第三章 3

 まるでぼくが語り終えるのを待っていたかのように、黒猫は再び走り出した。どうやら遥の痕跡――おそらく匂いだろう――を見つけたようだ。再び全力で走る。……というか、ただの猫にぼくはなんで身の上話をしているんだ。必死で遥を探してくれるこいつに親近感が湧いたからか? なんにせよ、恥ずかしい。ええい! 無駄なことは考えるな! 集中しろ!


 いつもの通学路を疾走して、大通りに出た。信号は赤。それにもかかわらず、黒猫は横断歩道を躊躇することなく走り抜けた。


「ンナーォ!」


 さっさと渡れと言わんばかりに、黒猫が鳴く。ふてぶてしくこちらを見つめている。赤信号なのに渡るなんて普段は絶対にしないけど、今は緊急事態だ。仕方ない。左右を確認する。幸いにも車が来る気配はない。罪悪感を覚えつつも信号を渡った。


 再び黒猫は先導し始めた。この黒猫の向かう先……ぼくの立てた仮説は正しいのか? ぼくたちの通う学校に、迷うことなく突き進んでいる。それならば学校に着いたら、慎重に行動しなければならない。普段は生徒がいてがやがやしているが、夜の学校は不気味なくらい静かだろう。物音ひとつしようものなら警戒されて遥を更なる危険にさらしてしまう。それに、不意打ち一発でこの“声„の支配下に置けば、高角の反撃を受けることなく完全勝利することができる。


 遠くに校門が見えてきた。心臓が高鳴っている。それは走っているからだけじゃなくて、緊張していることも影響しているからだろう。相変わらずぼくの心の黒い感情は奥底でくすぶっていて。上手くやれるだろうか、という気持ちに潰されそうになる。って、決戦前にそんなことでどうするんだ、ぼく! 弱気になるな! すぐそこに遥は居る。気を強く持て! まず学校の敷地に入ったら、どこか物陰に隠れて息を整えよう。それから学校に侵入する。高角が持っている鍵で学校に入れそうなのは……職員用玄関! 校門のすぐ近くにあるな。そこから学校内に入ったらなるべく音を立てないように、黒猫に先導してもらおう。さぁ、校門はすぐそこだ。遥、もう少し耐えてくれ。すぐに助けに行くから――え?


 驚かずにはいられなかった。黒猫は小学校に見向きもせず直進した。思わず校門の前で立ち止まってしまう。そんなぼくに気付いた黒猫も立ち止まり、早くついてこい、と言わんばかりにこちらを見つめる。


「学校じゃ……ないのか?」


 それならどこに連れて行ったんだ! 焦るな……ぼく。自宅なのか? それだと非常にまずい。真正面からの戦いになれば、ぼくに勝ち目はない。唯一の勝機は対面した直後だ。そのタイミングを逃してしまえば——いや、今考えるのはよそう。落ち着け。これでまた自宅だと思い込んで、実際はもっと別の場所だった時、今みたいに動揺して正常な判断ができなくなるかもしれない。同じ過ちは犯してはいけない。考えるのは場所を特定してからだ。


「ごめん、立ち止まって。いこう!」


 黒猫が目を細めてぼくを見上げてから、踵を返した。もたもたするな、もう立ち止まるなよ、と言われたような気分だ。実際のところは全然違うだろうけど、そう感じてしまうのは、ぼく自身が無意識にそう思ったからかもしれない。もう立ち止まっている時間はない。タイムロスする毎に、遥の耐える時間もまた伸びてしまうのだから。


