牛乳乱舞【2】


 休日だからだろうか。軽快なポップミュージックの流れるスーパーマーケットは昼前でも賑わいがあった。カートを押してナメクジみたいな速さで食品を見て周る中年女性もいれば、目的の商品だけをカゴに詰めて先を急ぐ男性もいる。


 地元のスーパーに集まる人間は多種多様だ。その中に裏の仕事をしていた人間がちょっと紛れ込んでいても、誰も気がつかない。


 買い物かご片手に野菜コーナーで立ち止まっていた静音しずねは、スマホを閉じて逡巡しゅんじゅんする。


 奈緒なおのアイスだけ買って帰るつもりだったのだが、予定が変わってしまった。


 真信から送信されて来たのは買い物メモだった。複数店舗のチラシも添付されている。その中に描かれたいくつかの赤丸印。今日の特売品をついでに買ってこいとのことだった。


 全ての商品を購入するには店をハシゴするしかない。荷物の重さと最短ルートを計算して、一番早く買い物を済ませるスケジュールを導き出す。二通りまでパターンを絞って腕時計を見た。


 速やかに帰って奈緒を見張らねばならないのだが、できそうにない。タイムセール品が混じっているせいで、どうあがいても三十分以上はかかってしまう。ここは奈緒を真信たちに任せるしかないようだ。


 もう一度ため息をつく。さて先に進もうと乳製品売り場に目を向けて、静音は顔をついしかめた。すぐに元の凛とした表情に戻るが、目尻の痙攣までは隠せない。


 そこにあったのはニリットル紙パックの牛乳だった。白いフォルム。青色の文字。草原で草をはむ牛のイラストがついている。


 スーパーでよく見かけるパッケージだが、静音はこれを見ると、嫌な記憶を思い出してしまう。


 それは今から約五年前の出来事。常に冷静を旨とする彼女が久方ぶりにぶちキレてしまった、本人にとっては黒歴史に認定すべき案件であった。



       ◇   ◆   ◇



「これでよし」


 屋敷の外に出て静音へメールを送信した真信は、奈緒の待つ和室に戻った。狭い畳敷きの小部屋にベッドが置かれた簡易的な病室だ。昨日までは医療器具や点滴も運び込まれていたが、マッドの判断でそれらは撤去された。奈緒の傷は順調に回復しているということだ。


 部屋に入ると奈緒は大人しくベッドに入っていた。その前に置かれた丸椅子に腰かける。真信の言葉を待つ奈緒に向け、少年は口を開いた。


「まず理解してもらいたいことは、平賀での静音の立ち位置だ。静音は突出した才能はない。けど努力家だから、大抵のことは人並みにこなせる。そしてこのっていうのは、平賀における人並みってことだ。この意味が分かる?」


 問うと、奈緒はごくりと喉を鳴らして声を震わせた。


「平賀のレベルって、確実に一般人より上ですよね……?」


「うん。だから静音は、一般社会でなら十分に天才と呼べる人材だ。彼女は理解と応用までならなんでも完璧にこなす。けど新しく何かを生み出す――本物の天才の行いには至らない。それは平賀においては専門性がないと判断されるものだ。だから静音はどこかの専門部署には所属していなかった」


「その専門部署って?」


「そうだな……。例えばマッドなら科学や薬学、戦闘特化の門下なら軍部って感じ。本人の得意に応じた部署で、その得意を極限まで伸ばす。それが平賀の合理的な教育方針だ。だからこそかな、平賀の門下は専門外のことには弱くなる。一通りの基礎訓練は全て履修させるけど、いつまでも覚えておくことはできないから」


 真信はそこで一度言葉を切った。奈緒の様子を窺い見る。彼女は聡い。語られる言葉以外にも、真信のちょっとした仕草から情報を得る。少女は苦々しい表情で舌を出した。


「うっへぇ。基礎訓練を一通りとか……あたし嫌いな分野とか頭に入らないんで無理です。やっていけません」


「そうかな? 奈緒なら十分にやっていけそうだけど」


「なんですかその無駄な高評価。無理ですよ~。あたしにできるの拷問と暗器くらいですもん。そして静音さんの凄さは良く分かりました。どの分野もそれなりにできるって、相当ヤバくないですか」


「そう、ヤバいんだよ。だから専門分野一辺倒で他のことが苦手な人間にとっては、気に食わない人材だと受けとられることもある。だって自分の得意も理解されちゃうのに、他のことにも精通してるんだ。しかも本人は謙虚な努力家だし。平賀の大半を占める卑屈な人間からすれば眩しすぎてね」


