第三章 4

 遥は服が脱がされ、下着姿でベッドに横になっていた。その瞳は光を失っている。ベッドの手前には、椅子の上にスケッチブックが置いてある――遥が誘惑をしているようなポーズの絵が描かれていた。


 胸がかつてないほど苦しくなって、うまく呼吸ができない。黒猫がぼくをおじさんの家に案内した時から気付いていた。でもぼくの心はその可能性を考えることを避けていた。拒絶していた。目の前の光景を見て、ぼくの中の点と点が繋がってしまった。図書館で調べて気付いた、犯人はこの町に住んでいる、ということ。以前遥が散らかした箱を見る――あの中にはどんなものがあった? 少女が描かれた本、DVD。それに、表紙のない自作したであろうDVD。明らかに特殊な性癖だということの証明。そして、遥が最初に視線を感じると言ったとき、ぼくは猛スピードの車に引かれそうになった。あの時の車と犯人の車、そして数日前にシャッターが少し空いていて、車庫の中に見えた車。今思えば全て同じ車だった。それらが指し示す答え――犯人はおじさん……いや、千代崎だ。


 今までずっと、信じていたのに! 四年間ぼくたちに優しくしてくれていたのはなんだったんだよ! まさかこの日のためなのか! 今日、遥を辱めるために、ぼくたちをずっと騙してきたのか! 許さない。許さないぞ、千代崎!


「おい、遥!」


 とにかく遥の無事を確かめないと。ベッドに駆け寄って遥を揺らす。しかし何の反応も示さない。どうしたんだ? まるで意識がないような――


「こらこら、勝手に人の家に上がり込んで。親のしつけがなってないなぁ!」


 千代崎の声がして振り返ろうとしたとき、左腕に衝撃が走り、何かの折れた乾いた音が聞こえた。衝撃に耐えきれずそのまま床に倒れた。左腕を見ると、到底あり得ないような方向に曲がっていた――痛い! 痛すぎて意識が飛びそうだ。堪えながら千代崎を見ると、その手にはゴルフクラブを握りしめている。


「まったく、君はいつも鬱陶しいやつだよなぁ! 僕の遥の周りを、うろちょろ、うろちょろと!」

「なん、だと!」


 千代崎はゴルフクラブを床に投げ捨てて、普段の様子からは全く想像できないような表情に顔を歪める。


「僕は君が大嫌いだったよ。昔からね。賢しくて、いつも遥のナイト気取りでさぁ! おまえには何の力もないくせに! 邪魔ばかりするんじゃねぇよ!」


 途端に激昂する。黒猫がぼくの助けに入ろうと千代崎に襲い掛かったが、床に叩き付けられて気絶してしまった。そして腹に千代崎の蹴りがめり込む。激痛と吐き気に襲われた。


「せっかくこれで終わりにしろと忠告したのに、全く聞かずに続けやがって! おかげで四年がかりの計画を早めることになったじゃねぇか!」


 胸ぐらを掴まれて無理やり起こされ、殴られる。蹴られ、踏みつけられる。痛い……意識を、断つな。頭を動かせ……遥が図書館を出た後に感じていた視線、あれは千代崎のものだったのか。


「計画、だと?」

「ああ、そうさ」


 ようやく千代崎は落ち着きを取り戻したようだ。肩で息をしながら、


「知ってのとおり、僕には少女趣味があってねぇ。四年前遥ちゃんを見かけた時、コイツだ! って思ったよ。四年経てばまさしく僕の理想の少女になる。早い段階で関係を持って、より僕好みに調教してやろうと思ったのさ。だから僕は遥ちゃんを助けることで信頼を得て、一緒に遊んで、関係を繋いできた。計画の最後は、本当は嫌がる遥を絶望に追いやってお遊びする予定だったんだが、早めたのさ。君に邪魔されてしまったからね」


 異常者だ。気持ち悪い。気持ち悪すぎる。考えがぶっ飛びすぎている。言っている言葉の意味がわからない。だがこれだけはわかる。


「遥が苛められていたことをチャンスだと思って近づいてきたのか」

「……くふ。くははははははは! 確かに、君からしたらそう見えるだろうね! あぁ、おもしろい――もし、あの苛めも僕がさせていたとしたら君はどう思うかな?」


 苛めを強要した? どうやって……脅したのか? いや、脅したところでそこまでうまくいくはずがない。


「そんな事、できるわけがない」

「それができるのさ。今から見せてやるよ」


 千代崎は遥に近づくと、手を遥の頭に置いた。すると遥はむくりと起き上がり、千代崎の顔を見て満面の笑みを浮かべた。


「あれ、賢人様! ごめんなさい、私眠っちゃってたみたい! はやく続きをしましょーよ!」


 賢人様? 遥はいつもおじさんと呼ぶはずだ。本当に遥なのか?


