出向者の策略論【前】


「真信君、今日もご苦労だね」


 昆布こんぶ出汁だしを取っていた真信まさのぶのもとへ仏みたいな笑みを浮かべて現れたのは、深月の後見人、菅野すがの源蔵げんぞうだった。


 相変わらずの胡散臭い白スーツにシルクハット姿。ポケットからは黄色いハンカチが覗いている。いつもと違うのは、その手に新聞の束を下げていることだ。


「こんにちは、源蔵さん。深月ならマッドのところで検診中ですよ」


「ああ、そっちにはもう挨拶に行ったとも。私の用事は君だよ」


 源蔵が頬をほころばせる。真信は微かに警戒の色を強めた。男はそんな真信の反応を楽しむように笑う。


「ほら、君のところから何人か人員を借りているだろう?」


「ええ。秘書としてなぎさと、あとどこぞの組織に諜報するよう技師一名と戦闘員二名を連れて行きましたね」


「そうだとも。三人とも別々の組織に行ってもらっているんだけどもね。そのうちの一人から情報ものが届いた。諜報の成果だとは思うのだが」


「らしき……?」


「この新聞の束さ。どうやら何かしら暗号が含まれているようだが、私には見当もつかなくてね。どうも君たちにしか通じないもののようだ。まったく、私も信用されていないものだよ」


 それは当たり前だろうと真信は思ったが、顔に出さず新聞を受けとる。どうやら新聞は一種類ではないらしい。十字に縛った紐を切ると、それは二週間前の日付の古新聞だった。


 さて、今回の暗号は何型か。まず暗記している形態を五種類ほど頭に浮かべて、真信は新聞をめくる。



        ◆   ◇   ◆



 最近、この組織は騒々しい。

 そう一人ごちる男がいた。


 洗面所で石鹸を泡立てながら来栖くるすはため息をつく。鏡に映る自分の顔は長時間、極度の緊張にさらされひどく疲れていた。

 泡を水で流してハンカチを取り出す。一つ伸びをすると凝った背筋が悲鳴を上げた。


 男は早々に鏡から目をそらす。背が低くそのくせ筋肉質な、不格好な自分の体型が昔からコンプレックスだった。


 来栖くるすはとある組織の末端職員をしていた。特に彼の務める部門は化学兵器の製造を行っている。それを戦地で売りさばくのも組織の仕事だ。

 もちろんおおやけの機関ではない。彼らが渡り歩くは法の及ばぬ泥沼の地獄だ。製造する物の大半が非合法の産物であることは疑いようがない。


 彼らは自分たちをアカデミスタと称し、科学技術の最前線をうたっていた。


 アカデミスタを率いる会長はカリスマ性溢れる一人の男性だという。その下に十人の議会員がいて、アカデミスタ全体の方針を決めている。下っ端の末端員に過ぎない来須は会長の顔など見たこともないのだが。


 会長は最近ずっと、自分の部屋に引きこもっているらしい。その部屋へ繋がる道は全て厳重な守備体勢が整えられていた。来栖くるすがここに来る前から、外に顔を見せていない。


 会長は何かの研究に没頭している。だから今のアカデミスタを実質的に動かしているのは議会なのだと、末端の間ではまことしやかに囁かれていた。


 どうにか会長の動向を知るすべはないか。それがここ数か月、男の頭を悩ませ続ける難問だった。来須はただの職員ではない。とある組織からアカデミスタの情報を得るために派遣されたスパイだ。だがどうにか組織に侵入してから今まで、ろくな情報にありつけていない。


 せめて議会の人間に近づければ……。唇を噛むがそう簡単ではない。

 

 ──アカデミスタがこれまで通りの運営をされているなら、そう絶望していたところだ。


 現状、アカデミスタ内部は真っ二つ別れている。これまで会長の指示のもと団結していた組織が、今では派閥争いに明け暮れていた。


 原因は呪術の存在だ。

 呪い、まじない。そういったものの総称としての、呪術。

 裏社会の変貌と共に、議会はこの呪術の研究を組み込むと指針を発表した。


 もちろん研究者たちはそれに反発する。


 おまじないも占いも、科学に否定される側の文化だ。それを真面目に研究し利用しようなど、現実主義者リアリストからすれば正気の沙汰ではない。彼らが追い求めるのは人文学な交渉術よりも殺傷力なのだから。


