頑張れ。四年前の──私。

YU+KI

2016、夏。

「大丈夫だよ。これでも私、むかし陸上やってたんだから」


 ──そう言って段ボール箱を持ち上げる私は、タオルをバンダナ代わりに巻いた彼の心配を他所よそに階段を登って行った。


「……え?中で荷解きしてろって?あっ」


 無理矢理取られた段ボールは案外重いと思う。それでも陸上で鍛えた体に自身のあった私には大した苦じゃなかったのに。まったく、もう。


「ドア、開けるよ」


 白色のドアとぴかぴかなドアノブ。開けた部屋にはまだ、茶色の段ボールが積み重なっているだけ。長く人の住んでいなかった独特な新居の匂いが、これからの生活を私に想像させる。


「気を付けて。ありゃ、紐踏んじゃうよ!どかすから待って!」


 転がって伸びたビニール紐を巻き上げて片付ける私は、じんわりと汗をTシャツに濡らした彼を見上げて微笑んだ。


「もう大丈夫だよ。置いて」


 いつからだろう。この人を好きになったのは。


「じゃあ、私は荷物開けてるからね」


 いつからだろう。自分が過去形の話しを笑いながら言える様になったのは。


「え?いいよ。早く終わらせてご飯食べにいこ?頑張ろ!」


 いつからだろう。


 私が、この四年周期のスポーツの祭典を、意識しなくなったのは。


「……見たいの?もう、しょうがないなぁ」


 隣に座り込んだ彼のスマホに、写し出されるトラックの白線、パンパンに張った筋肉を躍動させる、選手達。


「あっ、けっこう凄いね、日本」


 ただ何となくそういう時期だから、そんな普通の見方で見ている彼とは私は違う。


「そうだよね……そりゃ外国人には勝てないって……」


 私には、わかるんだ。


 今ここで、電波を伝わって流れる映像の彼らが、彼女らが、どれだけの練習量をこなしてそこに立っているのかが。


「マラソンは、今回いけるんじゃないかな?」


 そして、どれだけ他人との、自分との記録の勝負に打ちひしがれてきたのかが。私には、わかるんだ。


「あっ」


 だって、私は。


「……え?なんでもないよ」


 一瞬、顔に出てしまった私の中に眠る、忘れたはずのソレは、見慣れた競技の準備運動の映像と共に甦る。


「頑張れー、頑張れー」


 大好きな彼と新しい部屋で、過去の自分を見詰めてるんだ、私。


「……違う!」


 ああもう、そっか、私、全然自分に言い聞かせられてなかったんだ。もう、四年も経つのに。


「あっ、ごめん。つい熱が入っちゃった」


 

 ──だって私、昔陸上やってたんだから。




────────────────────




「うん、うん……そうだね大丈夫だよお母さん。この人なら……うん」


 引っ越しが終わって、ようやく二人でゆっくりしていたのもつかの間、彼はいつの間にかソファーで寝ていた。大変だったもんね。ありがとう。


「……えっ?YouTube?うん……本当?へーそうなんだ」


 電話の先の母親が、今日の競技をテレビで見ていて、ふと気付いて調べてみたらしい。


「うん、見てみるよ。懐かしいなぁ、うん。ありがと。じゃあね」


 私の学生時代の大会の映像が、そこに残っていると。今さら見ても。どうせ表彰台にも乗れなかった大会なのに。でも。


「…………」


 スマホのブルーライトに照らされた私の両目は、キーワードの入力に忙しく動いていた。


「あった」


 サムネイルに載っているのは第一走者。覚えてる。私の番はこの後、すぐ──


「ああっ」


 映った。私だ。ぴょんぴょん跳ねて一人前のアスリートらしく準備運動をしている。


「懐かしいなぁ」


 勢い良く走り出したその時の私。動画のシークバーをタップする必要も無く、結果はわかってる。


「……まったく、もう。今日はありがとう。明日からもまた、よろしくお願いします」


 ソファーで崩れる様に眠る彼に、タオルケットを一枚掛けてそっと頭を撫でた私は、悔しそうにトラックを後にする彼女に向けて、呟いた。



 ──頑張れ。四年前の、私。

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