「くふふ、遥ちゃんは寝坊助さんだなぁ。さぁ、さっきのポーズ、覚えてるかい? 美しく描いてあげるからね」

「はーい! ねぇ、賢人様。そこの寝転がってる子って誰なんですか? 見られてるとちょっと恥ずかしいんですけど」

「あー。気にしなくていいよ。見学をしたいんだそうだ」

「ふーん。君、あんまりじろじろ見ないでよねー」


 ぼくに冷たい目線を向けた後、遥はスケッチブックにあった絵と同じポーズを取った。


 やめろ、やめてくれ。こんなの、遥じゃない! こんなことはするはずがない。それにぼくのことを忘れている? 一体どうしてしまったというんだ。


「いいよいいよぉ! 可愛く美しく、そして艶やかに! ちゃんと描いて、僕のコレクションに加えてあげるからねぇ!」

「やめろ! どういう、ことだ! 遥に何をした!」

「くふふふふ。わからないようだから教えてあげるよ。これはね、遥ちゃんの記憶を改ざんしてあげたんだ。今の遥は『昔からこうやって僕に裸の絵を描いてもらっていて、それが自分にとっても快感になっている』という記憶を埋め込んでやったのさ。もちろん、君に関する記憶は消去してある」


 当たってほしくない予想が残念にも当たってしまった。やはり千代崎には記憶を操作する方法があるんだ――そういえば千代崎に「犯人は記憶を『消す』ことができるかもしれないが方法がわからない」と相談したとき、やつは「記憶の『操作』なんてできるわけがない」と言っていた。ちくしょう! 操作というのは犯人しか知らないことじゃないか。千代崎は自分が犯人だと言っていたようなものじゃないか。あの時気付いていればこんな最悪の事態にはならなかっただろうに。ぼくは千代崎を信頼しすぎていた。本当に馬鹿だ!


 千代崎はスケッチブックに遥を描きながら続ける。


「僕はね、昔から人の記憶を操作する能力があったのさ。消去、改ざんはもちろんのこと、復元もできる。いやぁ、便利な力だよ。ま、君からしてみたら到底信じれないだろうけどね。この力であの三人の小学生に苛めっ子としての記憶を植え付けてやったんだ!」


 ぼくに“声„という力が備わっているように、千代崎にも記憶操作という力があるというのか。その力を私利私欲のために使い、あの三人の人生を歪めただなんて――いや、ぼくには千代崎を非難する権利なんてない。ぼくも復讐欲に溺れてあの三人を、千代崎の被害者だった三人を殺してしまったのだから。悔しくてたまらないが、ぼくと千代崎はある意味同類だ。


「……………………」

「信じられなくて言葉も出ないか? まぁそうだろう。こんな非現実的な力が存在するなんて、普通じゃ在り得ないからね。ここまで言ってもまだ気付かないようだから、もう一つ教えてあげるよ。遥ちゃんが川に突き落とされて溺れた後の記憶喪失。あれも、僕だ」


 あの時の記憶喪失も、千代崎の仕業? 遥は何も思い出せない事に苦しんで、塞ぎ込んでいったんだぞ! なんでそんなに嬉しそうに言えるんだ! ずっと一緒にそんな遥を見てきたのに、おまえにはあの時の遥の苦しみがわからないのか! この――


「――外道め! 殺して、やる!」


 殺したい――だめだ。殺しちゃだめだ! でもどうしようもなく殺したくなる……殺したい! 殺す!


