1-6 『わたしを、見て』


 彩の生家は、響子を見つけた現場から歩いて二十分もかからない距離だという。


「だからいいよ。ひとりで帰れるから。……その、夕貴、くんに迷惑かけちゃう」

「そう思うなら大人しく送られてくれよ。ここで……その、彩、をひとりで帰すほうが心臓に悪い」

「そ、そっか。うん」

「ああ。だから、まあ、うん」


 さっきまでの慌ただしい騒動の中では羞恥心が緩和されていたが、いざ落ち着いてみると、名前で呼び合うことのくすぐったさを改めて思い知る。例えるなら、吊り橋を渡っている最中は無我夢中で手とか繋いだりもしていたが、渡り切ったら途端にそれが恥ずかしくなった感じだ。


 夜もすっかりと深くなっていた。完全に泥酔して道端で寝ている男がいる。立ち飲み屋は客もいなくなって店じまいをしていた。カラオケ屋にはまだ明かりが灯っていて、酔っぱらった若者のグループが店に入るかどうかで揉めて大きな笑い声を上げていた。


 人気の少なくなった通りを二人は並んで歩く。交わされる言葉はそう多くない。彩は折り畳み式の小さな鏡を取り出して、夕貴からはなるべく見えないような位置でほつれた髪を直していた。


 こういうときは、なるべく自然にコンビニに寄ろうとか提案して、化粧直しの時間を取ってあげるのが正解なのか?


 そんなことを考えたが、もう帰るだけだし、夜道は暗いし、あまり人もいないし、まあ大丈夫だろうと夕貴は勝手に納得した。女の子の身だしなみのことは詳しくないが、彩はもともとメイクも薄くて、近くで見ても化粧崩れなんてほとんどわからない。


 それでも髪を整えたり、薄い唇にリップクリームを引いたりするのは女性としての嗜みなのか。身近にいたサンプルが響子だけだったので、何気ない彩の仕草のひとつひとつがとても女の子らしく映る。


「どうかした?」


 リップを塗り終えると、彩は不思議そうな面持ちで、その瑞々しく濡れた唇を震わせた。軽く化粧直しをしている彼女が気付く程度には、夕貴は見てしまっていたらしい。


「あ、いや、べつになんでもない」

「だったらいいけど」


 慌てて目を逸らすと、彩は小さく笑ってリップをしまう。昼間、大学に持ってきていたものと同じかばんの中に白い指先がもぐりこむ。そのもっとも奥まったところから、見覚えのある雑誌がちらりと覗いた。大学の食堂で託哉が読んでいたものだ。


 やはり、引っかかる。


 これまで己の奥底に潜んでいた小さな違和感が、徐々に鎌首をもたげる。


「それ、まだ捨ててなかったんだな」

「……あぁ、これは」


 彩はわずかに目を瞠ったあと、取り繕うような笑みを浮かべた。よほど興味深い内容が載っていて面白いのか。たんに捨てる機会がなくて何となくまだかばんに入ったままなのか。きっと夕貴がどれか理由を挙げれば、彩はそれに乗るだろうと思われた。


「その服、昼間も着てたよな」

「そう、だったかな」


 響子の弟から連絡があったのはもう日付も変わる頃だ。夕貴は風呂に入って寝巻に着替えていた。日中に着ていた服は洗濯機の中に放り込んである。ずぼらな男の夕貴でさえそうなのだ。こんな状況でも身だしなみを気にする女性らしい彩が、帰宅してからもずっと外出着のままだったとは考えにくい。時間的にもシャワーを浴びて、新しい服を着ていただろう。


 夕貴と別れたあと、もしほんとうに家に帰っていたのなら。


「ずっと聞きたかったことがあるんだ」


 響子を探していたときのことだ。彩は途中で何かを見かけたような反応をしていきなり走り出した。夕貴はてっきり、彩が往来のなかに響子の姿を見かけてそれを追ったのかと思っていた。だが響子はずっと非常階段のところにいたという。


 だったら彼女は、いったい何を見たのか。


「彩は――」


 いや、そもそもおかしいのだ。


「――だれから、響子が帰ってないって連絡を受けたんだ?」


 名称しがたい疑問の棘が、夕貴の胸のうちに引っかかって、いくつもの細かな怪訝を刻み残す。深刻に問い詰めているつもりではなかった。気になったから訊いてみただけ。彩が笑いながら説明してくれるだけで夕貴は心が晴れる。


