三章  常世の境界

 クソ、クソ、クソ…。

 あの野郎、各務かがみ乙哉おとや…あの野郎…俺を馬鹿にしやがって。

 全部あいつが悪いんじゃねぇか、あいつが出来損ないのくせにしゃしゃり出てくるのが悪いんじゃねぇか。御三家ごさんけ全部に見捨てられてる妾腹めかけばらの出来損ないが…あいつがいつもこれみよがしに見せびらかしてる眼帯も腹が立つ。あの下がどうなってんのか知らないが、あれが奴の弱点なら剥ぎ取って全員の前に晒してやりたい。全員と言えばそうだクラスのやつら、俺を助けにも来やがらなかった。クソ、それにも腹が立つ。全員無能で無知なクソ馬鹿のくせに。古賀だとかって奴も、俺を助け起こしもせずに無視しやがった。いや、そもそもあんなよわっちぃ奴の横やりなんかいらなかったんだ、余計なことして邪魔しやがって、どいつもこいつも腹が立つ、あぁ、クソ、クソ…。


 園部崇ははらわたが煮え繰り返る怒りに肩を震わせた。

 数学の授業の内容など全く耳に入ってこない。


 園部は神籬町ひもろぎちょうでそこそこ裕福な家庭で育った。一人っ子だったことと、なかなか我が子に恵まれなかった両親の待望の子供だったこともあり、欲しがった物はなんでも与えられ、やりすぎなほど手をかけ、甘やかされて育った。

 小学校時代は園部の天下だった。運動も勉強も得意で体格にも恵まれていた。気に食わない事があると力で物を言わせ、傍若無人に振る舞う園部に逆らう子供はいなかった。園部の指図で思うように動く同級生や下級生を見ると快感で仕方がなかったが、傍目はためにはリーダーシップを取りクラスを牽引しているように振る舞う園部のことを、周囲の大人達は皆褒めそやした。大人の目を欺くことの優越感は、自分が他よりも秀でた存在であるのだという、園部の仄暗い悦びを充たした。


 ところが中学に入学した途端、園部の地位はあっという間に転落した。

 同じクラスには、顔にやたらでかい眼帯をつけ、ほそっこいくせに妙に強気な態度のチビがいた。イケメンだと他クラスの女子にまで騒がれ注目を浴びながら、好奇心でまとわりつく者達をうるさそうにあしらう姿は、園部の癪に障った。

 そのうえ当初から休みがちであり、必死さやひたむきさなどとは無縁な振る舞いでありながら、乙哉は学業面やあらゆる分野において、園部より遙かに優秀だった。憎々しく思いながらも、喧嘩にやたら強いとの噂もあり、進級しクラスが別々になるまでの間、結局手は出せなかった。


 そもそも『各務かがみ』の名を一度も耳にしたことがない者など神籬町にはいない。園部の家族もまた、年の節目には御三家各家の社殿に参拝と寄進を欠かさなかった。


 次代の後継はまず間違いなく兄だろうと目されており、当代の不義の子であり問題児だとの評判の向きが強かった乙哉だが、園部と同じクラスになった時、両親は縁があると言いむしろ喜んだ。その喜びようは、昔息子に人より少しだけ優れた霊感が備わっていることがわかった時、すごいすごいと褒め称えたことなど忘れたようだった。各務乙哉の下に下ったようで我慢ならず、毎年家族に連れられ行っていた参拝には強く拒否して行かなくなった。


 そんなある日、家にドブネズミが出た。昔から畑作や稲作が盛んなこの土地では珍しくなく、鼠は穀物を狙う害獣として扱われていた。どうやら倉庫の屋根裏に巣があったらしく、家族は慌てた。鼠は繁殖力が強く、放っておくと何匹にも増えてしまうのだという。


 檻に捕らえた数匹を倉庫で眺めているうちに、園部は段々この鼠たちが自分と同じであるかのような錯覚に囚われた。大きさ以外、顔かたちの判別もつかない個。集団の中で見向きもされない多数の中の、ほんの一匹。


 形容できない激しい感情に襲われた園部は、鼠の詰まった檻を思い切り蹴り飛ばした。


 そして今、あの時と同じドス黒い気持ちが胸中を渦巻いている。周囲に対する怒りのなにもかもが、園部の中で徐々にひとつの人型をとり集約されていく。


 絶対に許さねぇ、各務乙哉…。



―――その時、ふいに甘い匂いが鼻をかすめた。


 その匂いに気づいた途端、目の前を真っ赤に染めていた激昂が突如するするとほどけるように融解し、鎮静化されていく。


 何事かと思わず顔を上げた園部の耳の奥で、心臓がドクリと嫌な音を立ててひとつ鳴った。鼓動は次第に強く大きくなり、全身から響き渡り始める。唇が渇き、指先が痺れたように動かない。


 驚く園部の瞳孔は徐々に小さく縮んでいく。


 視界が暗いと感じたのを最後に、ふわふわした白いもやに意識を包まれていき―――




 

 ガタンと、自分が席に手をつき立ち上がったことにも、そのままふらふらと教室の外に向かい歩き出したことにも、驚く教室中の視線にも、園部自身が気がつくことはなかった。


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ひもろぎ町の守護者 真秀 @maho0807

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