1-7 『今もずっと変わらぬ願い』①


 ――わらっているおとうさんとおかあさんが、だいすきだった。






 櫻井彩の両親が離婚したのは、まだ彼女が物心ついてまもない頃のことだった。


 理由は知らない。聞いたことはないし、聞こうと思ったこともなかった。でも彩は、その知らないはずの理由に心当たりがあった。ほかでもない自分だ。


 彩は生まれつき身体が弱かった。思い出のなかの両親は、いつだって心配そうな、少し疲れた顔をしている。ずっと笑っていてほしかったから、迷惑をかけたくなくて少女は無理をしてしまう。でも頑張れば頑張るほど、弱い身体は悲鳴を上げる。


 熱に浮かされながら、ごめんなさい、と少女は謝る。枕元で交代しながら容態を見守っていた両親は、なにも言わずに目だけで笑う。子供ながらに薄々と気付いたものだ。これは愛想笑いなんだろうって。


 いつからか、彩はわがままを言わなくなった。生来は甘えたがりな性格だったが、そんなものはたった二人しかいない家族をもっと困らせることになるだけだと理解していた。手のかからない理想的な子供になろうと努力した。


 諦めて、我慢して、繰り返して。


 成長するにつれて人並みの健康を取り戻したが、いつしか握り返してくれるてのひらは片方だけになっていた。


 ごめんね、と母は言う。その言葉を聞くたびに彩の胸は罪悪感で締め付けられた。たった四文字のなかに、かつての自分の弱さを見せつけられる気がした。


 だってお母さんは悪くない。悪いのはわたしだ。ちゃんと我慢できなくて、迷惑ばかりかける悪い子だったから、家族は壊れてしまったんだ。


 父親がいなくなった。その喪失感は、まだ小さな彩にとって世界が半分なくなってしまったのと同じぐらいの衝撃だった。でも母親だけは彩を見捨てず、どんなときも優しく笑いかけてくれた。その微笑みに何度救われたかわからない。だが救われたのと同じ数だけ恐怖もした。


 もしこの笑顔までなくしてしまったらどうしよう。お母さんにも嫌われちゃったらどうしよう。


 わたしを見捨てないで、わたしをひとりにしないで。


 そう思って、それだけを願った。


 わがままなんて言わなかった。哀しいことも辛いこともぜんぶ一人で耐えた。母親の前ではいつも笑顔を作った。泣いているところなんて見せなかった。


 優しく模範的な娘だと褒められた。優秀な生徒だと評判だった。多くはないけれど仲のいい友達はいたし、勉強も嫌いではなかったから、学校生活は人並みに楽しかった。


 だが幼い頃に父親がいなくなって、大切なものを失うことの心が欠けるような痛みをトラウマとして刻んだ彩は、だれかの特別になることも、だれかを特別にすることも、決してなかった。


 友達はできても、無意識のうちに距離を作っているのか、親友と呼べる仲にまでは発展しない。生まれてから一度も恋をすることなく、恋慕の情を寄せられても断り続けてきた。


 そんな平坦な生活に、しかし彩は大きく満足していた。普通でよかったのだ。病弱を経験している彩にとっては、外で走り回れる体力があるだけでも幸せに思えた。余計な望みを抱いて、自分がなにかをちゃんと諦めきれなくなることのほうが怖かった。母親を困らせなければそれでよかった。


 となりにいる人が笑っていることがうれしくて、それだけが自分の全てだった。


 そうやって、自分のためではなく誰かのために笑う彩の目の前を、ただ諦めていくばかりの日々が過ぎ去っていった。


 だからきっと、出逢うべきではなかったのだ。


 高校の入学式でその少女を一目見たとき、彩はいつになく興味を持ってしまった。堂々と胸を張って、揺るぎない自信に満ち溢れていて、どんなときも前を向いた切れ長の瞳。


 不器用なところもあるけれど、それを感じさせないぐらい一生懸命で、だれよりもまっすぐに生きていた。


 きっと彼女の生き方が、彩とは正反対のものだったから。


 初めてまともに会話したのは、夕暮れの帰り道だった。


 ――ねえ、そんなに面白い?