 しかし、彩は唇を固く引き結んだまま、強い意志を湛えた瞳で夕貴を見つめ返す。そこに浮かぶのは夕貴の知る彩からは想像もつかない負の感情の数々だった。


 悲哀、怒り、迷い、痛切、憎悪、戸惑い――それらが千々に乱れている。


「なんで」


 なにも言ってくれない。相談でも愚痴でも罵倒でも弱音でも何でもいい。彩の抱えている想いの丈を知れたら、夕貴は迷いなく力になれる。守ってあげられる。助けてあげられる。


 なんでもいい。なんでもいいのだ。


 友達と喧嘩したとか、彼氏とうまくいっていないとか、大学生活のこととか、家族との関係とか。


 彩がなにかを言ってくれたら、それだけで。


「今日、だけじゃないな。この前も彩は、俺と別れてから家に帰らなかったんじゃないか?」


 これは直感だった。日が暮れる頃になっても、ぼんやりと非常階段に腰かけていた姿を思い出す。あのとき彩と揉めていた男性は、彼女の親しい友人か、あるいは身内だったのかもしれない。


「なんで、か……」


 表情を翳らせて、彩は黒髪の毛先を弄る。今夜だけでもう見慣れてしまった諦観の色を映す瞳。


「わたしはね。ただ、探しているだけなの」


 繊細な造作のなかに、どこか陰のある愁いを窺わせる整った貌は、皮肉なことに満面に笑みを咲かせているときよりも美しかった。


「それが――」


 彩が何かを言おうとした、まさにその瞬間だった。


 耳鳴り。


 鼓膜を鋭く突き刺す、強烈な耳鳴りが、ふたりを襲った。


「――っ!」


 たまらず悲鳴が出たはずだが、それも聞こえない。平衡感覚さえ揺らぐほどの痛みに、音という音が全てかき消される。ふたりは両手で耳を覆った。ふらついているのは自分の身体か、それとも世界のほうか、それすらも判然としない。


 異変は十秒もしないうちに収まった。しかし、音響機器を共鳴させたときに生じるハウリングにも似たそれは、明らかにただの耳鳴りと断じるにはおかしな現象だった。この場にいる夕貴と彩が同時に体験したのに、すぐそこの道端にいる野良猫は平然と丸くなったままだ。まるで夕貴と彩にしか聞こえていないかのように。


 耳鳴りが消えると、いままで当たり前だった静けさが相対的に強調されて、忘れていた夜の不気味さを改めて浮き彫りにした。知らずのうちに世界が変わってしまった錯覚に囚われる。夜が深く、濃くなって、それを寒々と照らす月明かりが、わだかまる闇をよりいっそう映えさせる。


 いまのは、と疑問を口にすることはなかった。二人はまったくの同時に振り向いた。その先には細い路地が続いていて、暗闇のせいで奥はまるで見通せない。


 予感があったのだ。夕貴と彩は通りから外れて、吸い寄せられるように路地に入った。


 ホラー映画を見て、夕貴はいつも思うことがある。どこからどう見ても丸わかりの危険や罠に自分から飛び込んでいく、愚かでサービス精神旺盛な登場人物たち。俺だったら絶対にむざむざ死にに行く真似はしないと、つねづね考えていた、はずだった。


 でもいまなら少しだけ気持ちがわかる。確かめずにはいられないのだ。もしいま気付かなかったふりをして元の道に戻ったら、訳の分からない何かに背後から飲み込まれそうな気がして。


 そこは飲食店が無数に立ち並ぶ大通りの裏に当たる場所だった。店で出た廃棄物はここに集められるのだろう。いくつものゴミが積み重なっていて、饐えた臭いが漂っている。物影にはネズミが潜む気配があった。


 一つの死体が転がっていたのは、そんな救いのない世界だった。


 仰向けに倒れる少女。その胸には、どこにでも売っている市販品の包丁が深く突き刺されている。いや、突き刺したのか。少女の両手は、しっかりと包丁の柄を握りしめていて、刃が肉体と同化したいまでも離そうとしない。両目をぱっちりと開けて、ここからは見えない月を見るように空の一点を眺めたまま、その瞳は凍えて停止している。


