6

 わたしたちは向かい合ってお互いを見た瞬間なんてなかったから食い違うことも、ぶつかり合うこともなかった。だけど、はじめて、朝陽のいない世界に行きたいと思った。日々その気持ちは強くなった。


 会社の帰りに区役所で離婚届をもらった。


 自分がつくった「何か」にならないといけない気がした。たとえ、自分が望んでいなかったとしても、いまのままではいけない。そんな気がした。


 やはり朝陽とは何日も会えないままで、土日も出張で、区役所から持ってきた離婚届は一週間鞄の中に眠り続けた。


 次の土曜日も、朝から朝陽はおらず、次に彼の姿を見たのは日付が変わった頃だった。


「おかえり」


 わたしはソファに座り、スマートフォンでニュースを見ていた。いつもなら「ただいま」と言うのに「うん」と言われた。


離婚届けを鞄から取り出そうとためらっていると、朝陽が泣き出した。


「どうしたの」


 一八〇センチを越える大男の朝陽は、突然一六〇センチくらいの少年になった。


「ミシマが、もう、俺のこと、嫌いだって」


 胸が締め付けられて、呼吸ができなくなった。


こんな風に失恋して、朝陽が泣くのは初めてだった。


ほかのひとも、そうなのだろうか。立派に働いているほかの成人男性も、好きなひとに「嫌い」と言われたら、なりふり構わず、幼児のように泣くのだろうか。現世のわたしには、この気持ちはおそらく、一生わからないこと、与えられなかったことだ。失恋した悲しみなんて、恋をしないから知ることもない。それは幸なのか、不幸なのか。


「もう、会いたく、ないって」


 嗚咽しながら崩れていく朝陽を、思わず、両手を広げて包み込んだ。はじめて、朝陽を抱きしめた。体が熱くて、息が渦を巻いて、小さく震えていて、このひとは生きているんだなと感じた。朝陽にとってミシマは「ほんとうに好きなひと」だったのだ。


「大丈夫だよ、朝陽」


 根拠のない、なんの効力のないことばだけど、この涙を止めてみせたかった。


「大丈夫だから」


ここ最近胸のなかで大きくなる「どうしようもなさ」の正体は、わたしが「男」でないこと。朝陽の恋愛対象でないこと。彼の寂しさや辛さを解消してやることができない苦しさだ。


鞄の中の離婚届を朝陽に見せるのはやめた。戸籍上の「女」であるわたしが、「男」の友人である朝陽のために何かできることがあるとすれば、なんでもしてやりたいくらいには、朝陽のことが大切だった。こんなもので彼のこころを少しでも守れるならそれでいい。


いつか、それはあしたかもしれないし、一年後かもしれないが、わたしと朝陽は離れる日がくるかもしれない。でも、性別を持たない愛をわたしはきちんと持っているのだと、朝陽が気づかせてくれた。


 この世の悲しみが、災いが、朝陽に降りかからないように、何度だって彼の庇になりたかった。わたしたちは素直に生きられるほど強くはないけれど、「男」と「女」を使って、現在のこの国の制度を利用できるなら、これからもふたりで生きていくことを選ぶことにした。わたしたちの真実は、わたしと朝陽の中にあればそれでいいから。この先彼が何度失恋したって、慰める存在。わたしは彼にとっての庇でありたかった。

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リモネン 霜月ミツカ @room1103

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