長い夕暮れ

らきむぼん

長い夕暮れ


『長い夕暮れ』

作 墓無火凛



 酷く疲れていた。腕や脚には無数の浅い傷が残り、小汚い衣服はあちこちが解れており、穴も空いている。何より、空腹で眩暈がしていた。喉は乾いていない。先程、獣道を抜けた先の小川でたらふく水を飲んだからだ。お陰で腹はみっともなく膨れ上がっている。歩く度にたぷんと体内の水が波打った。

 俺は小川に架かった今にも崩れ落ちそうな橋を渡り、その先に小さな古小屋を見つけた。誰か人がいるかもしれない。食べられそうな物があればいいのだが。

 小屋はほぼ廃墟同然だった。天井は其処ら中が崩落している。床はなく、外と地続きだ。柱と薄い壁で構成されている。残念ながら人はおらず、空腹が満たされることもなさそうだった。

 此処は何処だろう。小屋を出た俺は背の高い木々に囲まれた道を進んだ。先程よりも道は歩き易くなっている。確実に人がいる。しかし、辺りは全くの静寂であった。

 俺にはこんな場所に見覚えはない。そもそも、記憶がない。目が醒めると草と木に囲まれ。土に塗れていた。おそらく、急な傾斜に足を取られ、山道を滑落したと思われた。まずこの場所が山なのかも判然としなかったが、俺には自分が誰で、何をする為にこの樹海に足を踏み入れたのかも判らない。

 体の傷や服装を見る限り、かなりの時間此処を彷徨っていたらしい。だが、異常なのはこの空腹だ。まさか何も食糧を持たずにこの樹海を歩いていたのだろうか。俺は貧しい村からやってきたのかもしれない。大きな村から来たのであれば、まだましな装備をしていることだろう。今は何処も彼処も長い飢饉だし、生き残った人間もそういるとは思えない。だが、大きな村の住人がどんな事情があってもこんな樹海を彷徨う羽目になることがないことは記憶のない俺にも判る。

 道を進むと、開けた場所に出た。陽光が眼球を焼くように眩しい。其処には疎らに住居と思われる木造の小屋が連なっている。増築を重ねて連なった小屋同士が複合的に一つの島となって広い平原に散立していた。その先には、驚くべきことに、コンクリートのような粘土や石の壁を使った二階建ての建築物が幾つも幾つも集合していた。それはまるで「街」のようである。旧時代の廃墟を改築したのだろうか、それにしてももうこの規模の建造物はほぼ残っていないだろう。

 一体此処はなんだ。こんな山奥のような場所に、人が住んでいるのか。俺は奇妙なことに気付いていた。此処には人がいない。平原には人が一切見られず、遠くに並ぶ廃墟街にも人がいるようには見えない。街から出る人もおらず、平原の小屋からも人は出てこない。

 俺は一番近い木造建築の島を覗いてみることにした。近くに寄っていくと、何やら獣のような悪臭と叫びのような鳴声が小屋の中から漏れ聞こえる。俺は気配を殺し、慎重に小屋の裏手に回った。そして、ふとその悪臭と鳴声の正体に思い至った。高い声と低い声とが唸る様に小屋から響き漏れていた。これは人間の声だ。人間の男女の声である。

 俺はこの小屋に興味を持ち始めていた。壁の何処かに隙間がないか探っていると、丁度目線の高さに僅かな木目の切れ目を見つけた。壁に額を押し付け、俺はその隙間から小屋の中を覗き見た。

 それはあまりに異常な光景だった。暗がりの中に簡易的な柵で囲まれた幾つもの区画がある。その中に全裸の人間が数人押し込められていた。人間達は柵に結ばれた縄で胴体を縛られており、動きが制限されている。其処で人間達は性行為に及んでいるのだ。

 俺は腹の辺りが締め付けられるようにぎゅるると音を上げていることに気付いた。小屋の中の異常な行為は奇怪そのもので、気味の悪さを感じるが、どうも空腹であることはどうやっても誤魔化せないようだ。