「……おい」


 嘘だろ、と続いたはずの声は、震えてまともな言葉にならなかった。夕貴は恐る恐る歩み寄ると、これが何かの間違いではないかと目を凝らして確認する。だが見れば見るほど、生まれたばかりの鮮やかな死は夕貴の瞳に死者の相を刻んで止まない。どくどくと流れ続ける血が地面に広がり、夕貴のつま先を赤く濡らした。


 まだ生きているかもしれない、という可能性は考えなかった。平凡な大学生である夕貴にもはっきりと死を感じ取れるほど、少女の身体からは生気が抜け落ちていた。地面を濡らす血は、もはや明らかに致死量を超えている。夜に晒された肌は、触れなくても氷のごとき冷たさを伺わせた。


 夕貴が取り乱すことはなかった。現実味がなかったからかもしれない。金縛りにあったかのように動かない身体とは対照的に、頭のほうはぐるぐると正確で模範的な思考を続けていた。


 それは異常なまでに理解に苦しむ光景だった。


 自殺に――見える。


 素人目にも包丁を握りしめる少女の指は固く、殺害してから持たせたとは思えないほどだ。


 しかし普通の少女が、深夜に人気のない路地裏で、わざわざ自分の胸を抉るなんて方法を選ぶだろうか。常識的に考えたらまず選べない。夕貴もわずかに考えただけで背筋が凍る。


 遺体を見下ろす夕貴のすぐとなりに彩が並ぶ。彩は悼むように目を伏せていたが、逆に言えばそれだけだった。取り乱したり怖がったりする様子はない。むしろ夕貴よりも冷静に見えるほどだった。


 だがその冷静さはすぐに失われた。彩ははっと顔を上げて、路地のさらに奥まった闇を睨んだ。


「――咲良ちゃん!」


 その名にどんな意味があったのか、そこにだれの面影を見たのか。彩は一歩を踏み出して、虚空に手を伸ばした。


「待って! お願い!」


 軋んだ声を上げて、それが暗闇に吸い込まれる前に彩は走り出していた。肩口よりも少しだけ長く伸びた黒髪が揺れる。場違いなシャンプーの香りが鼻孔を掠めて、それが皮肉なことに夕貴を現実に引き戻した。


「彩!」


 遠ざかる彩の背と、薄汚れた地面に仰臥して天をあおぐ名も知らない少女。このまま彩を一人にしてしまうことの恐怖と、このまま少女を独りにしてしまうことの残酷さを秤にかけて考える。考えていたはずだった。すでに夕貴の身体は動いて、彩のあとを追っていた。


 一瞬だけ遺体を見る。ごめん、とか意味のわからない言葉が出そうになって、そんなものは偽善ですらないと夕貴は喉の奥に引っ込める。


 いまはとにかく、彩を――


「……あ?」


 微かな違和感を覚えて、夕貴は立ち止まった。


 目。少女の目。死んでいる少女の目。ついさっきまではまっすぐ前を、空の一点を眺めていたはずの目。


 それがどうして。


 それがどうして――いまは俺のほうを向いている?


 目が、合った。


 ぞくり、と背筋に氷柱が突き刺さったかのような悪寒が走る。勘違いだ。初めから彼女はこっちの方角を見ていたのだ。そうに違いない。試しに何歩か進んで視界から外れてみると、遺体はなんの反応も示さない。追いかけてこない。当然だ。すでに亡くなっているのだから。


 夕貴は現場に背を向けて彩を追う。見失わないように、ただ先をいってしまった少女のことだけ考える。


 彩を一人にしたくないのか、ここには一人でいたくないのか。脳がその答えを出してしまうより早く、夕貴は足を前に、ただ前に動かした。


 目はもう見なかった。






 遠く遠く、響き渡るパトカーのサイレンを、夕貴は別世界の物語のように聴いていた。街のどこかで回転する赤色灯は、あるいは救急車のものだったのだろうか。冷たくなった少女よりも他のことを優先した夕貴にはもう知る由もなかった。


 辿り着いた小さな公園は、美しい夜桜で彩られていた。


 薄紅色の雪がひらひらと舞い落ちる。その雅さとは裏腹に、地に落ちている花びらは泥や人の足跡で汚れている。一歩、また一歩と夕貴が踏み出すたびに、桜にはうっすらと血の色がついた。


