第2話

 僕と剣崎さんが話をしているのは、千葉県船橋市にある中山競馬場だ。

 日本中央競馬会J R Aが管理運営していて、中央競馬のレースが開催される。皐月賞や有馬記念といった大レースが実施されることでも有名だ。

 コースは芝コース、ダートコース、障害コースがあり、最初の二つは陸上のトラックに似たような形をしている。厳密に言えば、芝コースは外回りもあるので微妙に違うが、トラック状のコースをくるりと回って、馬がレースをおこなうことには変わりはない。

 僕は家が近いこともあって、この競馬場にはしょっちゅう来ている。

 ほぼ二ヶ月、週末通いどおしだったこともあり、お金のない時には、無料の販売機でお茶を飲み、安いパンをかじりながら馬券を買っていた。

「中山はいいですよね」

 剣崎さんがぽつりと言った。視界の先にはコーヒースタンドがある。

「あまり大きくなくて。東京競馬場は施設としては素晴らしいのですが、広すぎて、どこに何があるのかわかりません。牛丼一つ、食べるにもスタンドの端まで行って、エスカレーターを降りなければならないのは面倒です。その点、中山ならちょっとふらつけば、食べ物屋にぶつかります。便利です」

「そ、そうですね」

「コースもコンパクトなので、レース観戦にも向いています。直線、急坂を登る馬群は迫力です」

 確かに、坂の下から、浮かびあがるようにして駆け登る姿には見応えがある。あの情景が見たくて、僕も1コーナー側に行って、ゴール方向を見ることもある。

「スタンドは建て直してからずいぶん経つので導線には問題がありますが、よい競馬場ですね。私は大好きです」

 剣崎さんの声はわずかながら高くなっていた。頬も赤くなっているように見える。

 少し驚いて、僕がその横顔を見ていると、剣崎さんは速歩で前に出た。

「ちょっと喋りすぎました。パドックへ行きましょう」

 パドックは下見所とも呼ばれ、レースを走る前に馬を見せ、お客さんに状態を確認してもらう場所である。陸上のトラックを思いきり小さくしたような形で、人に引かれて馬はゆっくりとそこを周回する。

 おそらく競馬がはじまった当初は、馬主が自分の馬をひけらかす場所だったのだろう。ほら、俺の馬、すごいだろうと。実際、今でもその気配は残っている。

 重い引き戸をあけて外に出ると、人の壁が広がる。パドックはその先だ。

 僕たちが到着した時には、出走する馬がすでに姿を見せていた。

 16頭で、今日デビューする馬もいれば、もう七回も走っている馬もいる。

 体型もまちまちで、ほっそりしていて、これで大丈夫かとも思える馬もいた。

 人の合間を縫って最前列に出ると、剣崎さんは周回する馬に視線を送った。

 別に気合いを入れる様子はなく、ごく自然に眺めているといった感じだ。馬が周回を繰り返しても、それは変わらない。

 僕は気になった。

 これから大勝負がはじまるのだから、ちゃんと見て欲しい。

「あの、そんなふうに見ていて、馬の調子がわかるんですか」

「なんとなくは」

「なんとなくじゃ困るんですけれど」

「大丈夫ですよ。ちゃんと三好さんには勝ってもらいますから」

 剣崎さんはショルダーバッグからメモを取りだすと、何か書き込んだ。

「行きましょう。もうパドックは見なくてもいいです」

「えっ、どこへ」

「自動券売機です。馬券を買わないと」

「このレースを買うんですか」

「そうですよ」

 淡々と応じながら、剣崎さんは先に立ってパドックを離れようとした。あわてて僕は追いかけて尋ねる。

「どの馬ですか?」

「七番です。メクネマーション。今日、デビューの牝馬。単勝で行きます」

「え、でも、あの馬、単勝は20倍ぐらいついていましたよ。他に強い馬もいますし、むずかしいんじゃないですか」

「ねらいは150万でしょう」

 いきなり剣崎さんが足を止めたので、僕はその背中にぶつかりそうになった。さっと横によけたところで、丸い瞳がこちらに向いた。

「まともな手段では無理です。予算が十分ならばともかく、びっくりするぐらい少ないのですから」

 今回の予算は10万だ。それ以上は絶対に投入できない。少ないのはわかっているが、どうにもならない。

 10万円を何としても150万円にする。それが今日の目標だ。

「まずは元手を増やしましょう。すべてはそこからです」

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