 学校を過ぎてしばらくしてから曲がると、住宅街に入った。複数の交差点を曲がって、立ち並ぶ家々が少し大きなものになってきた。この辺りは裕福な家庭が多いって、昔母さんが言っていたと思う。だからなのか知らないけど、この辺りでアパートやマンションは一軒も見かけたことがない。よく通る道だから間違いないはずだ。この黒猫、こんなところに案内して、本当に高角がいるのか? まさかとは思うが、そもそも遥とは別の誰かを追っていたりしないよな。だってこの辺りって……いや、ちょっと待て……ぼくはとんでもない勘違いをしているんじゃないか? ぼくは高角の服装が犯人のそれと同じだったから、てっきり犯人なんじゃないか、って思っていた。あの不思議な言動も、すぐに姿をくらました怪しさも含めて。でもよくよく考えてみると、高角が犯人だという証拠は何一つない。服装だってたまたま同じような格好だっただけかもしれないし、ポケットから見えたマスクだって、ぼくたちに話しかけるから外しただけかもしれない。ぼくが勝手に高角を犯人だと疑って、その疑いがぼくの中でいつの間にか確信に変わってしまっていた。そのきっかけは……遥が誘拐された、とわかった時だ。冷静になれ、と自分に言い聞かせて、冷静になったと勘違いした自分が馬鹿らしい。結局内心は気が動転して、明後日の方向へ考えを巡らせていたんだから。


 じゃあ真の犯人はいったい誰になるのか。この住宅街に入ったあたりから、あまり考えないようにしていた。彼を信頼していたから。楽しく三人で遊べる関係を壊したくないと願っていたから。犯人は彼じゃない。この住宅街に住む、全く知らない誰かなのだと。


 黒猫は立ち止まった。涙があふれ出そうになる。


「くそ……! なんで、なんだよ!」


 目の前にある家。それはおじさん――千代崎 賢人の自宅だった。そんなわけ、ない。遥の母さんが訪問した時にいないと言ったのも、その時は本当に居なかったからだ。きっと探しにいってくれて、保護できたんだろう! おじさんは、犯人じゃない! そんなことあるわけない! 


 涙を袖で乱暴に拭うと、震える手でインターホンを鳴らした。千代崎はモニター越しにぼくの姿を確認したんだろう。二階から階段を駆け下りてくる音が聞こえた。玄関の扉が開く。


「あっくん! その様子だと遥ちゃんのことかい? さっきお母さんが訪ねてきて聞いたよ……心配だよね」 

「……おじさん」

「なんだい? って、ええ? あっくん、声が戻ったんだ――」

「うん、ついさっき戻った。遥、おじさんのところにいない?」


 自分でもわかるほど、声が震えている。なんで……なんでそんなに他人事みたいに言うの? 黒猫はここまで案内してくれたんだよ。ここにいる可能性が高いんだよ。


「遥ちゃんのお母さんと同じ返答になっちゃうけど、僕のところには君たちが帰ってから来ていないよ」


 嘘を、ついたのか? それとも黒猫が間違えたのか? わからない。何を信じたらいいのか分からなくなってきた。黒猫は足元でぼくを見上げている。どうする? どうすればいい?


 黒猫はぼくの迷いを察したかのように、唐突に玄関へ走り始めた。


「あ、こら!」


 おじさんが慌てて黒猫を捕まえようとするが、足元をすり抜けて、階段を軽やかに登っていった。黒猫が反応したということは、やっぱりおじさんの家に遥は居るのか? 確かめたい。おじさんの無実を証明したい。「おや、あっくん。とうとうここがばれてしまったかー」とか無邪気に言う遥が出てきて。この失踪事件は、実は家に帰りたくなかったからかくまってもらっていた、っていうような遥のわがままで済んでほしい。


 黒猫を追おうとおじさんの家に入ろうとする。


「あ、あっくん! 今はちょっと立て込んでてね。あの猫は僕が連れてくるから、待っててくれないかい?」

「ごめん、おじさん。確かめたいこともあるから、自分で黒猫を連れ戻すよ」


 言うと同時に、おじさんを突き飛ばす。おじさんは玄関の段差に背中を打ちつけ、痛そうにその場でうめいている。その隙に黒猫を追って階段を駆け上った。


「ナーォ!」


 鳴き声が聞こえた方向を見る。数日前、遥が怪我を負った部屋――千代崎の寝室だ。鳴き声に導かれるまま駆け込んだ。


「遥! いるのか——え?」


 目の前の光景が信じられなかった。

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