7

 土日もあたえから連絡がなく、月曜日、学校に行くのが憂鬱だった。もし来ているなら会いたいけれど、来てなかったときの胸の痛みにきょうは耐えられる気がしない。ひとりぼっちの布団とか、あたえがいないときの喪失感がカラカラと鳴るのが心地よいと思えるほどぼくはまだ成熟していなかった。


 その日、家に帰り、すぐ布団に入った。あたえに会えないストレスで気が狂いそうだった。あたえの顔が見たい。あたえに触れたい。キスがしたい。体を慰めてほしい。方向性を見失った愛情は狂い、もはや暴力でしかない。


 ぼくは性器を擦った。


「あたえ」


 ぼくの手はあたえの手ではない。ひとりであたえを想ってすることは避けていたのにもう止められなかった。名前を呼びながら早く手を動かした。


 呟くたびに、大事なものが粒となって落ちていくような気がした。こんなことをしても虚しくなるだけだ。いつもしたあと寂しくないのはあたえがいるからなのに。


 胸が苦しい。感情に体が締め付けられるなんてことを知らなかった。


 じぶんの手の中に射精し、このまま死ぬんじゃないかという寂寞が胸を焼いて穴を開けた。


 ティッシュで手を拭き、そのまま手を洗いに廊下に出た。


 ぼくらは、世界にふたりきりだけではない。そんな当然のことを急に寂しく思った。


 電車に乗り、学校へ向かう途中、辺りを見渡した。だけどどこにもあたえの影はない。胸の中が少し焼けて、額に汗が沸く。学校が見えてくると校門のところにあたえが寄りかかって立っていた。あまりの嬉しさに大声で名前を呼んで駆け寄りたくなった。ぼくは少しだけ早歩きで近寄った。ぼくを見つけたあたえは手を振った。少し、顔がやつれたように見える。


「宝良、ごめん」


「いや。大丈夫か?」


 あたえは目の下に隈をつくり、微笑んだ。


「大丈夫」


 嘘だなと思う。笑顔がいつもより力がなかった。


「風邪?」


 ぼくがそう訊ねるとあたえは「そんなとこ」と言った。


 十代は約八割がスマートフォンを持っているらしい。会えない時間、電話やテキストをやりとりすることで繋がっているという安心感をあたえに対して持ちたくなかった。彼の場合は祖父母が持たせないようにしているのかもしれないが、ぼくはあまり必要性を感じなかった。だけど、こういう不安なときあるとあったほうがいいのではないかと少し考えていた。


 あたえはいつも通りにぼくに対して振る舞った。各授業の間にある十分休憩のときはぼくの席に来て、先週休んだ分のノートをぼくの席の前に屈んで映していた。何度も質問してきて、ぼくはひとつひとつ答えた。十分で映しきれず、貸してやった。昼休み、あたえは彼の祖母がつくった弁当をいつも完食しているのに半分以上残していた。


「まだ悪いの?」


「ちょっと食欲戻んないな」


 そういって、後ろに凭れ、虚ろな目をしていた。よっぽど悪かったのかとそのときは思っていた。


 その状態は火曜も水曜も続いた。日に日に悪くなっていったので、病院に行ったのかと訊いた。


「行ってない」


 はっきりあたえはそう返した。


「行って看てもらった方がいいな」


 ぼくがそう言うとあたえは口を結んだ。


 帰り道の電車の中、あたえは「ウチに来てほしい」とぼくに行った。


「いいの? 体調悪いんだろ」


 数秒、心もとない顔でぼくのことを見ていた。


「きいて欲しいことがある。宝良に」


 あたえの瞳に宿る光の奥にある闇のトンネルの存在が少し見えた気がした。ぼくは唾を飲んだ。何か嫌な予感しか、感じなかった。だけどそこに招待されているのはぼくだけだ。


「わかった」


 大丈夫だろう。ぼくの愛はそんなにすぐ死なない気がした。どんな人間であってもあたえを好きでいたい。そう思ってもやはりぼくが望むあたえじゃなかったら、それでも好きだと思えるんだろうか。


 電車を降りると駅前はまったく盛っておらず、コンビニエンスストアが一軒あるくらいだった。


「風邪じゃなかったんだ」


 突然の嘘に別に驚きもしなかった。あたえがゆっくり歩くのについていく。行動を共にしていた所為か、最近ぼくもゆっくり歩くようになった気がする。


「母親の」


 あたえが小さく言って、少し声を詰まらせた後、


「母親のところにいた」


 とはっきり言った。


「え?」


 振り返り、ぼくの顔を見て、笑う。少しだけ、いつものあたえになった。


「なんだその顔。死んだなんてひとことも言ってないだろ」


 そんなことを言われても、いないと言っていたのはあたえのほうだ。


「じいちゃんとばあちゃんは母がぼくを連れ去ったんだと思ってたみたいで、すごく怒ってた。嫌いなんだ。じぶんの子どもなのに」


「なんで」


「あとでゆっくり話すよ」


 一年以上、一緒にいたのにあたえは初めて母親のことを話した。ぼくは、平凡で、何の問題も事件も抱えていない家庭で育ったから隠すことなんてひとつもなく、あらゆることをあたえに話していた。毎週末のようにぼくの家に泊まりにきて、あたえはどんなことを考えていたんだろう。