 その後、俺は他の島の建造物も五つ程見て回ったが、何処も同じように区画で分けられた汚穢に塗れた部屋で男女が性行為に及んでいた。いや、無理矢理にそれをさせられているようだ。一体誰に、何故。疑問は尽きないが、俺にはなんとなくそれをさせている者達が何処にいるのか察しがついていた。あの人がいる気配の感じない廃墟街に、彼らは恐らく潜んでいるのだろう。

 俄然、俺はこの奇妙な「街」に対して強烈な好奇心を抱いていた。小屋の島の陰に身を隠しながら、俺は廃墟街に向かっていく。街に近付いてくると、小屋の規模が段々と大きくなっていることに気が付いた。そして悪臭や人間の鳴き声も感じない。奇妙に思い、俺は一際大きい建造物の、目線よりも少し高い位置にある壁の切れ目から、背伸びをして中を覗き見た。其処は何かの保存用の倉庫のような造りをしていた。そして俺はそれが何か気付き、目を見開く。眼が醒めるような気がした。途端に耐え難い空腹が襲って来る。

 表に回り込み、扉を引き開ける。気配を殺している余裕はなかった。ただ、その倉庫の中の物を手に入れることしか考えていなかった。

 其処は食糧の倉庫だった。部屋の中は暗かったが、香りで判る。肉だ。肉がある。

 それは干した保存食としての肉だったが、俺にとっては耐え難い誘惑だった。小さな切れ端のような干し肉を一つ手に取って口へと運ぶ。繊維の多い硬い肉だったが噛み切れなくはない。何十回と口の中で噛んでいくと、やがて唾液が溢れるように口内を満たした。

 肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。

 無心に食らいついた。肉からベトベトとした油がじんわりと染み出す。それが喉に絡みつき、何度も吐き出してしまった。しかしそれでも食欲は収まらない。あまりに夢中になり過ぎて、俺は重要なことに気が付いていなかった。俺は、何か悍ましい者に囲まれていたのだ。奴らは俺が侵入した小屋の周囲を数人で囲んでいるようだ。それに気付いたのは、俺がこの部屋の中を覗き見た時の穴から視線を感じたからだ。

 俺は振り返ると同時に扉に向かって走った。入口の前には何かがいる。

 それは、恐ろしい姿をしていた。一見して、体を構成するパーツは人間と同じそれである。しかしそいつは両腕と両脚で四つん這いで地にへばり付き、背中からは腕がもう二本生えている。背中から生えた腕は人間よりも関節が一つ多い。衣服のような物を胴に巻いているが、よく見ると髪の毛だった。髪の毛が絡み合うように大量に胴に巻きついている。そして何より凄まじい形相でこちらを見ていた。顔は人間と同じ構造だが、眼球は落ち窪み充血して真っ赤に染まっている。口は大きく裂け、歯は全てが犬歯のように鋭く尖っている。俺は咄嗟に思った、こいつは鬼だ。人間を食らう食人鬼なんだ。

 異形のそれを俺は飛び越えた。幸いなことにその化物は背が高くない。人間よりも大きい体をしているが、大型の四つ足動物程にしか体長はなく、俺は手に持っていた干し肉の塊を異形の鬼の顔面に投げつけ、怯んだ隙に飛び越えたのだった。

 俺は小屋を回り込む為に全力で走った。前方には三体の鬼が待ち構えている。そして走りながら後ろを振り返ると、背後からは五体の鬼が走って追いかけて来ていた。鬼は凄まじいスピードで距離を縮めてくる。そしてその口から恐ろしい叫び声を上げた。それは熊か何かの吠える鳴き声のようでおよそ理性があるようには思えなかったが、その印象に反し、鬼共は背中の腕で石を拾い上げ、俺に向かって投げつけた。何発が命中し、失速する。俺は小屋の壁を蹴破って再度侵入した。干し肉が保存されている棚を乱暴に引き倒すと、鬼は思いの外苦戦した。再び距離を取った俺は反対側の壁を蹴破って外に出た。