 ぼくの言葉を気に留める様子もなく、千代崎はさらさらと遥を描き続け、そして最後にスケッチブックの隅に何か文字を書いたところでペンを動かす手が止まる。


「――さて、描き終えた。これからが一番のお楽しみタイムだ! 君も記憶を消される前に見て楽しむといいよ! 遥ちゃんが僕に凌辱されるその姿をね!」


 千代崎はスケッチブックを椅子に置くと、遥に歩み寄り抱きしめた。途端に心の奥底で醸成されていたどす黒い感情が一気に全身に駆け巡るような感覚を覚える。


 たとえ同類であろうと、遥に危害を加えていい理由にはならない! やめろ! 遥から離れろ! 


「その薄汚い手で遥に触れるな!」

「わわ、ちょっと、賢人様?」

「あぁ、やっとこの時が来た! ここまでずいぶんと苦労したよ! んはぁ、良い匂いだ! 途中どうしても我慢できなくていろんな少女に手を出してしまったけど、お触り程度で我慢してきたんだ! 褒めてくれよ、遥ちゃん! くふふ。まぁ、最後の子――沙紀ちゃんだっけ? あの日は遥ちゃんとたくさん触れ合って興奮していたから抑えられなかったけどね。あの子、すごく気持ち良かったなぁ! でも遥とお遊びする方が、もっと気持ち良いって確信しているよ」


 足に力が入らないが、なんとか立ち上がる。人を、遥をまるで玩具みたいに扱いやがって! 許さない! 殺す……殺す殺す殺す殺す殺す! 絶対に、殺す!


「千代崎!」


 “声„を使う! これで千代崎はおしまいだ!


“おまえは生きる価値なんて——„


 ちょっと待て! 我に返って、慌てて右手で口を押さえる。ぼくは今なんて言おうとした? 確かに千代崎は最低なやつだが、殺すのはだめだ! あの時と同じ過ちを繰り返す気か! 黒い感情に支配されるな! 自主しろ、と言え! 言うんだ!


「うるっさいなぁ。君は黙って見ていればいいんだよ。元に戻った遥が、嫌がりながらも快楽に堕ちていく様子をなぁ!」


 いつの間にかぼくの目の前まで移動していた千代崎に、再び腹を思い切り蹴られた。吹き飛ばされて背中と頭に強い衝撃が走る。頬を何か生暖かいものが伝っていく。次第に視界がぼやけてきた。既に限界を通り越してしまったんだろうか。痛みをあまり感じない。


「さぁ、遥ちゃ~ん! 僕の胸に飛び込んでおいで。いつもの遥ちゃんに戻りましょうね~」


 目の前が、真っ暗になっていく。やっぱりぼくには無理だった。結局自殺を命じたあの頃と、何一つ変わっていない。


「何いってるのー? 私はいつも通りだよ、賢人様! えへへ、また抱きしめられちゃった――え? おじさん? なに? なんで私を抱きしめてるの? って、なんで私裸なの!? なんであっくんが血だらけで倒れて――いや、ちょっと、離れてよおじさん!」


 変わらないまま、変わることができないまま、ぼくはここで死ぬんだ。大切な人一人を守り切ることすらできずに。


「これから遥ちゃんと僕はすっごく楽しいことをするんだよ。彼なんか放っておいて、いつものように僕とお遊びしようよ~」


 ただ操り人形だった三人を殺して。何の関係もない黒猫を言葉で縛って。人助けのためだ、と上っ面な理由をつけて、関わった者の生活をめちゃくちゃにした。


「意味わからないよ! 気持ち悪い! おじさん、まるであの変態な犯人みたい――いや! 変なところ触らないで!」


 これはその代償なんだろうか。復讐欲に支配されて何一つ守ることができなかったぼくを裁く罰なんだろうか。


「そうだよ。驚いた? 全て僕がやってきたんだよ。大丈夫だよ。最初は怖くても、じきに気持ち良くなるからさぁ~」


 もう、眠いよ。意識が、遠のく。眠ってしまったら、ぼくは天国に行くんだろうか……いや、地獄だろうな。ははは……。


「いや……やめて。お願い。助けて、あっくん! あっくん!」


 ――遥? 遥がぼくを、呼んでいる? ごめんよ、遥。ぼくにはもう立ち上がる力は残ってないんだ。


「いくら呼んでも無駄さぁ! とっくに気絶してるよ! さぁ、遥ちゃん! 脱ぎ脱ぎしましょうね~。ほら、僕も脱ぎ脱ぎしたよ~」


「あっくん! あっくんはそれでも助けてくれるって信じてる! だって、あっくんは私のヒーローなんだから!」


 そうだった。ぼくは、遥にとっての、ヒーローだったな。ヒーローなら、こんな形で諦めちゃ、だめだよな。おい、変われなかったぼく。動け。これが変われる最後のチャンスだ。最後の最後に変わるんだ。ぼくは本当の意味でヒーローにならなきゃいけないんだから!


