。ただの思春期の少年だと思ってくれれば、それで結構。 姫とーー王子、王子か? 違うかも。とにかくあの二人ともは、明日ようやく再び会えるらしい。僕は毎年かれらの逢瀬には付き合うことにしていて、お邪魔だなんて思うようなセンチメンタルを持ち合わせていないものだからね、まあ嫌がられたこともないし、案外二人だって、大切な1日を大切な二人だけで暮らすのはちょっと怖いものなのかもしれないよ。たぶんね。


 さて、二人はよく笑うカップルだ。とはいえ大口あけてあっはっはってもんじゃない、どちらかというと、ずっとウフフってな具合に機嫌よくしてらっしゃるんだな。正直なところ、二人とも素の性格ってやつがそんなもんだからさ、あまり二人がようやく出会えたってところで、それほど感動的なことは起きない。感極まって涙目になったりしないし、普段より饒舌になったりもしないし、心拍数だって大して変わってなさそうに見えるな。


 ただ一点あるとするならば、ふたりとも物凄く鈍感になるんだ。大量に届く手紙のうち、いくつかは拾い上げて叶えてやったりするようなんだけど、たいていの手紙は読まずに捨てちまうんだな。二人は結構好みで飲み食いするからね、なかなか純真で、なかなか面白いなと思うものだけつまみ食いしちゃうんだ。まあ、まさか本人も本当に届くなんて思っていないみたいなもんなんだろうし、その程度の確率でも十分なのかもしれないが。いや、本当にそうかな? 本当に、たいていの人が『星への願いごと』なんて遊びでやってるんだって、本当に本当に言い切れるかい? 命を懸けて願い事をしている人がいるのは当然のことじゃないか、もちろん数は少ないにしても。しかし、命を懸けるとか本気度とかなんだとか、あんまり二人には関係がないんだな。とくに彦星のほうはグルメだ。かれらは好みのものを食する、味をたしかめる、ただそれだけで、その願いがよいものかわるいものか、あるいは年寄りのものか子どものものか、そういうことですら、ぜんぜん判断する気がない。あのゴミ山を見たらきみだって、多少はぼくに共感してくれるのかもしれないよ。


 ああ、あれはね、だれも読まない小説を見つけてしまったような気分だったよ。せっかく書いたんだろうに。書いているひとは楽しかったのかな、面白かったのかな? とはいえ、だれかが読んでくれたとしても、面白いってちょっとも思ってもらえなかったんなら、アンドロメダのなかに閉じ込められてじっとしているほうがマシだと思うね。そういうのって絶望的だ。違う?




  *


 ルール決めばかりにかまけているかれらの鼻をいつか明かしてやりたいと、常々考えていたものだった。とはいえ彼女にいまのところ最適な機会は与えられておらず、また畢竟彼女にその機会がたまたま与えられたのだとしても、彼女自身、どういったものごとを行うべきか整理がついていないところもあった。


 ああ、でも、めんどうくさい。


 彼女は非常にうまく結っていた髪の毛を解き、ベッド代わりにしている海へ身体を投げ出した。雨の音は嫌いではなかった。

 ただ今日だけは降らないでほしかった。なんて我儘を言ったって勿論どうしようもない。雨はきっと、いろんな人の『今日だけは』を潰し続けてきたんだろう。


 ほんとうに美しい男を前にするとき、わたしたちは白い像のようにならなくてはならない。決してあなたに砕かれたりしませんわ、と大理石のように冷たく美しくしていなくてはならない。そういう風に信じているから、わたしは未だに彼と打ち解けない。しかししょうがないでしょう、本当に愛していて、手放したくなくて、そして永遠を信じていられないときには、だれだってそういうふうになる。何千年経ったって関係ない。


 寝返りを打つと、ぷるんと小さな波が頬にかかる。水面のなかのもう一人のわたしが、いかがかしら、と高飛車に質問してくるから、やさしく微笑みを返す。なにかに負けない存在でありたい、と思うのにたった少しの雨に心をやられている。きっとかれは今頃、重たい服を簡単に脱いで、誰かと話でもしているのかと思うと嫌になる。友達の多い人の気持ちなんて分からない。


 この雨に、わたしはただ無力で、なすすべもなくて、アメーバが溶けきったあとに自分はどうすれば魚に戻れるのだろうと考えるような無謀さで、この苦悩を乗り越えようとしている。だから。


