第17夜 苦い珈琲

 寒さは依然厳しい。

 だが、峠は越えたはずだ。

 そう、半分ほど。

 珈琲をすする。

 まず湯気が鼻にまとわりつき、次いで香りが漂う。

 そして唇に熱が宿り、熱は舌を犯し、胃へと流れ込んでいく。

 悪くない。

 珈琲をインスピレーションの源と呼んだのは、ギリシア人だったか。

 今、口にしているモノとはきっと別物だろう。

 手元にある、苦くどす黒い液体は、絶望を溶かしたようなもっと混沌とした飲み物だ。

 でも、悪くはない。

 こんな寒い朝に、外気に当てられながら飲む飲み物が悪いはずがない。

 少なくとも、物理的に体を温めてくれる。

 優しいやつだよ。

 それに、ホントの絶望は、こんなもんじゃない。

 温かみもないし、なにより、珈琲はどんなにマズくても飲み終わればそれまでだが、絶望は消えやしない。

 俺の記憶は、親父がお袋を殴ってるところから始まっている。

 つまりは、物心ついた時から、絶望にこんにちはしたって訳。

 それ以来、俺の心は、いつも彷徨うことを止めない。

 俺は世間様に迷惑をかけたことは、まあ、そうだな、それ程はない。

 吐いて道路を汚したとか、煙草のポイ捨てとか、まあそんなもんだ。

 それは、自分の持てる精一杯の力で、絶望を押さえつけているから、だと思っている。

 その力も、年々衰えてきてはいるが。

 久しぶりの底辺の教えをひとつ。

 親父がお袋を殴っているのが初めての記憶になる世界に生まれ付いた子供は、結婚しないし、子供も作らない。

 なぜって?

 この世が地獄だと知って、最愛の人に見せたいと思うやつがいるか?

 そうだとしたら、そいつは愛を知らないし、愛について語る資格はない、少なくても俺はそう思う。

 だが、安心してくれ。

 愛が万能薬に近いことも確かだ。

 たださ、何事にも例外はある。

 万どころか、億とか、もっとすごく大きな数字の内のひとつだろうし、そうあって欲しいがね。

 珈琲が冷めてきた。

 その内、完全に冷めきって、何の価値もない、ただの苦い液体に変わっていく。

 すべては熱を失っていくが、淹れたての頃があったのは確かだし、それは俺の心を

ひと時暖めてくれたのも事実だ。

 それに感謝するよ、俺は。

 思い出すと、どうしても苦笑いになるが、レイリとの思い出はそんな感じなんだ。

 伝わったかな?

 彼女にはついぞ言えなかったし、この先言う事もない。

 言えないのは恥ずかしいからじゃない。

 もちろん、その気持ちも幾ばくかはあるよ。

 認めるさ。

 だけど、それ以上に、俺の持つ絶望を彼女に見せたくないんだ。

 俺の絶望に彼女を巻き込みたくない。

 彼女には、その笑顔に相応しい幸せを手にして欲しいんだ。

 

 分かってくれるかな?

 

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