「それ、先輩自身も含んでません?」


「…………」


 奈緒の指摘を、真信は薄い笑いで受け流す。そして続けた。


「簡単に言うと、静音は目立ってた。僕の付き人になって余計にね。いわゆる悪目立ちだ。――そして静音は胸が小さい」


「は?」


「だから、あんな事件も起きたんだ……」


「いや待てコラ、何ですか今の。ちょっ、おーい」


 謎の発言にギョッとする奈緒の声は真信に届いていない。彼は意識を飛ばして懐かしい記憶に思いをはせた。



       ◆   ◇   ◆



 冬を迎える直前のような鋭く乾燥した風が吹く。短い黒髪を無理矢理後ろでひっつめた少女が、風にあおられ首を縮こませた。


 背丈はすでに成熟しているが、顔立ちにはどこか幼さが残る。それもそのはずで、醸し出す雰囲気と相反して彼女はまだ成人していなかった。


 女性は平賀が所有する山の中で、里と呼ばれる場所を歩いていた。当主の子息の付き人は年齢や功績にかかわらず階級が上がる。階級が上がれば待遇が良くなるのも当然であった。

 平賀家三男坊である平賀真信まさのぶの付き人になって早数か月。静音は新たに自分に与えられた特別私室を確認に向かっていた。


 本当なら一時でも真信の側を離れたくはないのだが、当の主人に自室はしっかり管理しろと申し付けられれば行かないわけにはいかなかった。


 里には静音と同じように、それなりの階級の人間が集まっている。静音も今まで入ったことはなかった。等間隔に平屋の立ち並ぶ道を真っすぐ進んでいると、複数の視線を感じた。


 自分を窺うような観察するような視線。ねっとりと絡みつくそれは決して気持ちの良いものではない。遠くから、風に乗って囁き声も聴こえてくる。


「あれが三男様の付き人か……。若いな。しかも女ではないか」


「静音だったか? なんでも一芸を極めるには足らぬ者だとか。なに、末弟殿はまだ年若い。ゆえにあのような中途半端者を傍に置くのであろうよ。今まで付き人など付けなかったというのに。ふんっ、なんの基準で選んだのやら」


 会話は明らかにこちらに聴こえるように意図したものだった。静音は片眉がピクリと痙攣するのを感じつつ、真っすぐ前だけを見て歩を進める。挑発に乗って良いことなど何もない。おそらくあれは、こちらを量っているのだろう。なればこそ無視するのが一番だ。


 一瞥いちべつも向けずに遠ざかると案の定、静音を包んでいた視線は減った。

 辿り着いたのは里の端にある小さな家だった。一階建てで塀に囲まれている。指紋と声帯認証で鍵を開けて入室し、中を検分してすぐ外に出る。どうせ荷物置きぐらいにしか使わない場所なのだから長居は無用だ。とにかく早く真信のもとへ帰りたかった。


 だが玄関から出ると、外で彼女を待つ人物がいた。


「よお静音。久しぶりだな」


 そう声をかけてきたのは長身の男性だった。目じりと鼻筋に入れ墨をしている。ぷらぷらと手を振る男に静音は見覚えがあった。


「…………句曜くようさん。お久しぶりです」


 言って頭を下げる。句曜は静音の五つほど上の先輩だった。研修時代に何度か世話になったことがある。平賀の門下にしては明るい性格で、その分なにかと粘着質な性質をしていた。会うのは数年ぶりだ。まだ生きていたのか。


