八、光①

 蝉丸は帰ってこなかった。

 明日には帰ってくるかもしれない。そう願って、直義は母屋の戸を閉めた。


 囲炉裏ではぶつぶつと粥が煮えていた。

 水を多めに入れて(実は少し枇杷の茶を入れておいた)、ヒカルが飲みこみやすいように緩いかゆとした。

 味噌で味付けをし、塩を足して味は濃くしてみた。病で鈍った舌でも美味しく食べられるようにしたつもりだ。


 ヒカルはあの体調で相も変わらず人形作りに励んでいた。

 今日は休んでいろと言っても聞かなかった。その強情は、やはりヒカルの持ち味のようだ。仕方ないとため息をついて、ヒカルの部屋のある離れの縁側で作業をすることを勧めておいた。


 ヒカルにとっての人形作りとは、ヒカル自身を表現する手段に違いないと直義は感じていた。劣悪な環境で必要とされなくなってしまった命や、苦しみにもがくしかない命を、新しい体に入れてやることで安息を与えていた。


 実はそれが、ヒカル自身の心の安らぎにつながっていたのだろう。裏切られた自分と孤独な魂を重ねていたに違いない。


 母屋からそっと覗くと、ヒカルは意外にも直義の言った通りに、離れの縁側で黙々と木を削っていた。

 あの粗い木の塊だった頭部は、ヒカルの手によって優しげな表情が彫りおこされ始めている。


 灯りに浮かび上がるヒカルの顔は、真剣そのものだった。

 凛とした眼差しは手元にそそがれ、細い鼻筋を通った先の口元は、なめらかな薄い唇を引き締めていた。

 それは可憐でもしおらしいでもなく、気高く力強い芯の通った美しさだった。だからこうして、見とれてしまう。


 大きな瞳が不意にこちらを捉えた。

 しかし一度視線は合ったはずなのに、気付いていない素振りで彫り続けた。


「夕餉の支度ができた。食べるか?」

「いらないよ」


 それだけ言って人形作りに集中するので、直義は腕を組んで、聞こえるくらいの大きなため息をついてやった。


「食べねば体が持たぬぞ。そちらへ持っていく。片付けて待っていろ」


 昨晩は逆髪の作った食事をほとんど残していた。今日は朝も昼も眠っていたので食べていない。さすがにまずいので、直義は無理矢理にでも口に詰め込むつもりだった。


 蝉丸と逆髪が教えてくれていたので、食器を探す手間は省かれた。適当な食器を揃えて盛りつけると、それらを持って離れに向かった。

 まだ木を彫っていたヒカルは、渋々に道具を置いた。


「いらないと言ったのが聞こえなかったかい?」

「聞こえていたが聞き流した」


 どんと茶碗を置いてから、刀を置いてヒカルの隣に座った。屋敷の中だが、万一の時でもヒカルを守れるように刀を持ち歩いている。


「お前には食べ物が必要だ。無理をしてでも食べろ」


 ヒカルはフンと鼻を鳴らしてちろりと椀を覗くと、ぎょっと目を見開いた。


「なんだいこれは! もうほとんど汁物じゃないか!」

「これなら食べやすいだろう。少しでもいいから、食べられるだけ食べておけ」


 そう言って自分も椀を取ったが、ヒカルは同じものが入っている直義の椀と自分の椀を交互に見てから、不満げにこちらを睨んだ。


「どうした。まだ文句があるか?」


 ヒカルはぶすっと黙っていたが、観念したのか、ようやく椀を手に取った。


「熱いのは苦手か?」


 ずいぶんの間粥とにらめっこをしていたので、そのように聞いたが、ヒカルは答えずに椀を突き返してきた。


「やっぱりいらないよ」


 顔色は悪かった。


「食べねば病とも闘えぬぞ」

「食べたくない」


 仕方なく椀を受取り、冷ましてやってからひと匙すくい取った。


「ほら、食べろ」


 ヒカルはしばし警戒する小動物のように匙を睨みつけていたが、もう一度「食べろ」と匙を突き出すと、直義の手から匙を取り上げてようやく一口食べた。


 直義はほっと一安心したが、またヒカルの咀嚼数が異常に多いことが気になった。

