第14話 よし野の危機

「……はあ」


 大きく口を開けて息を吐く。ぴりぴりとした冷たい空気に、彼女の吐息は白く膨らみ、やがて溶けていった。


「綺麗、だなあ……」


 できるだけ暖かな格好をして、と朝食の時に仲居に注意された。海辺は結構寒いのですからね、と。

 確かに寒かった。だが風が吹かないだけ、その頬を刺す様な冷たさも、一種心地よくよし野には感じられる。

 ホテルを出て、遊歩道を越えると海岸だった。夏なら海水浴客で賑わう浜辺だったが、さすがにこの季節、この時間には人っ子一人居ない。

 さらさらとした白い砂浜を越えると、ざくざくと湿った部分に足は踏み込む。

 ふと彼女の足が止まる。しゃがみ込む。


「あ、かわいー」


 朝の光を受けて、きらきらと輝く湿った砂の中に、幾つも幾つも貝殻が埋まっている。土仕事に慣れた彼女の指は、迷わずその中から、整った形、綺麗な色のものをつまみ上げた。

 手の中に一杯になった時に、彼女は立ち上がる。

 遠くから、小学校だろうか。登校時の音楽が流れてくる。


「けっきょく、来ないつもりかなあ……」


 ばぁか、と彼女は小さく悪態をつく。そして手の中の貝殻を見つめ、―――不意にそれを海に向かって放り出した。


「哲ちゃんの、ばかーっ」


 彼女は海に向かって叫ぶ。


「一緒にごはんしたかったぞー! 海を見たかったよー!」


 それだけじゃなく。

 さすがにそれは彼女の口から出ることはなかったが、思いは十分込められていた。


「せっかく、岩室先生に、お守りももらったのになあ……」


 コートの内ポケットから、小さな小さな折り紙の箱を取り出す。一つが親指の爪くらいのものを三つつなげて、ビーズまでつけられている。

 ふう、とため息をつくと、彼女はそれを再びしまった。

 そして携帯を取り出す。もう一度電話して、それでも出なかったら、帰ろう、と。

 ぴ。ナンバーを指定する。コール音が数回、耳に入る。

 ふとその時、きい、と車が近くに止まる音に、彼女は顔を上げた。どこかで見たことがある、と彼女は思った。だがそれが何処でなのか、彼女には思い出せない。車には基本的に興味が無いのだ。

 だが中から出てきた男の姿に、彼女は思わず携帯から耳を離した。男は遊歩道を越え、欠けたコンクリートの階段を下り、ざくざくと砂を踏みしめて近づいてくる。


「やあ」


 その声に、彼女は思わず堅くなった。


「……み ……溝口先生」


 見つかった!

