その女、小悪魔につき――。

九曜

第1章

SIDE-A

第1話

 本学最大の広さを誇る大教室の中、僕らは後ろ半分の階段状になった席に固まって座り、先生がくるまで無駄話を続ける。


「お前ね、友達と一緒にいるときくらい本読むのやめたら?」

「ちゃんと話には参加してるさ」


 僕こと藤間真は、読んでいる本から顔も上げずに答えた。


「それに丁度おもしろいところなんだ。今日中に読んでしまいたい」

「あいかわらず活字中毒だねぇ」


 友人・浮田はため息混じりにそう零す。


 本好きは否定しないが、僕としてはそこまで中毒ではないつもりだ――そう思いながらページをめくる。


「見ろよ。きたぞ」


 今度は別のひとり、成瀬が話の流れを切り、ひかえめなボリュームの声で皆に告げた。


 別に僕は周りを無視して本に没頭したいわけでもないので、見ろと言われれば見る。それが自然な動き。何ら不思議はない。顔を上げれば、教室の右手中ほどに位置する出入り口から女子生徒のグループが入ってきたところだった。


(そうだ。この授業は、あの人がいる)


 注目すべきは、その中心にいる人物。

 長い黒髪を揺らして歩く彼女は、名を槙坂涼という。


 学年は僕よりひとつ上の三年生だが、ブレザーの制服を脱いで私服を着れば、大学のほうに紛れ込んでも違和感がないくらい大人っぽい。そして、何よりも美人であった。


 ここ、明慧学院大学附属高校は単位制が導入されていて、生徒がそれぞれ前期と後期のはじめに履修する授業をある程度好きに選べる。なので、科目によってはこれからはじまる授業のように、別の学年でも一緒に受けたりすることも珍しくない。


 そして、槙坂涼が受ける授業は、決まって大教室になるのだという。なぜなら、彼女目当てで同じ授業を希望する生徒が、性別を問わず、学年も問わず、腐るほどいるからだ。おかげで各学期の最初には、彼女がどの科目を希望しているのかを知ろうと皆躍起になり、嘘、本当、ダミー含めていろんな情報が飛び交う。直筆の履修届けのコピーともなると、ン万円で取り引きされるなんて都市伝説もある。……ご苦労なことだ。


「今日も素敵だなぁ、槙坂さん」

「そうだね」


 僕は浮田の夢見心地の感想に、テキトーに相づちを打つ。


 気がつけば教室内の喧騒のトーンが落ちていた。皆、僕たちと同じようにそれまでのおしゃべりをやめ、そちらに注目して何ごとかを囁き合っているのだろう。


 この教室は前半分が平面で、後ろ半分が階段状になっている。真ん中の扉から入ってきた槙坂先輩は教室の中央を横断する広い通路を歩くことになり、さながらファッションショーのモデルのように視線を集めていた。後ろ寄りに座っている僕も、数段下を歩く彼女を目で追っている。


「相変わらず無関心丸出しの返事だな。ああいうお姉様とつき合いたいと思わないわけ?」

「思わないね。聞いた話、勉強もできるんだろ? そんな完璧人間とつき合っても大変なだけさ。それに僕たちみたいな年下を相手にすると思うか?」


 少なくとも女の子を見て騒いでいるような子どもなど相手にしないだろう。すでに大学生とつき合ってるなんて噂もあるし。


「確かになさそうだな」

「だろ? よって、僕はあの人に興味はないね」


 そう言い切って、再び本に目を落とす。


 ――と、そのときだった。


 槙坂先輩がこちらを見た気がした。誰も気づかない、向けられた僕にしかわからない、目だけを動かした視線。僕は思わず、一度は伏せた顔をまた上げる。だが、そのときにはもう彼女はこちらを見てはいなかった。いや、もとより本当に『気がした』だけだったのかもしれない。