 ほとんど噛まなくてもいいようなゆるい粥なのに、嫌いなものを飲み込まない子供のように、いつまでたっても口をもごもごさせている。

 どうしたのかと思っていると、意を決したかのように、ヒカルはごくんと飲み込んだ。


 しかし直後、むせ返って咳込んでしまった。


「お、おい!」


 慌てて背中を撫でたが、今度は全く治まりそうになかった。それでも背中をさすり続けて、祈るように治まるのを待った。


 ヒカルが食べ物を拒んでいた理由がようやくわかった。食べたくても食べられなかったのだ。


 乾いた咳が続いた。

 息ができずに苦しそうだったが、次第に咳と咳の間隔が長くなり、その間にヒカルは思いきり息を吸った。


「すまなかった……。水は、いるか?」

「いらない」


 整えている呼吸の合間に小さく言って、木屑の積もった手拭いの裏側で口元を拭った。


「重湯なら大丈夫か?」

「多分、駄目だろうね」


 かすれた声を咳払いで隠して、ヒカルは口をつぐんだ。


 何かを暗示するような静けさが怖ろしくて、直義は辺りを見まわした。何か別の話題を探そうとしたのだ。この静けさを吹き飛ばしてしまえるのなら、どんな些細な話題でもいい。


 雑然としたヒカルの部屋に目をやった。その辺りに転がっている不思議な絵付けの小箱一つとっても、いくらでも話題は上がりそうだ。


 奥に文机がいくつも並んでいて、その上には大小の箱や書物が積み上がっていた。

 書物は敷かれている布団を囲うように散乱している。壁側に向いている意味を成さない置き方の衝立ついたてのそばに転がっていた一冊を、直義は手にとった。


「書物の山だな。全て読んだのか?」

「読めるものは一通りね」


 意外にすんなり返ってきた答えに驚きつつ、直義は適当に本を開いていた。

 目を落とすと、読む気も失せるほどにみっちりと漢字が敷き詰められていた。


「それは儒学の本だよ。海を渡ってやってきた本さ」

「まさか、唐のものか!」


 興味なさげにこくりと頷いて、部屋の奥を顎で指した。


「南蛮からのもあるよ。あれはなかなか面白い内容でね。文字が読めなくて残念だったけれど、内容は人伝いに聞いた。死んだ人間が甦る物語が書いてあるそうだよ。あちらではそれを崇めるらしい」


 そう言ってから、「どうやって甦ったのか、教えてはくれないだろうかね」と苦笑した。


「これも南蛮のものか?」


 直義が拾った小箱には、見たこともないほど鮮やかな彩色で模様が描かれてあった。中央には雉よりももっと明るい色合いの、不思議な形の尾羽を持った鳥が描かれている。

 それを見せると、ヒカルは少し声を明るくした。


「絵付けが綺麗だろう? どんな釉薬でそんな鮮やかな色が出るのかはわからないけれど、陶器の人形の参考にしたんだ。釉薬が映えるように白く焼のは苦労したけどね」


 小箱を置いて、直義は代わりに茶碗を持った。

 手早くすすると、緩い粥はすぐに腹に納まった。


「今の人形は木で作っているのか?」


 ヒカルは「そうだよ」と小さく頷いた。


「近頃は土をこねる体力もないからね」


 昼間の法師蝉に変わって、虫の声がリリリと聞こえる。

 直義は「そうか」としか言えなかった。


 そこでまた沈黙が舞い戻ってくるかと思いきや、ヒカルの方から話を続けた。


「もともと人形は木で作っていたんだ。陶器のは、ほんの四人分しか作っていない。一番最初が逆髪で、次が蝉丸。瑠璃と、瑠璃のすぐ後にもう一人。それだけだよ」

「今言った瑠璃のすぐ後に作った人形というのが、瑠璃の代わりに京へ行ったのか?」


 ヒカルはすんなりと肯定した。


「その人形には、青い目を入れることはできなかったのか……?」


 出た声は、虫の声にかき消されてしまうかと思うほど、悪いことをしでかした子供のように小さな声だった。

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