 ひときわ大きな桜の木のまえに、櫻井彩が佇んでいる。砂利を踏みしめる足音から夕貴の接近に気付いたのか、彩の肩がぴくりと震えた。


「……なんでって、聞いたよね」


 背を向けたまま、静かな口調で切り出す。


「たぶんね、そんなに大したことじゃないの。わたしが玖凪くんからもらった雑誌をまだ持ってるのは、そこに書かれてた記事をちゃんと読みたかっただけ。ほんとうに、それだけだった」


 そう言って、彩はかばんの奥から雑誌を取り出す。ぱらぱらとページをめくる音。


「この本には、いろんなことが書かれてた。いま話題になってる問題から、ずっと昔の、みんなが忘れちゃったような事件のことまで」


 微かに苦笑する。でも夕貴には、彼女が笑っているようには見えなかった。


「一年ぐらい前かな。この街で、通り魔の連続殺人事件があったの覚えてる?」


 彩は手に持っていた雑誌を夕貴に見せた。すでに開いたページには、彩が言った当時の事件の概要が記されている。なんら関連性のない五人が道端で殺された。けっきょく犯人は捕まらないまま、時の流れとともに他のニュースに押し流されて、人々からは忘れられた。


 しかし、それをまだ忘れていない少女がここにいる。


「……遠山、咲良?」


 夕貴が読み上げたのは、事件の被害に遭った少女の名前だった。雑誌でもひときわ大きく載っているのは、彼女を最後にして一連の犯行は幕を閉じたからだ。なにより夕貴がその名だけに強く吸い寄せられたのは理由がある。


 咲良。


 それを夕貴は、彩の口から聞いた覚えがあった。


「そう。わたしの親友、だった」


 桜の香りが混じる夜風にそっと流れる言葉。


「そして犯人は、まだ捕まってない。この街にいる。だから今夜も、人が死んだ」


 論理の飛躍があるように感じられた。夕貴には、以前の通り魔殺人事件が解決していないことと、今夜の自殺したと思われる少女との関連性が結びつかない。


「でも一年前のは通り魔だったんだろ? いま起こってる連続自殺とはまったく別のはずだ」

「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。無関係って、わたしには思えないの。だって一年前のあの日も、今日と同じように耳鳴りがしてたんだから」

「耳鳴り……」


 あの鼓膜を鋭く突き刺したような、確かな痛みを伴う現象のことか。


 それを思い出すと、名も知らない少女が胸に包丁を突き立てて死んでいる光景もまた同時に蘇る。自殺としか思えないのに、他殺のごとき方法で冷たく横たわる少女。言い知れない違和感を覚える、どこか奇妙な死に様だった。


 彩の言い分も合わさって、街を脅かす一連の出来事には、夕貴の想像を超える不吉なものが背後で蠢いているように感じられた。


「亡くなっている人を見て……こういうとき、女の子ならどういう反応をするのが正解なのかな。泣いたり、怖がったり、パニックになったり、そうしたらもっと可愛げがあるかな」


 それは自身に対する皮肉だったのか。彩に恐怖や戸惑いは見られず、混乱している様子もない。凪いだ湖のごとく静かな佇まい。粛々と言葉を重ねる姿には、むしろ触れがたい貴さすら纏っていた。


 そうやって分析できる程度には、夕貴の心も落ち着いていた。こういうときは、もっと取り乱すかと自分でも思っていた。わかりやすく嘔吐でもしていればまともな人間性をしていると誇れただろうか。しかしいま思い返しても、あの光景がトラウマとして刻まれる気はしなかった。


