七、秘密③

 ヒカルは口を結ぶと、どういうわけだか不思議と、憑きものが落ちたようなこざっぱりとした顔をしていた。


「どうだい? なかなか面白い話しだったろう」


 まるで人事のように言っているが、直義は息を呑んだ。


「どうしてそんな顔をするんだい? あんたが落ち込む話じゃないのに、おかしいね」


 気丈に微笑む姿は、痛々しいほど健気だった。


 人を愛し慈しんでも、誰にも愛されない。それどころか、傷つけられる一方。

 よくもここまで強く生きてこられたと、直義は胸が苦しくなった。


「人形師という肩書にはずいぶん助けられたよ。雨風しのげる立派な屋敷ももらえたし、食べ物の心配もしなくてよかった。御屋形様お抱えという地位もあったから、社に閉じ込められたり、棒でつつかれることもなかった。たまに檻の中には入れられたけれどね。でも人形は完成度を高める度に値を上げて、気がついたらまつりごとの道具になっていた」


 いつの間にか日は傾いて、茜色の夕陽が射しこんでいた。


「でも疑問ばかりが募った。魂を慰めるために作った人形だったのに、その人形たちは本当に幸せなんだろうか、ってね。気に入られなくて壊されてしまわないだろうかとか、飽きられて放ったらかしにされてしまわないだろうかと、不安になる。それなら、そうされないような立派な体を作ってやろうって、毎日試行錯誤していたんだ。そんな時にあんたが瑠璃を拾っていたのを知って、私は自分のしていたことが正しかったのかなと、ほんの少しだけど、初めてそう思えたんだ」


 こちらをじっと見る瞳は、波のない澄み渡った湖のように、穏やかで美しかった。鼓動がどくりと鳴ったが、次に庭へ動いたその眼差しがあまりに悲しそうに見えたので、直義は目を細めた。


「それなのに、自分でも気付けなかったほどに、私は自分のことが大切だったみたいだ。瑠璃には悪いことをしてしまったね。親の私は、あの子の幸せを願ってやらないといけなかったのに」


 直義は必死に首を振った。


「違う。お前は悪くない。私が瑠璃を引きとめなければ、こんなことには!」


 ヒカルは目を丸くして驚いていた。それから、ふと何かに気付いて苦笑した。


「蝉丸から聞いたんだね。まったく、あれは本当にお喋りだ」


 ため息をついて見せたが、その姿は、子の悪戯を微笑ましく見守っている母のようだった。そして怒るわけでも癇癪を起こすでもなく、静かだった。

 そして一度目を伏せて、もう一度顔を上げた時には、ヒカルの表情には喜怒哀楽も何もなかった。


「切腹のことは気にしていないよ。いずれこうなるものと踏んでいたさ。人間なんてのは簡単に裏切るからね。これだけ重宝されたら、落ちるところまで落とされるのだろうと思っていたから、予想が的中しただけさ」


 最後の方で、光司郎の歪んだ笑みで嘲笑った。


 人はそんなんじゃない! そう叫ぼうとしても、ヒカルの遭遇してきたものを考えると、軽んじて喚くことはできなかった。


「魂はあんなに美しいのに、どうして生きている間にこんなに歪んで汚れてしまうのだろうね。他人のことじゃない。私自身のことさ。自分でも嫌になるほど汚い泥にまみれてしまった。それでもね、こんな世では、泥にまみれている方が少しばかり心地いいのさ」


 褪めた瞳は、まるで枯葉のようだった。


「切腹は、本当にどうでもいい話さ。切腹なんかしなくとも、私はすぐに消えていく」


 心なしか、ヒカルが身を縮めたように見えた。


「本題に移ろうか。あの黒い手は、もうあんたが察している通り、私に左手をくれた黄泉の国の番人だ。左手は私が持っているから、黒い手はどれを見ても律義に全部右手なんだよ。ていよくうまい具合に私を魂ごと喰らおうって、虎視眈々と目を光らせているのさ」