 クレーンゲームが上手だった。


 ――諦めてたんでしょう? つまり欲しかったってことよね。


 彩がたった二百円で諦めたぬいぐるみを、不器用な優しさで救い出してくれた。


 ――じゃあ、咲良ちゃん。

 ――ええ。そのかわりわたしも彩って呼ぶからね。


 そうして二人の交流は始まった。誕生日を過ぎて、ともに十六歳になった日から。


 まだ彩は何も知らなかった。遠山咲良がどんな人生を送ってきたのか。


 咲良には幼いころからずっと想いを寄せていた年上の幼馴染がいて――それが咲良の心の支えになっていたことなんて、年相応の恋さえ諦めてきた彩には知る由もなかった。


 だから彩は、また大切な人を喪うはめになった。






 鏡に映る顔を、まるで朽ちた人形のようだと彩は思った。


 もともと色白の肌は、疲労と寝不足によって病的なまでの白さに落ちている。唇の血色は悪く、いつもの薄紅ではなく青紫の色を重ねている。濡れた黒髪が肌に張りつき、身体の曲線を拭いきれなかった水滴がぽたぽたと伝って落ちていった。


 母親に似ていると、昔からよく言われた。それが嬉しかった。父親に似ているかどうかは、だれにも言われたことがないのでわからなかった。


 ふとしたとき、彩は鏡をぼんやりと見つめていることがある。自分の顔を見ているわけではなかった。そこに映る、母親の面影を覗いていたかっただけ。


 いつからか、素直な自分では正面から向き合うことができなくなったから。


「お母さん」


 呟いて、脳裏によぎるのは母ではなく、なぜか一人の少年の姿だった。きっと羨ましいと思ってしまったからだろう。母親には幸せになってほしいと、確かに少年はそう言った。あんなふうに何の迷いもなく言い切れる眩しさを、いまの彩は持っているだろうか。


 それに夕貴の眼差しは、どこか遠山咲良に似ていた。この世界にいるはずのない少女に。


 そうだ。もういるはずなんて、ないのに。


 彩が咲良を見かけたのは、およそ十日ほど前のことだ。たしか大学の入学式の数日前だったと思う。街の人混みの中で、じっとこちらを見つめる視線に気付いた。寂しそうに、哀しそうに、ただ何も言わずに注がれる眼差し。まるで周囲から一人だけ取り残されたように存在が浮き彫りとなった咲良の姿を見た瞬間、彩は空洞となった心のなかで、ただ思った。


 今度は、もう間違えない。


 あのとき伝えられなかった言葉があった。ちゃんと手を差し伸べられなかった弱い自分がいた。大雨の中、何も選べずに立ち尽くしたまま、傷つき、傷つけることしかできなかった。


 一年前のあの日から、ずっと後悔して、ずっと夢を見てきた。


 もし何かの奇跡で、もう一度だけ機会が与えられるのなら、わたしは――


 すぐに咲良を見失った。ゆっくりとした歩みで雑踏に紛れていく咲良に、彩はどれほど走っても追いつくことができなかった。深夜まで足を棒にして街を駆けまわったが、かつての親友はどこにも見つからなかった。


 その日から、彩はもうこの世界にいるはずのない少女を探している。


 そして決まって咲良を見かけた日に、名も知らない少女の自殺が報じられるようになった。


 だから昨日、夕貴から藤崎響子がまだ家に帰っていないと聞かされたときは懐かしい絶望を抱いた。あのとき彩は、駅前で夕貴と別れてから、また咲良を見かけて、届くはずのない背を追いかけていたから。


 響子を喪ってしまったときの自分が、容易に想像できてしまったから。


 彩は濡れそぼつ髪をタオルで拭って水気を取る。ドライヤーを使わないのは家人に気付かれないためだった。まだ朝にもなっていない。仕事で早起きの父親でさえまだ夢のなかだろう。二つ年上の兄は寝ているだろうし、母も眠っている。


 それは気遣いではなかった。ほとんど夜明けに近い時間に帰宅したことに対する罪悪感でもない。ただ今後も深夜の徘徊を続けていくことを咎められないようにするための、自分よがりの防衛線だった。