 しばらく田んぼの道が続いた。舗装されていない道だが、ところどころに家が建っていた。奥のほうまで行くと大きな庭に囲まれた平屋があってそこにあたえが入っていった。ぼくが思うより敷地面積は広く、丈夫そうな家だった。


「立派な家だな」


「ありがとう」


 石畳みを踏み、戸を開いて玄関に入った。


 線香や墨みたいな懐かしい匂いがこみあげてきた。あたえは不思議なくらい、この家の匂いがしない。


「おじいさんとおばあさんは?」


「よく遊びに行ってていないんだ」


「そうか。アクティブだな。おじゃまします」


 どこもかしこも模範的に清掃されていた。あたえは、一番奥の部屋に進み、部屋の中にぼくを入れるとすぐに鍵を閉めた。


「増築したんだ。だから、ここだけ洋室なの」


「へぇ」


 思ったよりもものがたくさんあった。プラモデルや、ラジコンやアニメの絵が描かれたものがたくさん飾ってある。本棚にもびっしりと本が詰まっていた。


「ベッド、座りなよ」


「ありがとう」


 ぼくがいろんなものを凝視していると「良かれと思ってじいちゃんとばあちゃんがくれるんだよね」と恥ずかしそうに言った。


「親から引き離したからなんか、ちゃんと育てないとって思ったんだろう」


 あたえは机の一番下の引きだしを開け、VHSやDVDや雑誌を取り出し、積み上げていった。目をやると成人向けのもののようだった。


 それらを抱えてあたえがベッドの上に置いた。


「見ろよ」


 ぼくは背に汗をかいた。あたえがそんなものに興味があるということがやはりショックだった。こういうものを持っていないほうが不健全だと言われるが、ぼくからしてみるとやはり嫌な感じがするものだ。


「いいよ」


 ぼくは目をそらして、名前も知らないプラモデルを見た。


「見て。母親なんだ」


「え?」


 ぼくはあたえの顔を見た。唇に薄笑みを浮かべていた。なにを言っているのか、よくわからない。


「むかしは、一緒に住んでたんだ。飯食うときとか、観させられてたの。これがアタシの仕事だよって。だから、母親ってみんなこういうことしてるんだって思ってた。まだ、幼稚園とかだったんだけど」


 悪い夢を見ている気がする。でも、話しているあたえも顔色が悪く、すぐに気を失いそうな目をしていた。


「部屋なんていつも汚くてさ、母親が男連れておれの前でヤるのも見た。母親、高校のとき家出したらしいから、じいちゃんもばあちゃんも何の仕事してるとか知らなかったみたい。どこからか訊きつけて、引き離されたわけ。小学生のときだったかな」


 ベッドの上に置かれているDVDに書いてある「人妻」という文字が歪む。


「ずっと、体売ったり、えーぶい女優やってるんだよね。今はもう熟女ものばっかなんだってさ。四十代なんだけど」


 ぼくはあたえの顔を手で覆った。見るのが辛かったから。そのまま体をくっつけて後ろに手を回した。喋るな。ぼくの世界が崩れる音が聞こえた。あたえの見ていた世界はぼくがまったく触れあえない世界だ。


「もういいよ、あたえ」


「おれ、父親が誰かわからないんだよ。できちゃったの。調べればわかるけど、調べたことないんだって。身に覚えがありすぎるし、言ったところでどうせ誰も責任取らないからって。望まれて生まれてないの。おれが腹の中にいるときも、母親は」


「もういいから」


 何も喋るな。何も、聞きたくない。


「母親がこの前、ぼくを襲おうとしたんだ。お前も、もうできるんだろって」


「もういいから」


 叫んだぼくの声は震えていた。ぼくの胸の中が湿っていく。


 何もよくないはずだ。ぼくは逃げちゃいけない。


「きみはどうしてぼくじゃないんだろう」


 ずっと思っていてばかみたいだと思って言えなかったことをつい、口にしてしまった。きみがぼくならこんな辛い想いをしなくて済んだはずだ。


「ぼくは、どうしてきみじゃないんだろう」


 ひととして出来損ないみたいなぼくは、いっそ君ならよかった。ぼくらがひとつならよかった。


「ぼくは別にきみになりたいと思わないよ」


 あたえは突き放すようにそう言った。そんなことを言うきみは、どうしてぼくじゃないんだろう。


「ぼくは、じぶんの持たされた重みで納得してるから」


 幼稚なことを考えているぼくと比べたらあたえはずっと達観している。


「こんなぼくでも、きみは好きでいくれるの?」


「もちろん」


 即答したが、あたえは強い力でぼくの体から離れた。


「嘘つき」


 いつもの顔で笑った。いらない、と言われたようなそんな気分だった。


「嘘じゃないよ」


「そうか。もう、帰れ」


 あたえはぼくに背を向けて座った。


「ひとりにさせてくれ」


 あたえは肩を震わせ泣いていた。こういうとき、あたえの言う通りにするのが一番だったのか。わからない。


 彼の言うことに従い、部屋を出た。玄関に向かう間、彼の祖母にも祖父にも会わなかったことを少し安心していた。


 家を出ると夕陽が目を攻撃してきた。薄目で駅を目指すが、わかりづらい道なので方向がわからなくなった。適当に歩いたが、駅がわからなかった。何分かかろうとも別に構わなかった。隣の駅なのに用がないので一度も来たことがないので土地勘はまるでなかった。たった数キロの距離なのにこんなにも複雑で、わからない。



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