「あっくん……!」


 視界がぼやけつつも鮮明さを取り戻す。どうやら無意識のうちに立ち上がったようだ。千代崎に押し倒された状態の遥は涙を流しながら、ぼくに笑顔を見せた。


「遥を、泣かしたな!」

「おまえ、まだ立ち上がって!」


 今度こそ“声„を使う! 感情に支配されない、正真正銘のぼくの意志として!


“遥から離れろ。自我は縛らない„


 千代崎は遥から離れ、ゆっくりと後ずさりする。


「な、なんだ! これは! なんで身体が勝手に動くんだ! おい! 僕に何をした! 何をする気だ!」

「ぼくの力だ。お前を刑務所に送る」

「なぜ! 僕は何も悪いことなんてしていない! 遥だってこれから、僕と一緒にたっぷりと気持ち良くなるんだからなぁ! お互いにとって良いじゃないか!」


 話にならない。考え方が常軌を逸している。


「それにね! もし僕が捕まったとしても、警察連中の記憶を改ざんしてやれば、すぐに出てこれるのさ! 僕を拘束するなんて不可能なんだよ!」


 ここまできたらもう救いようがないな。でも確かに、千代崎の能力があれば、全てを無かったことには出来るだろう。もしそうすると言うのなら。ぼくは千代崎の抑止力になってやる。


“窒息„

「おい! 窒息って一体どういう――うわぁ! 手が……手がまた勝手に! く……か……や、やめろ」


 千代崎がその手で自ら首を絞めていく。だんだんと顔が赤紫色に変色し始め、口の周りに泡が溜まり始める。


「が……あ……死ぬ……いやだ……死にたくない……お願いだ……助けて……くれ」


 まだだ。おまえがみんなに与えてきた苦痛はこんなものじゃないはずだ。


「……………………」


「あ、あっくん!」


 ありがとう。遥。自分が嫌な思いをしているのに、本当に優しいやつだな。わかっているよ。殺す気は、ない。


“全て解除„


 自分の手から解放された千代崎はその場に崩れ落ちた。その後失禁し、その場に大きな水たまりを作る。みっともない姿で泣きながら荒く呼吸をしている。


 喉が焼けるように熱い。足にも、もう力が入らない。視線を落とす。全身が血で染まっている。たぶんぼくは、死ぬだろう。だがまだ倒れるな。頼む、もう少し頑張ってくれ、ぼくの身体。


「あっくん、声、戻ったんだね。それに一体何が起こってるの?」


 その場で呆然とこの状況を見ていた遥が呟いた。


「何も気にしなくていいよ。遥はぼくが、守るから――さて」


 千代崎に向き直る。


「おまえは多くの人を苦しめた。その罪は償わないといけない。たとえおまえが能力を使って出てきたとしても、ぼくがこの『言葉で縛る力』で止める。何度でも、何度でも止めてやる!」


 千代崎はわなわなと震えだし、狂気を浮かべたその顔でぼくを睨んでくる。


「調子に、乗るなああぁぁぁ!」


 まだ立ち向かってくる。尿にまみれたその拳がぼくに届く刹那――


“自首しろ„


 次は自我まで縛っておいた。千代崎はピタリと動きを止め、表情がすっと無表情になった。その瞳は黒くよどんでいる。その場で踵を返すと、服装に全く気を使うこともなく、寝室から出ていった。


「あっくん!」


 駆け寄ってきた遥に抱きしめられた。その瞬間、張りつめていた緊張が解けて、立っていられなくなった。あぁ、温かい。良かった。遥を守ることができて。良かった。本当に、良かった。


「おやすみ、遥……」


 さよなら、遥。

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