 動揺はあった。ショックも受けた。でもそれ以上に、彩のことが心配だった。もし自分一人だったら、もっと違う反応をしていたはずだ。


 他のことなんて忘れるぐらい考えさせてくれるだれかがいるから、夕貴はいつも通りの強くあろうとする自分でいられただけ。


「いまから一年前、わたしは大切な人をなくした。それを見つけたのは、わたしだった」


 彩は人の死を見るのが初めてではなかった。だから夕貴とは違った意味で平静を保てた。もしかしたらそれは慣れではなく麻痺だったのかもしれない。


 大切な人を喪った――すなわち亡くなった遠山咲良を発見したのは、その友人である彩だったということだろうか。


 全てを語らない彩の言葉に、夕貴はそう憶測を立てた。もしそうだとしたら、そのときの彩の絶望はいかほどのものだったか、もはや推し量ることもできない。


「彩は、そのときの犯人を捜してるっていうのか?」


 思えば、いつだって彩はだれかを捜しているように見えた。


 大切な人を、遠山咲良を奪われたから。


 彩は何度かまばたきした後、薄く微笑した。肯定も、否定もしなかった。それがどういう意味を持つのか、夕貴にはわからなかった。


「さっき、咲良ちゃんって叫んでたよな」


 死んだはずの少女。しかし、彩はその幻影を追いかける素振りを見せた。あのときの必死で、いまにも壊れそうな彩のことは、忘れようとしても忘れられない。


「咲良ちゃん、は……」


 続く言葉を失って、いったん俯くと、彩は思いつめた顔で激しく声を軋ませた。


「でも見たの! 咲良ちゃんを! わたしはこの目で確かに見た! だから、だから……!」


 彩はぐっと唇を噛みしめた。心情が溢れたことを後悔するように。リップで艶やかに濡れる唇から、わずかに血の赤が滲んだ。声からは次第に力がなくなっていく。


「……何かの間違いだったかもしれない。よく似たほかの人だったかもしれない。でもそれが都合のいい幻でも、たとえ幽霊だったとしても、もし咲良ちゃんがいるなら、わたしは……」


 夕貴に背を向けて、彩はもう一度だけ桜を見上げた。いなくなってしまった少女と同じ名をした花にどんな想いを馳せているのか。


 かける言葉が浮かばない。彩がそうだったように、夕貴もまた彼女の行いを肯定することも、否定することもできなかった。


 ――わるいやつがいたら、おれがやっつける。泣いてる子がいたら守ってあげる。


 そんな幼い少年の声が聞こえた。まだ何も知らないでいられた頃の自分は、いまの夕貴を見たらどう思うだろう。


 大切な人に、愛しい母親に、唯一の家族に、かつて手を引かれて家路を歩いた。まだ舌足らずだった少年には、そのときの気持ちをうまく言葉で伝えることができなくて、でも握りしめた手のぬくもりから想いが広がった。


 母親が笑っていることがうれしくて、そう思える自分がなんだか誇らしかった。


 小さくて無力なままの自分でも守れるものがあった。口下手で、変なところで照れて、でもほんとうに大切なことはちゃんと言葉にできた。


 夕貴はもう大人になった。いっぱい勉強した。空手を習って、そばにいる人を守れるだけの力も身に着けたつもりだった。それなのにいま目の前にいる女の子に、気の利いた言葉をかけてやることもできない。その寒さに震える孤独の肩に、そっと触れてぬくもりを分かち合うことさえできはしない。


 彼女の行いを認めてあげることも、間違っていると断ずることもできない。


 櫻井彩は、ずっと死んでしまったはずの少女を探している。日が暮れても、夜になっても、もうこの世界にはいない親友の面影を追って街を彷徨い歩いていた。


 それはいったい何のためなのだろう。もしありえないはずの逢瀬が叶うとすれば、彩はどうするつもりなのだろう。


 そんな彩に、夕貴はいったい何をしてあげればいいのか。何をしてあげられるのか。いくら考えても答えは出そうになかった。


 ただ、夕貴は思う。


 彩のことを放っておきたくないって。


 困っているなら俺が助けてあげたいって。


 そう願いながら、ぎゅっと拳を握りしめる。


 自分に力があるのを、せめて確かめるように。 


 彩はぼんやりと桜を見つめている。背中にかかる黒髪が、たおやかな風に揺られて夜に溶けていく。彩と向き合っても何も言えそうにない夕貴は、彼女を振り向かせることも、彼女の前に回ることもできず、ただその背を見守るよりほかになかった。


 いまこの世界でだれよりも近いはずなのに、こんなにも遠く思える。


 もしこのとき、夕貴が彩の心にもう少しでも触れられていたのなら、もっと違った結末もあったのだろうか。





 次回 1-7『今もずっと変わらぬ願い』

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