 静音の丁寧な挨拶に、句曜くようは笑って首を横に振る。


「おいおい、そんな馬鹿真面目にやってんなよな。俺はたかが上級戦闘員だぜ? 今じゃお前のほうが階級は上だろうが。なあ、真信様の付き人さん」


 言いかたにトゲはあれど、声音に他の者のような嫌味は感じられない。なので静音は警戒を少しだけ緩めて男の所作を見守ることにした。


「ところで句曜くようさんは此処で何を?」


「昇級おめでとうを言いに来たのさ。知らない仲でもないしな。たまに見かけてはいたが、世間話なんてできなかったろう? 家持ちになったってんでこうしてな」


「それはありがとうございます」


「いいって。にしてもやっぱ、身長伸びたよな。いま歳いくつだっけか」


「十九です」


「へえ、じゃあ次は成人か。お互いよく生きてたな。んで? 真信様はどうよ。お優しいか?」


「真信様は未熟な私が仕えるにはもったいないほどのお方です」


「そろそろ中学生だろ? んで静音を付き人にしたと。……へえ。うーん、やっぱ足りないな」


「?」


 口元ににやけた笑みを浮かべる句曜に、静音は首を傾げる。彼が何を言わんとしているのか分からない。

 句曜はずっと後ろ手にしていた左手を出して、提げた袋から何かを取り出した。


「やっぱ、もうちっと育つべきだよ。大丈夫、手遅れなんてことはねえから。大きくなる時期は人それぞれだもんな」


 差し出されたのは二リットルの牛乳だった。牛のイラストが描かれた普通の牛乳。静音は困惑しながらもそれを受けとった。


「ありがとうございます?」


 身長……は伸びたと言われたばかりなので、体格のことだろうかと勝手に解釈する。確かに静音は細身だ。筋肉が目立ちにくい体質なので余計そう思われたのだろうと納得する。


 静音が牛乳を収めたのを見て、句曜は満足げに頷く。


「うんうん、やっぱ成長には牛乳だよな。他はバランス良いからそこが勿体ない。んじゃまたな」


 用はそれだけだったらしく、句曜はすがすがしい笑みで去っていった。取り残された静音もそれ以上気に留めることなく真信の元へ急ぐ。牛乳も後でちゃんと飲んだ。


 だが贈り物はこれで終わらなかった。


 その後も句曜に会う度に二リットルの牛乳を渡されるのである。しかも以前では考えられないほどの頻度で。どうやらわざわざ仕事の合間に牛乳を渡しに来ているらしかった。


 来る日も来る日も牛乳、牛乳、牛乳。視界が真っ白に染まるのではないかと思えてくるほど。


 真面目な静音はそれを全て飲み干していく。


「おう静音。今日も牛乳の差し入れだ」


 すっかり寒さが厳しくなったある日、また句曜に会った。最初と同じように家の前で待ち伏せされていたのである。


 最初は何とも思っていなかった静音も、こう頻繁に牛乳を渡されると小さな違和感も山のように積もる。洗って開いた牛乳パックの束も月間の少年誌並にぶ厚くなってしまった。手早くリサイクルに回さねば。


 最近は飲みすぎて牛乳が苦手にまでなってきている。もはや嫌がらせに思えてきた。自分で考えてもそれ以外の理由が思いつかなかったので、仕方なく本人に訊いてみた。


「なぜそうも牛乳なのですか。トレーニングならば私も毎日行っています。ですが年齢的にも遺伝的にも、これ以上体格に恵まれることはないと思うのですが……」


「体格? 何言ってんだ。俺が育ててんのは、おっぱいだぞ」


「…………え」


 予想外の言葉に思考がついていけなかった。目を丸くする静音に、句曜は当たり前と言わんばかりに笑う。


「だって静音、スタイルは良いけどおっぱい無いだろ。小さすぎだ」


「………………つまり、私の胸囲の小ささを案じて牛乳を贈っていた、と?」


「おう。真信様だってせっかく女を付き人にしたんだ。夜の世話とかもあるんじゃねえの? だから大きいほうがいいって。大は小を兼ねるんだから。むしろ大はむすこを包むんだから」


「真信様は部下にそのようなことをさせる方ではありません」


「でも思春期だぜ? 真横に美女だぜ? そのうち手ぇ出すって。なぁ?」


 同意を求めるように肩をすくめる。その動作はあまりにふざけていて――


 静音は、自分の中に積もり積もった何かが千切れる音を聴いた。


「私に対して胸囲がどうのとのたまうことは許しましょう……」


「えっ? 静音……?」


「ですが私をだしに若のことまで侮辱するというのなら、話は別です」


「えっ待って、あの」


「これは少し、痛い目を見てもらいましょうか」


 静音の目がギラリと光る。獲物を定めた獣の様な眼光に句曜の喉が鳴る。


「――――くっ、ここは撤退!」


 全身を駆け抜けた寒気に、句曜は身を翻した。

 小さな地雷を踏みまくって大きな地雷の起爆ボタンまで押してしまった。そんな情景が頭をよぎる。


 全力で逃げる句曜の背中はみるみる遠ざかっていく。だが静音は慌てず、上着の内ポケットから携帯を取り出した。


「逃がしません。ええ、真信様の品性を貶めた報いは受けてもらいます。……あと私の胸は別に壁ではありませんので。若はそんなこと気になさらないはずですので」


 誰にともなく言い訳めいたものを呟きながらも、頭の中ではすでに策をめぐらせている。獲物を罠にはめるには、たとえ急造でもそれなりの準備がいる。静音はそれをよく知っていたのだ。



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