 そう言って、にたりと笑った。まるでヒカルの方が黒い手を喰らってしまいそうなほど挑戦的な笑みだった。


「あいつは私が病にかかった頃から、突然現れるようになった。最初はまるで幽霊みたいに、ふわりと視界の端に現れた。足をつかんだり、腕に巻きついたり。そんな程度だったのに、病が悪化すればするほど、あいつの姿は大きくなっていった。あんたが見た瑠璃から伸びた黒い手、そしてさっき見た黒い靄。あんな風に現れては、私を追い詰めようとする。きっと死に際の、魂が抜け出る直前を狙っているんだね。面白い! その挑戦受けて立とうじゃないか!」


 狂人のように目を光らせた。かと思ったら、夕暮れの朝顔のように萎れてしまって、静かになった。


「……でも、もう疲れた」


 底が見えないほど深い井戸の中に沈んでいくような声だった。


「あいつはここのところ毎晩現れる。寝ている間が好機だと襲ってくるから、病の体でもおちおち休んじゃいられない。眠れば、いつ首を絞められるかわからない。さっきはもう限界で、誰かが見張っていてくれたら、もしかしたら大丈夫なんじゃないかと思ったんだけれど、あいつには関係なかったみたいだね」


 猫のような大きな瞳をこちらに向けて、うっすらと寂しそうに微笑んだ。


「魂を操るなんて大層な力を持ったけれど、死なんてあっけなく訪れる。この手で存在を確かめられた魂も、正体まで暴くことはできなかった。けれど、大きな謎の魅力に気付けて、これでも私は楽しく生きられたよ」


 そして凛とした目で、こう言った。


「最期にこんな話を聞いてくれて、ありがとう」


 そんなごまかしが、本当に通じると思っているのだろうか。直義は、ぐっと堪えていたものを、ようやく吐きだそうと決意した。


「勘違いをするな。お前は好奇心で魂を探究していたんじゃない」


 直義の断言に、ヒカルは眉をぴくりと寄せた。


「お前は怖ろしいんだ。黄泉の国の番人に喰われた後、跡形もなく消えてしまうんじゃないかと怯えている。だから、魂を喰われても自分が喰われるというわけではないと信じたくて、魂と自我は別のものだと必死に証明しようとしていたのではないのか? もしあの手に喰われれば、お前はお前の言う輪廻に還れず、生まれ変わることもできないかもしれない。それが酷く怖ろしいのだろう」


 ヒカルは眉を吊り上げ、睨みつけてきた。


「私は怖ろしくなんかない! 黄泉の国の番人に喰われるなんて、魂を操る人形師の最期にふさわしいじゃないか!」

「それならこの手は何だ!」


 直義が掴み上げたヒカルの右手は、小刻みに震えていた。

 ヒカルは唇を噛んで、直義を睨み続けた。


「それだけではない」


 歯をぎりぎりと食いしばるヒカルに、直義は諭すように、ゆっくりと言った。


「お前は誰よりも人が好きなんだ。人を救いたいという、幼い頃の気持ちは今でも生きている。体を治せないならば心を満たしてやろうと、お前は自分が持てる不思議な力を人のためにどう扱うべきか、ずっと追い求めてきたんだ」


 悔しいとも悲しいともつかない、数々の思いをぐちゃぐちゃに混ぜた顔で、ヒカルは何も言わずに黙っていた。


「お前は慈愛に満ちた心を持っている。その心は、あの時は裏切られたかもしれないが、今は違う。光司郎となってしまったお前には気付けなかっただろうが、それでもお前の愛を受け、お前を愛し続けてきた者たちはいる。その手でこの世に生を授けた人形たちは、お前を愛しているんだ。蝉丸と逆髪は、そう言っていた。お前は独りじゃなかったんだ」


 大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が流れた。涙が筋を作る前に、ヒカルは両手で小さな顔を覆い、涙を隠すように顔を背けた。

 それでも溢れた涙はぽたりと落ちて、夜着に染みをつくった。大層な力を宿した両手は、涙すら受けとめられないでいた。


「今までよく耐えた。もう光司郎を演じなくても、みんながお前を守ってくれる。そろそろヒカルに戻らないか? 大丈夫、私がずっと傍にいよう」


 そっと手を回して抱き寄せると、ヒカルは首を振った。

 だから直義はヒカルの背を撫でてやるだけにした。

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