 幸い小屋の裏側には鬼は待ち構えていない。俺は元来た道を全速力で走った。再び樹海に入れば逃げ切れる。平原に出てしばらく走ると、後ろから怒声が聞こえ始めた。振り返ると。奴らは百体以上の大軍となって俺を追いかけて来ていた。俺は恐怖に脚が絡れながらも必死で走った。

 奴らは此処で人間を飼っていたのだ。それも、自分達がそれを食べる為に。おそらく奴らは廃墟街で生活をし、平原の小屋で人間を家畜同然に扱っている。そして、おそらく人間の養殖まで行なっているのだ。

 待てよ、だとしたら俺が食べた干し肉は・・・・・・。

 その時、俺はつんのめるように平原に叩きつけられた。転がるようにして急失速すると、次の瞬間右脚が焼けるように痛んだ。

 俺の右脚には槍のような物が突き刺さっていた。背後に迫る異形の大軍をよく見ると、鬼達は背中の腕に槍のような武器を手にしている。奴ら、それを投槍のようにして攻撃して来たのだ。

 化け物がすぐ近くにまで迫る。ああ、終わりだ。俺もこいつらに食い殺される。

 そう諦めた瞬間、大軍の少し前に俺と同じ姿をした、つまり人間が走っていたことに気が付いた。そいつは全裸の女だった。

 そうか、逃げているのは俺だけではなかったんだ。この女はおそらくどこかの小屋から逃げ出したに違いない。考えてみればおかしいと思ったんだ。俺が干し肉を貪っていた時に感じた視線。鬼達は人間よりも背が低いではないか。俺が背伸びをして覗いた壁の穴からこちらを覗けるはずがないのだ。それに、俺が壁を蹴破って小屋の裏に出た時に奴らは待ち構えてはいなかった。

 逃げ惑う女の姿を、俺はただ眺めていた。逃げる女、いや逃げる人間。その姿に俺は既視感を感じた。そうだ、俺は・・・・・・。

 女が俺の側まで逃げて来た時、俺は女の脚を掴んで地面に押し倒した。女は予想もしていなかったのか、それに対して驚愕と恐怖の表情を浮かべる。そして鬼の大軍は徐々にスピードを落とした。遂に獲物を捕らえたと確信したのだろう。

 俺は全てを思い出した。俺は小さな村を渡り歩く旅人だ。だが、ただの旅人ではない。俺は人間を食べる為に村を渡り歩いていたんだ。

 もう幾つもの村を壊してきた。人を食う。人しか食いたくない。

 ただそれだけだったんだ。俺は人を食べることでしか満足を得られない。だから、村にいられなくなる。村人は俺を迫害する。そんな村なんていらない。だから殺し尽くした。

 ある日、俺は楽園の噂を聞いた。人を食う村。食人鬼の村の噂を。だから俺は・・・・・・。

「食人鬼か・・・・・・俺はどこの村でもそう呼ばれてきた。でも、お前らは俺を人間として食うんだな。だけどな、俺は予言する。この世界は長い長い夕暮れだ。お前らは滅びゆく文明の残滓だ。お前らもまた、いずれ食われる運命にある」

 俺は食人鬼の目の前で女の喉に齧り付いた。血飛沫が上がる。赤い、赤い、血が。人間の証が。

 俺の腹は遂に満たされた。 








あとがき


今作は拙作『増殖らきむぼん殺人事件』の登場人物「火凛」が執筆した作品という位置づけになります。

ただそのことはあまり重要ではないです。単体で読めたかと思いますし、この作品の世界に訪れたであろう出来事や謎は増殖の方で説明されるわけではありません。

……関係がないとは言いませんが(笑)


名義が違うのでかなり作風と文章の作り方が違います。

いつもはもっと変換が少なくて改行も多く少しラフですね。


ともあれ、読了感謝致します。



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