第13話 「何で花壇を踏まなかった?」

 「彼」は思わず胸を押さえた。


「それで……あんたは? いやあんたらは『R』のオレをどうしようっていうんだ? ……さっきあんたが撃ったのは何だ? 麻酔か何かだろ? その時オレを殺してしまえば、良かったんじゃないか?」

「間違えるな。お前は死にたいのか? 中里じゃない、お前」


 ぐっ、と「彼」は言葉を飲み込んだ。


「我々は『R』や『B』を消したい訳じゃない。その役割から解放させたいだけなんだ」

「は! そんなこと、できるのかよ」


 「彼」は大きく手を広げ、首を振った。


「少なくとも、お前を抑え込むことはできるさ。……これは、何だと思う?」


 彼女は白衣のポケットから、見覚えのある、赤い小瓶を取り出した。


「何で、それを……」

「我々でも、この程度は、複製することができた。つまり、お前を抑え込むことはできるんだよ。人殺しのできる人格の方、は」

「でも!」


 「彼」は毛布を掴み、ぐい、と上半身を大きく乗り出す。


「あんたはしなかったじゃないか――― 何で? 何で、オレをまた覚まさせたんだよ? 何で?」


 堰を切った様に、「彼」の口から言葉があふれ出した。

 岩室は一歩、「彼」に近づくと、腰をかがめた。上目づかいの視線が、「彼」とぶつかる。

 彼女は口を開いた。

 そしてゆっくりと、低く、だけどはっきりと、「彼」に向けて話しかけた。


「私は聞いてみたかったんだよ、お前に」

「オレに?」


 中里ではなく。


「そう、お前にだ。何でお前、花壇を踏まなかった?」


 ぱりん、と分厚いマグカップが割れた。

 手の中から、コーヒーと血が混じって、クリーム色の毛布にぽたぽたと染みを作った。


「そして今も、そうだ」


 ゆっくりと、骨張った太い指に絡み付く、コーヒーと血を拭き取りながら、彼女は問いかける。


「お前だったら、今この時にも、逆に私を殴り殺して逃げるくらい簡単だろう。なのにお前は、何故それをしない?」


 がちゃ、と膝に乗せられたかけらが音を立てる。


「何でって……」


 接近する白衣。眼鏡の下の目は、まっすぐ「彼」を見据えた。


「お前はいい奴だな。私の知っている、『もう一人』の中では一番いい奴だ」


 そうじゃない、と「彼」は小さくつぶやく。「彼」はそんな言葉が欲しい訳ではないのだ。


「だからこそ、できるだけ、生きて欲しいんだ。……我々は……私は……ただ、お前達を、自由にしてやりたいんだ」

「自由……オレ達、……って? オレと、こいつか?」

「それだけじゃない」


 彼女はきっぱりと言い放ち、ゆっくりと身体を離させた。


「お前と、中里と――― よし野とその母親」


 ―――何故!!


 それまでフレームの内側で様子をうかがっていた中里が、叫んだ。う、と「彼」は唐突な内部からの衝撃に顔をしかめる。


「ターゲットの家族もまた、別働隊によって拉致される。『ターゲットを育ててしまったから』という理由でな。その行く先に関してはまだ把握できていないが、そう、お前達が、自分の家族を失ったように。おい中里、聞いてるか? よし野の母上も、狙われているんだぞ!」