 どうせ通じないのに墓石に何かを語るような祈り方で、わたしは川向うの星にあいしてると言った。




 *


 いいこにしています。だから、あした発売のマジンオーをください。


 と、かわいらしいひらがなのお願いを、彦星は気に入ったようだった。どうして『発売』だけ書けたんだろう? とかれは不思議そうにしていたが、簡単だよ、たぶん、その言葉だけチラシからパクってきたのさ。でもおかしいな、マジンオーって、子どものおもちゃのなかでは結構年齢層が高い部類のものだと思うけどね。十歳とかそのぐらいだろう。十歳? 十歳って、子どもなんじゃないの? いや、子どもは子どもだけど。ひらがなしか書けないような子どもってわけじゃあないってことだよ。ああ、なるほどね。じゃあもう今回はこれにしよう、いや、べつにたった一人にしなきゃいけないなんて決まってないんだけどね、まあ今日は一個でいいやって気分なんだ。へえそうかい、ところで光の距離で15年ぐらいかかるから、きっとその子は25歳になっているよ。あ、違うか、えっと、往復だから……。


 と計算しようとしたところで、かれが笑いだした。たしかに、そんなこと、どうでもいい。



 *


 うまく、物を言えないままでいる。いままでもそうだったし、きっとこれからもそうだろう。永遠に「自分」というものの本質は変わったりしないのだと、気づいたのはいったいいくつの時のことだったろうか。自分が自分のままで、永続的にこの時間は進んでいくのだということは、やわらかな絶望であるような気もしたし、一抹の希望であるような気がした。


 分かりづらいだろうか? たとえばこういうことだ。


 とある不老不死の人間がいたとする。彼は彼自身がもつ永遠がゆえに、世界中の美しい景色を知っていて、夕暮れの切なさも流氷の静かさも海底火山の呼吸の音も知っていて、本当に気心の知れた友人というものも何人かいて、読みたい本はたいてい読めていて(もちろん、毎日どこかで新しい本は生まれるわけだが)、時間をかけて一つずつ話せる言語を増やしている。もちろん「永遠」そのものにも飽きかけたりするわけだけれど、その退屈すら克服していて、おおむね穏やかに遠大の時を消費してはいるものの、ある日、偶発的な事故によって縦深い井戸に落ちてしまう。不老不死の他にはなんの能力も持っていないただの人間であるところの彼は、とてもそこから出られない。ぼんやりと、井戸の底から見上げた丸い空を見つめる以外にすることもない。誰よりも世界を知っていたはずの自分が井の中のナンチャラとなっている。ある日大きな音が繰り返されて、なんだか世界がひどく静かになった気がする。何万回も明るくなったり暗くなったりして、食べることも眠ることもできない。もちろん、死ぬこともない。


 そういうときに、親指と人差し指とでまあるい円をつくって、彼は見上げるのだ。指の額縁のなかに満たされた空、その空から煌々と降り注いでいるであろう星光、きっと続いているであろう人間の営みや、土に帰っていく友人の質感。そして、上のほうからひとつの蔦が、こちらに向かって葉を伸ばしているのを発見する。滴が落ちてくる。その、濡れた葉の、一段彩度の上がった色合いの美しさが、どうしようもなく好きであることに気付いてしまう。彼は癒されている。そういえば、決して不幸ではなかったと思い出す。


 でも、ほんとうにこれは悲劇だろうか。


 彼は井戸の底にいる。そこには薄く水が張られている。雨が降ってきた。月や星が鏡面に映り、彼はまるで、自分が星空のなかにいるかのような気分になる。彼は気まぐれで指を伸ばす。ひとつの円のなかで、星を混ぜるみたいにくるくると水を混ぜる。水面のうえで、星と星とが気軽に出会っている。雨が降る、しかしこの井戸の中が水であふれることはどうしてかなかった。


 もうずいぶん慣れ切っていたはずなのに、何十年かぶりに、彼は祈る気持ちになった。いつか、出られますように。友人の墓に花を供えて、お日様のもとを歩いたりして、新しく出た小説を読んだりしてみたい。願いは届いたりするのだろうか。ここからでは少し遠すぎるだろうか? 星は、大人で、永遠で、『いつか』の約束されている自分よりも、可愛らしい子どもの願いを先に叶えてやるのだろうか。井戸の底では、出来ることなんてひとつもない。星に祈るぐらいしか。誰かの役にたつことも、かえって迷惑をかけることも、なにひとつもないのは、どこかひどく幸福なのに、いびつでぐっと切ない。悲しいような気がする。


 星が混ざる。雨が降っている。井戸の底で、二つの星が出会っている。

 彼は勿論、今日の日付を知らない。

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