 咲良ちゃんは、かならずわたしが見つける。だから。


 母親の面影を継いだ鏡越しの自分にそう決意してみせる。


 シャワーを浴びて脱衣所を出ると、もう夜が明ける頃だった。窓の外からは瑠璃色が差し、空の向こうから昇る太陽が、夜に冷えた街を地平線の彼方から温めつつある。


 足音を殺して廊下を歩き、二階にある自室に向かおうとする。そんな彩の背に、リビングから出てきた人物が声をかけた。


「彩」


 優しく、それでいて哀しい声だった。耳朶を打った響きに、彩は瞠目して振り返った。そこには眼鏡をかけた理知的な風貌の青年が静かに佇んでいる。電気もつけずにリビングにいたのは、喉が渇いていたのか、それともだれかの帰りを待っていたのか。


「……お兄ちゃん」


 目が合うと、青年は気まずそうに視線を逸らした。まさか家族が起きているとは思わなかったので、彩は薄手の格好だった。しかし、それを踏まえても兄のその気遣いは、妹に見せる反応ではなかった。


 もし血の繋がった兄妹なら直視していただろう。こんな時間までわざわざ妹を待っていたりしないだろう。彩を心配して連れ戻そうとしたりもしなかっただろう。


「……おかえり。いつ帰ったんだ?」


 言葉を探りながら兄が言う。きっと彩が玄関を潜った時間も知っているだろうに。


「一時間ぐらい前。友達とみんなで、ずっとカラオケにいってて。ちゃんと連絡しなくてごめんなさい。これからは気を付けるから」


 用意していた台詞をぺらぺらと淀みなく紡ぐ自分に嫌悪感を覚えた。目を逸らす。兄を見ていると、いつも見当違いの悪罵が口をついて出そうになる。


 それに兄の顔立ちは、どことなく彩の高校のクラスメイトに似ていた。その気になれば、想いを忘れるための代用品として腕に抱かれる少女がいる程度には。


「夜遅くまで出歩くのは、もうやめたほうがいいんじゃないか」

「え?」


 迷うように小さな声で、しかし確かな決意を感じさせる眼鏡越しの瞳に、彩はわけもなく気圧された。


 兄に注意されるのは慣れていた。今回も小言で済むと思っていた。必要以上に踏み込むことをしなくなった『櫻井』の家族。顔の似ていない兄妹。


 でも兄は、台本にはなかったはずの台詞を、今日に限って口にする。


「彩も知ってるだろう。最近はよくないニュースが続いてる。大学生になってはめを外したくなる気持ちもわかるけど、こんな時間まで帰らないなんて普通じゃない。父さんもあんな性格だからうるさくは言わないけど、ほんとうは彩のこと心配してる。もちろん僕も、きっと母さんだって」


 怖かった。彩が考えないでいたことを、記憶の奥底に封じ込めていたことを言われそうな気がして。


「お兄ちゃん、待って……」

「悩みごとがあるなら僕でよければ聞くし、なにか事情があるなら説明してほしい。夜遊びは進めないけど、それも友達の家に泊まるとか危なくないものだったら反対はしないつもりだよ」

「……待って、違うの」


 それに、と彼は目を伏せた。本能的な危機感を覚えて、彼が口を開いたのと同時に彩も声を張り上げていた。


「もうすぐ彩も――」

「わたしは、咲良ちゃんを見た!」


 決定的な一言を告げようとした兄を遮るために、彩は友人の名を利用した。こんなところで出るはずのなかった名前に、兄の目が驚愕に染まった。


「……待て、待ってくれ。いま、なんて言ったんだ? 咲良ちゃん、だって?」

「そうだよ。お兄ちゃんならよく知ってるでしょう。わたしよりも、よく知ってるはず」


 そうでなければ咲良も浮かばれない。兄は反射的に漏れかけた声を留めるように、あるいは吐露しかけた想いに蓋をするように、てのひらで口元を覆った。


「なにを、言ってるんだ。咲良ちゃんは、もういない。だって、だって……」


 兄の動揺は、彩の予想以上のものだった。それだけ彼にとっても年下の幼馴染を喪った悲しみは大きかったのだろう。


 ――レンくん、と。


 親しみを込めて、ときに生意気に、ときに甘えて、そう彼のことを愛称で呼んでいた桜の名を持つ少女の声を、このとき兄は確かに思い出したのだろう。


 咲良を、見た。


 彩が冗談でそんなことを言うはずがないのは、ほかでもない兄が一番よく知っている。いつからか櫻井の家では暗黙の了解として避けられてきた話題だったのだ。少しでも早く、みんなの心に負った傷が癒えるように。