 槙坂先輩はすでに僕と最接近する座標を過ぎ、遠ざかっていく運動に入っていた。


「……」


 僕はその背中を黙って見送る。

 やがて彼女を含めたグループが空いた席に座ると、もっと関係を深めたい男どもがゴアイサツに群がりはじめた。……熱心なものだな。


 僕はしばらく遠目から、その様子を眺めていた。




                  §§§




 さて、そんな起きたか起こらなかったかもわからないような出来事も忘れた数日後の休み時間のこと。

 机の上に置いていたスマートフォンが振動し、低い音を鳴らした。


 本を読むのをやめ、端末を手に取る。ディスプレィを見れば、知らない番号が表示されていた。僕のアドレス帳にはない番号。よって送信者の名前もなし。誰かが僕の番号を勝手に人におしえたのだろうか。


 僕は無慈悲に『拒否』をタップし、静かになった端末を机の上に戻した。


「出なくていいのかよ?」


 そんな僕の行動を見て、隣に座る浮田が問うた。

 ここは小教室。普通の高校のように机が四十ほど並べられている。


「知らない番号だったからね。三回かかってきたら出てやるさ」

「三顧の礼かよ」


 そんなにいいものじゃない。単に誰からかかってきたかわからない電話に出たくないだけ。そう言おうとしたが、ちょうど先生が入ってきて、僕たちの会話は中断を余儀なくされた。




                  §§§




「次の授業は、と……」


 見なくても覚えているのだが、念のため自分に割り当てられたロッカーの扉の裏に貼りつけた時間割り表を確認する。


 3102教室。

 講義棟3の1階、2号教室。


 確か槙坂先輩のいる授業だ。例の如く騒がしいのだろうな。

 平和と退屈と本を愛する僕は、ため息をひとつ。それからテキストとノートを取り出し、ロッカーに鍵をかけてから目的の場所へと向かった。


 教室に入ると、すでに槙坂先輩がきていることはひと目でわかった。


 前のほうの一角に人だかりができている。いつものようにゴアイサツしたい人たちが群がっているのだろう。本人の姿は見えないが、あの人垣の向こうに槙坂先輩がいるにちがいない。聞いたところによると、そんな状況でも彼女は微笑みを絶やさず、誰とでも話をしてくれるのだという。


 僕はそれを横目で見ながら逆方向、すなわち教室の後ろへ足を向ける。

 階段を数段上がって、四列目の通路側に座った。この授業は肩を並べて座るほどの知り合いがいないので、遠慮せず本が読める。そう思ってテキストとともに持ってきた文庫本を開こうとしたとき、例の人だかりに動きがあった。


 中から槙坂先輩が出てくる。申し訳なさそうに皆に謝りながら輪を抜け、向かう先は――、


(こっちにくる、のか……?)


 まさか。

 だが、予想通り、且つ、思いもよらないことに、彼女は僕のもとへとやってきた。槙坂先輩が僕のそばに立った瞬間、教室内が静まり返る。


「こんにちは。藤間真くんよね?」


 発する言葉も見つからず、ただ見上げるだけの僕に、槙坂先輩は大人っぽく微笑みながら問うた。落ち着いた感じの声だ。


「……」


 なぜ、槙坂涼が?


 警戒。

 そして、ある種の怖れ。


「ちがった? できれば何か言ってほしいのだけど」

「あ、ああ……」


 僕はようやく我に返った。


「僕に何か用でしょうか」


 だがしかし、槙坂先輩はその質問には答えない。




「あなた、意外と用心深いのね」




「……」


 警戒心が顔に出ていたのだろうか、答えの代わりにそんなことを言われてしまう。


 と、そこで教室内にチャイムの音が鳴り響いた。休み時間終了。


「残念、時間切れだわ。じゃあ、またね」


 そうして彼女はくるりと踵を返し、優雅に去っていった。


 僕の頭の中で疑問が渦巻く。


 なぜ槙坂先輩が僕のところに?

 いや、

 


 さっぱりわけがわからなかった。


 なお、この後の授業は四方八方から視線を感じる、非常に居心地の悪いものだったことをつけ加えておく。

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