 それだけで彼女の頭は一杯になる。そんな時間に彼がここに居るという矛盾に気付く余裕も無かった。

 ぽとん、と彼女の手から、携帯が落ちる。


「奇遇だな。何故今、君はそんなところに居るんだい?」


 ズボンのポケットに手を入れたまま、溝口はゆっくりとよし野に近づいて来る。彼は四年生の授業も担当している。


「さぼったのかい? いけない子だなあ」


 ぞく、と囁く様なその低い声は、よし野の背に悪寒を走らせる。端正だが、獲物を見付けたは虫類の様なその口元だけの笑みに、彼女は身動きできない自分に気付いた。

 そしてその手が、彼女の左の肩をぐっ、と掴む。


「おや、震えているじゃないか。寒いのかい?」

「い、いえ……」

「それとも、怖いのかな?」


 いや、と彼女は思いきり力を込めて、身体をよじった。

 その途端、溝口の手はコートの上を滑り、身体のバランスを崩す。うわ、と彼はよろけた。

 今だ、とよし野はホテルの方へと向かって走り出した。

 濡れた砂は靴に張り付く。乾いた砂は靴の中に入る。足が重い。気持ち悪い。だけど急がなくちゃ。

 彼女は階段を駆け上がる。重い足につまづきそうになりながら、駆け上がる。

 はあはあ、と上まで駆け上がり、遊歩道の柵に手を当てた時―――

 そこに、そっと触れる白い手が、あった。


「……?」


 見慣れた制服姿の少女が、そこには居た。綺麗な少女だ。上級生だ。

 だがどうしてここに居るのだろう? よし野は訳が分からなくなる。ただ、その先輩の少女の口元には、溝口と同じ笑みが浮かんでいる。

 そして彼女はぽん、とこう言った。


「ねえ、かたつむりのオスとメスの見分け方って知ってる?」


 唐突な言葉に、よし野の頭の回転は一瞬止まった。

 次の瞬間、少女はポケットからハンカチを取り出し、左手でよし野の頭を抱え込むと、右手で顔にそれを押しつけた。

 臭い、鼻が痛い、とよし野が思ったのは、一瞬だった。

 ぐったりとしてその場に崩れ落ちる彼女を、制服の少女は、手を貸すこともせず見下ろしていた。


「薄情だな、毬絵」

「あら、センセにそういうこと、言われるなんて、心外だわ」

「ふん、日の光の下だとお上品だな」


 そう言いながら溝口は、よし野の腰を抱える様にして持ち上げようとした。

 だが片手では無理だ、と思ったのか、一度その場に振り落とす。ぱさ、と遊歩道の砂が舞う。

 そして改めて両手を掴み、ピンクのアスファルトの上に背を下にして、ずるずると引きずりだした。


「やだ、結構センセ、非力だわね」

「俺は、あの筋肉馬鹿とは違うからな」

「……あら、それ何?」


 ああ、と胸ポケットからはみ出した携帯を彼女は指さす。


「さっき落としてた奴だ。ちょうど通話中だった」


 すると彼女は形の良い眉をくっと寄せた。


「何よそれ。ちゃんと切ったんでしょうね? そんなモノ、捨ててしまえば良かったのに」

「こういうのはメモリを確認してからの方がいいだろ。何か役立つものもあるかもしれないし」


 ずるずる、と引きずりながら、彼は続けた。


「まあそうだけど」

「文句言わず、お前も足くらい持て」

「あたしが?」


 ま、後でゆっくり料理したいしねえ、とつぶやくと、彼女はよし野の両足を掴み、持ち上げた。


「そういえば、この子、あの馬鹿に、昨夜してもらえなかったんでしょ? 結局」

「ふん?」

「ねえ、殺ってしまう前に、遊んじゃえば?」


 くくく、と彼女は長い髪を揺らせて笑った。


「好きでしょセンセ、そうゆうの」

「……そうだな…… それも悪くない」


 そしてまた、溝口も同じ笑いを浮かべた。



「聞いてたんだろ?」


 ああ、と中里は準備運動をする時の様に、身体のあちこちを伸び縮みさせる。


「俺の出来ないことを、出来なかったことを…… あいつは全部、引き受けてくれてたんだ…… それで俺は、のうのうと手を汚さずにいたんだな……奴のおかげで、生きてこれたのに」


 ほら、と替えのコーヒーを渡しながら岩室はつぶやく。

 そろそろ外では、運動部の朝練習の声が聞こえ始めている。生徒達も次第に校舎に入ってくるだろう。


「こんな平和な時間、奴には無かったのに」

「でも奴も、お前だぞ。もともとは奴もお前も、同じ人間だ。一つの人格なんだ。ただお前らは、それを無理矢理引き裂かれたんだよ」

「引き裂かれ……」


 あの、意識を無くした時に。小学校を卒業してすぐに向かった所で。


「我々も、それを何とかしようと、研究を続けてはいる。だがどうしても、お前らが最初に施された処置が判らないんだ。遅れてる。本当に遅れてるんだ」


 どん、と岩室は机を両手で叩く。積み重ねられていた折り紙細工の箱が、がさがさと崩れた。


「去年やっと、『R』の複製に成功した程度だ。お前らの人格を統合し、その力を元々の人間のものに戻すことができれば、……生きられる時間も、伸ばすことができるのに……」


 ぎ、と岩室は歯ぎしりをする。握りしめた両の拳が、ぶるぶると震えていた。

 その時、ぴぴぴぴぴ、と電子音が鳴った。

 自分にだ、と中里は机にカップを置き、携帯の着信ボタンを押す。


「……もしもし?」


 中里は思わず眉を寄せた。何だこれは。ぼうぼう、と妙な音が入ってくるばかりで、誰かの声が聞こえるという訳でも無い。

 いや―――

 彼はぐっ、と耳を携帯に押しつける。

 遠くで、声がする。


『……遇だな。何故……、……んなとこ………… 居る…… か……?」


 風に混じって、男の声が聞こえた。


『さ………… たのかい? いけ…… い子だ……」


 何処かで自分はこの声を聞いたことがある、と中里は思った。


「どうした?」


 様子の変わった彼を、岩室は不審気に見る。中里は黙って携帯を渡した。ぐっと耳に押しつけると、彼女の眼鏡の下の目が、細くなる。


「……これは……」


 ぱっ、と携帯を中里に戻すと、彼女は自分の携帯を取り出し、慌てて誰かを呼びだした。


「……そう私。……え?」


 声が跳ね上がる。中里は自分の方の通信が切れるのを感じながら、岩室の表情が変化していくのに気付いた。


「……判った。じゃあ、途中で。よろしく」


 ぴ、と彼女は通話を切る。そして白衣の上に、大きなコートをかぶり、行くぞ、と中里に鋭い声を放った。


「行くって、……」

「羽根が奴らに捕まった」


 え、と中里は息を飲み込んだ。


「……うちのダンナと途中で合流する」


 そう言いながら既に彼女は、内側の扉に「本日遅刻」の札を下げ、鍵を掛けた。


「後は車の中で説明する。急げ、中里!」


 判った、と中里は大きくうなづき、外側の扉から飛び出した。

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