 眩暈を覚えたのか、兄の足元がふらつく。それを見た彩の胸に去来したのは、あってはいけない仄暗い安堵だった。ここまで彼が動じてくれているのを知ったら、きっと咲良はとても喜ぶ。


 だからこそ微かな怒りも覚えるのだ。


「どうして」


 その想いを遠山咲良に向けてあげられなかったのか、と。


 それはこの世界で唯一、彩だけは口にしてはいけない言葉だった。もし言ってしまったら、この仮初の兄妹の関係はほんとうに壊れてしまう。


「……どうして、なのかな」


 今度は、目の前にいる兄にも聞こえないように小さく、舌の上で疑問を転がす。


 ほんとうに、どうして、こんなことになってしまったのだろう。


 それほど大それた望みは抱いたつもりはない。彩はただ、お母さんに笑っていてほしかっただけ。たくさんの面倒と、いっぱいの苦労をかけた。だから巡り巡ってふたたび母が幸せを掴んだときには涙がこぼれるぐらい嬉しかった。


 お義父さんはおおざっぱで体育会系で口は悪いけれど、それを帳消しにするぐらい誠実で家族思いだった。お義兄ちゃんは頭がよくて優しくて、よく勉強を教えてくれた。


 いつだって幸福という名の笑顔で溢れていた。ほんとうの家族になれると思っていた。


 それがいまはこんなにも遠くて、もうあの日溜まりの日々には戻れない。


 呆然自失となった兄と別れて部屋に引き上げると、彩はベッドの脇に置かれているぬいぐるみを見た。


 それはかつての親友から、夕暮れの帰り道で贈られたプレゼントだった。


 高価なものではなく、たんなるゲームセンターの景品である。数年ほど前から人気を博した『ヤーマン』というキャラクターのものだ。小さな子供たちが好みそうなデザインで、年頃の女性はあまり見向きしない。でも彩は好きだった。


 無力でも頑張って、笑われても挫けずに、いつだって最後まで諦めない、弱くて強い正義の味方。


 ベッドに放ってあった携帯を手に取ると、そこにぶらさがる小さなキーホルダーと目を合わせる。


 ぶらぶら、ぶらぶらと、まるで飛べないはずの空を呼ぶように、キーホルダーは中空に円の軌跡を描いている。彩は手を下ろすと、そっと表面を指でなぞった。安っぽい壊れ物の感触のなかに、不器用ながらもまっすぐな少年の優しさの残滓を感じ取った。


「……萩原、夕貴」


 口にしてみると、不思議と心が落ち着いた。夕貴の連絡先を表示して通話ボタンを押そうとしてみる。なぜそうしているのか自分でもまったく理解できなくて止める。メールを打とうとして、こんなときにどんな話題を選んだらいいかわからず、適当に文字を打って眺めては消去するのを繰り返す。


 そうしてけっきょく、携帯をテーブルのうえに置くと、彩はベッドに倒れ込んだ。


 夕貴に逢いたいと思った。理由はあまりない。ただ彼といると、桜がきれいに見えた。大切な人を喪ってしまってからは、どこにいてもどんなときも色褪せて見えたはずの花が、また鮮やかになった。


 もっと彼のことを知りたい。でもそれと同じぐらい、これ以上は知ってはいけないとも思う。もうなくしてしまうのは嫌だった。あんな哀しい気持ちになるぐらいなら、ちゃんと諦めて我慢したほうがいい。初めから大切なものなんて作らなければいい。


 それに彼のことを知ってしまうより、こんな自分のことを知られてしまうほうが怖い。


 櫻井彩を知るということは、一年前のあの日から彩がずっと独りで抱えてきた全ての真相をほかのだれかにも背負わせてしまうということだから。


 傷つくのも、傷つけるのも、もう嫌だった。


 でも一人でずっと生きていけるほど人は強くなくて。


 もしかしたら彩は、とうに限界を迎えているのかもしれなかった。


 まぶたを閉じると、夕貴の姿が鮮明に思い浮かぶ。ただしそこに映るのは現在の彼ではない。一年前、まだ二人が出逢っていなかった頃、とある大舞台で見た道着を身にまとった少年のほうだ。


 あのときの少年を見て、かつての彩は何を思ったのだろう。


 いくら考えてみても、いまの彩には思い出せなかった。

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