 とはいえ夢見るのもまた学者だ。こうしてアカデミスタは呪術研究の肯定派と否定派に分かれてしまっていた。割合は七対三。好奇心の強い研究者が以外と多い。販売専門の職員たちは我関せずの構えを取っている。自分たちが何を売るにしろ、とにかく研究員が良い物を作れば問題ないと考えているのだろう。そういう信頼がこのアカデミスタにはあった。会長が過去に作り上げた関係らしい。


 議会が何を考えて呪術の研究をいまさら始めようとしているのか。来栖くるすには理解できない。ともかくこれが火種になるのは間違いなかった。


 濡れたハンカチを畳んでトイレから出る。一般的な科学研に偽装したアカデミア支部の一つであるここ東研究所の廊下は薄暗い。だから男は、その存在に姿よりも先に声で気がついた。


「否定派の動きが何やら怪しいようだ」


 唐突に前方から聴こえてきたのは、苦労の滲み出るような渋い声だった。出所は明かりのともらぬ研究室の一つ。鍵がかかっているはずのその部屋の扉が微かに開き、中の声が洩れ聴こえている。


 来須くるすが聴き間違えるわけがない。これは議会員の一人、有麻ゆまのものだ。次いで聴こえてくるのはへり下っていてもいやらしさの消えない若い男の声。


「ご安心なさいませ、有麻ゆま様。彼らの動向はこの刈浜かりはまめがしっっっかり把握しておりまする」


 口調だけでにこやかな顔が浮かぶ。背が高く、そのくせやけに身の細い色白の男。刈浜かりはま有麻ゆまがどこからか拾ってきた謎の人物だ。来須と同時期に現れたくせに、いつの間にか有麻ゆまのお付きになっていたという。


 来須も何度か見かけたことがある。目じりには人殺し特有の鬱気が染みついているのに、口元にはいつも人好きする笑みが浮かんでいる。来須にはそれが不気味でしょうがなかった。


 どうしてこの二人が東研究所に? 降ってわいたチャンスにひりつく喉を押さえて、来須は中から自分の存在が悟られないよう壁にはりついた。


 刈浜かりはまが現れてから有麻ゆまを中心にアカデミスタの動きが明らかにおかしい。彼らは要注意人物だ。目を離すわけにはいかない。


 室内では小声の会話が続いている。


「呪術研究の開始は会長の御意思だ。決して我ら議会の独断などではない。それを否定派のやつらは何を誤解しているのか……。我らが会長をたばかっているとでも?」


「誤解で済めばよろしいのですが」


「なに?」


「どうやらあの者ども、強硬手段に出るようでございますよ」


「どういうことだっ」


「いえ、それよりも有麻ゆま様。貴方様は呪術研究をご支援なさるおつもりなのでしょう?」


「? ああそうだ。ここ数年、時代の闇に消えたと思われてきた呪術者たちが科学こちら側にコンタクトを取ってきている。呪術の在り方は興味深い。あれは他の者の言うような幻想ではない。実在するものだ。あれらを解き明かし、科学に組み込むことができれば兵器開発は劇的に変化する。積極的に受け入れていくべきだろう」


 有麻ゆま滔々とうとうと語る。来須は内心で頷いた。

 来須の組織でも言われていたことだ。ここ数年、呪術者が科学側の知識を求め始めていると。原因は恐らくスマートフォン等の普及によって急激に社会がデジタル化したことと推測されていた。田舎に引っ込んで研究にいそしんでいたさすがの呪術者たちも、もはや自分たちに及ぶ科学の影響を無視できなくなってきたのだ。


 呪術は不確かだからこそ、この世で猛威を奮うことができる。だから科学に正体を暴かれ淘汰とうたされる前に融和ゆうわの道を模索し始めたのだろうと、来須くるすの組織の人間は言っていた。


「それがどうした」


「いえねえ、貴方様のご意思を確認しとうございまして。議会にも反対派が隠れているのでしょう? 彼らは有麻様の障害となりましょう。でしたらこれほどの好機はありません。この刈浜かりはま有麻ゆま様に拾われたご恩をお返ししたく存じます」


 ニヤリと笑う気配がする。有麻ゆまの耳元で囁かれたであろう続く刈浜かりはまの言葉が、まるで来須の脳へと直に響いたような衝撃を伴って届いた。


「否定派によって近々行われる議会員暗殺計画、どうかお許しください。我らは護るだけでよいのです。今必要なのは彼らへの慈悲の御心みこころにございます」



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