 そんな! と「彼」の中で中里が叫ぶ。

 身体の主導権を握ることができない悔しさが、「彼」の中にも広がってくる。


「だが心配するな。母上は、うちのダンナが保護している。昨日の朝から、拉致隊に先回りしてな」


 ほっとする中里に「彼」も安心する。中里の不安は、「彼」にとっても決して気持ち良いものではないのだろう。


「ぬかりないんだな、あんたらは」

「草の根レジスタンスというものはそういうものだ。それに、お前の知らない『B』やインスペクターについても」


 知ってるのか、と二人が同時に問いかけた。

 岩室はうなづく。そして何とか滑り落ちずにいた折り紙細工の箱をつまみ上げる。


「よし野に昨日、この小さい奴を『お守り』ってことで渡しておいた」


 あああの時か、と中里は思い出す。


「そしてもう一つ。見栄えだけはいい安物のチョコレート。この二つにつけておいたのさ。発信器を」


 岩室はにやり、と笑う。見栄えはいいが、安物の……義理チョコ。


「英語の溝口が、お前らのインスペクターだ。それに奴のお気に入りの女生徒が居たな? そのくらいは覚えているだろう? お前らでも!」

「……ああ…… あの、優等生の……」


 透明な声をした。

 そう言えば、と中里は一つの光景を思い出す。たしかあの女は、授業中、溝口に何かをこっそり渡していた。


「全く、色んなチームがあるものだ。うちのダンナが初めて出会った連中は、好き合っていた『R』と『B』がインスペクターを殺して逃走したらしいよ」


 そんな所もあるのか、と中里は今更の様に思う。本当に、自分は何も知ろうとしていなかったのだ。だがそれは「彼」も同様だった。苦い思いが、二つの意識の中に広がる。

 不意に岩室は「彼」に問いかけた。


「なあ、お前はあの時、私の名を呼んだな?」


 花壇を踏み荒そうとした時。荒そうとして、荒らせなかった時。そう、あの時足を止めたのは、中里ではなかった。「彼」自身だった。

 どうしても、踏めなかった。踏めなかったのだ。

 何故なら。

 「彼」はいつの間にか自分の目から、だらだらと熱く、涙がこぼれ落ちるのを感じていた。

 どうしてなのか、判らない。だがどうしても、止まらない。

 うっうっ、と喉の奥から出る声と共に、うつむいた顔が、肩が、何度も上下する。

 そして、絞り出す様な声で、彼は、告げた。


「……あんたが、……好きなんだ」


 岩室は息を呑む。


「……アイツがあの女のことを好きになるずっと前から、オレはあんたを見てた。あんたと直に、話をしたかった。だけどこいつには―――普段のこいつには、オレの言葉なんか、聞こえやしない。そうなってんだ。そうゆうふうに、なってるんだ。なあ、あんた、何で、こいつに、優しくしてくれたんだ? 放っておいてくれれば、良かったのに」

「放っておけるか」


 まくし立てる「彼」に、ぴしり、と彼女は言った。


「誰も好きで『R』になった訳じゃあない。私の友人もそうだった。……お前は、お前らは、この先も、生きたいんだろ?」

「生きたい」


 地の底から響く様な声で、「彼」はつぶやき、岩室の両手を強く掴んだ。


「もう時間が少ないのは知ってる。だから、その短い時間を、できるだけ、オレは、……あんたを見ていたかった。そのためだったら――― この学校に、居られるのだったら――― あの女なんか、オレには、どうでもイイんだ」


 そして不意に、顔を上げた。


「なあ、どうして、それじゃ、駄目なんだよ!」


 ぱくぱく、と「彼」の口が動く。

 指に力がこもる。だが痛みをもたらすだろうその強さに、岩室は声を立てることはしなかった。


「……なあ…… どうして……」


 「彼」はぎっ、と歯を食いしばる。

 判っては、いるのだ。

 そう、判っている。だってこのひとには、大好きな大好きなダンナが居る。

 いつも中里の奥で、「彼」はこの口調で、だけど明らかにのろけと判る言葉を聞かされてきた。

 知ってる。判ってる。自分が、自分だけが好きでも、どうにもならない。

 奪ってしまえば?

 そんな考えを起こしたことも無くはない。

 一年に一度、自分は解き放たれる。その時、中里の気持ちを無視して、強引に彼女の「最愛のダンナ」を殺して、奪ってしまうこともできたかもしれない。

 だがそうしたら。

 「彼」はあいにく、中里よりずっと察しが良かった。

 きっと自分が大好きな、あのさばさばとした、明るい、身も蓋もないくらいの言葉も表情も、そこで永遠に自分は失ってしまうだろう。

 それだけは、嫌だった。それを失うくらいだったら。


「すまん」


 岩室はゆっくりと「彼」の手を離させた。

 そして今度は彼女の方から、「彼」の背をぐっと抱きしめる。


「私はお前には何もしてやれない。中里に対してなら、できることは少しはある。ほんの少しだが、それでも確実に、ある。だが今の私には、我々には、お前には、何もできないんだ」


 腕に込められた力が強くなるのを、「彼」は感じた。


「でも一つだけ言える。私は、お前と話せて良かった」


 身体機能を上げ、その代わりにその寿命を縮めてしまう、その最初の処置。それは単に「凶暴な性格」を引き出すだけのものではないのだ。「彼」の存在は、それを岩室に伝えていた。


「我々は、一刻も早くお前を、お前の様な奴を元に戻す方法を、見付けたい。だけど今のお前には、どうしても、間に合わない。……すまない」

「……もういいよ」

 

 「彼」は岩室をそっと押し戻す。


「岩室さん、オレに『R』をくれ。……あんたは―――あんたが、あの親子を助けたいんだろ」


 喉の奥の奥から、絞り出す様な声だった。震えて、今にも、かすれて消えてしまいそうな声だった。


「……お前」

「だったらそれは、あいつに任せる。オレはあの女のために動く気は無い。あの女のために動くのだったら、あいつのほうがいい。どれだけ気が弱かろうが、度胸が無かろうが―――それは、あいつの役目だ」

「……なあ、お前は、よし野のことは、嫌いか?」


 「彼」は軽く目を伏せ、首を横に振った。


「岩室さん、……嫌いとかそういうのじゃないよ。ただオレは、あんたが、好きなんだ―――それだけだ。……それだけなんだよ」


 そうか、とつぶやき、彼女は小さくうなづいた。

 そして眼鏡を外すと、「R」を一粒口に含む。

 ベッドの両脇に手をつくと、彼女は「彼」の頬を両手でくるんだ。


「すまない―――ありがとう」


 最初で最後だ、と「彼」は目を閉じた。

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